2-04 ファミリア
その世界は生殖を国で一元管理する国家「アバドンナ」と、旧来の家族制度を生殖の基盤とする国家「ファミリア」の対立が続いていた。アバドンナの新米騎士、シリルは偵察中、ファミリアの女騎士マルガリータに遭遇し、先輩騎士を目前で殺される。激したシリルはマルガリータを暴行してしまう。そこにファミリアの主力部隊が襲来、シリルは重傷を負い囚われる。ファミリアの騎士団長ルイジはシリルを殺さず交渉の駒とすることを提言。シリルは意識不明のまま虜囚となる。マルガリータの双子の兄レオナルドは中絶薬を所望するが、ルイジは彼に偽薬を渡しマルガリータはシリルの子を身籠もる。それから半年。目覚めたシリルはマルガリータの妊娠を知り呆然とする。彼の属するアバドンナでは、女を妊娠させた男は重罪人となり、即殺害対象となるからだ。
動揺するシリルにルイジは宣告する。「これは俺が愛する女を踏みにじったお前への報復だ」――。
夜明け前、のせいか、わけもなく心が、疼く。
オリーブ畑の薄闇に身を潜めた、まだ若い顔つきの騎士は、短い黒髪をかき上げると同時に、青い瞳をちいさく瞬かせた。その僅かな気配を察して、隣で同じくオリーブの幹にもたれかかり地面に座しているクロードが、密やかな声で呟く。
「起きていたのか、シリル」
「ええ、なんだか、眠れなくて」
するとクロードも苦笑交じりに、ちいさくシリルに囁いた。
「俺も同じだ。まあ、なかなかそうしようとしても眠れるものではないからな、任務中というものは。なにかと、常に頭が緊張していて。お前みたいな新人の騎士なら尚更だろう」
「まったくです。気の休まる暇もありません」
シリルも苦笑いをしてクロードに応じる。彼は姿勢を少しずらし、肩の力を緩めると、視線を未明の空に投げた。丘の向こうの地平は曙色に染まりつつあり、その端をなにかの鳥の黒い影がよぎっていく。初夏のなまあたたかい風がオリーブの茂みを渡り、そのなかにいるふたりの浅黄色の騎士服をも、ざわっ、と揺らす。
「もうじき夜が明けるな」
「この朝さえ無事に過ごせれば、今日の昼過ぎには、陣地に帰投しているんですね。俺たちは」
すると、クロードが感慨深げに呟く。その短くも気の張る任務の数日を思い出し、噛みしめるように。
「そうだな。今日の昼には、仲間の騎兵が俺たちを回収に来る。そうすりゃ、緩衝地帯の偵察なんていう気苦労の絶えない任務から、ようやくおさらばさ」
クロードがそう応じたその瞬間、丘の向こう側から唐突に、力強い陽のひかりが一閃差し込んできて、ふたりをオリーブの茂みごと包んだ。途端に周囲は鮮やかに色彩を取り戻し、朝の空気が世界に満ちる。その眩しさにふたりは目を細める。そして、互いの疲労の色濃い顔を見やる。
「お互い、シケた顔してやがるなあ」
「仕方ないですよ、ここ三日、十分な睡眠もとれていなかったんですから」
シリルがクロードの軽口に、汚れた騎士服に包まれた肩をすくめると、クロードは長い茶髪を撫で回しつつ、おどけるように語を放った。
「子守唄でも歌ってやればよかったかな」
「子守唄、って、なんですか?」
シリルはクロードの顔を覗き込んで問うた。すると、クロードは地面に置いていた長剣を拾い上げ、ゆっくりと腰を浮かしながら答える。
「俺も詳しくは知らん。なんでも、まだ人間に家族という組織があったその昔、母親役の女が自分の子どもを寝かしつけるために、耳元で口ずさんでやった歌曲のことをいうそうだが」
「ずいぶん、感傷的ですね。そんなもの、過去の遺物でしょう」
クロードの説明に、シリルは馬鹿馬鹿しい、とばかりに応じる。するとクロードが鋭く呟いた。
「まさに、あいつらのようなもんだ」
オリーブ畑が連なる丘にはすっかり朝が来ていた。オリーブの濃い緑の葉が、きらきら、朝陽に眩しく光る。
「そうですね、あいつらのためにあるような楽曲ですね」
「そうだな。しかし、だとしたら、まだあいつらの間には、その子守唄とやらは残っているのかどうか」
「残ってるとしたら、滑稽なことです。まったくもって、我々にそんなにそぐわぬものは、ありません」
「同感だ」
そこまで会話を交わすと、ふたりはなんとはなしに黙りこくった。やがてシリルも静かに立ち上がり、仲間との合流地点へと向かって行軍を再開することとする。任務の完了までは、もうすぐだった。
時刻が朝の九時を迎えるころ、ふたりは最後の小休止を取った。周囲はあいもかわらずオリーブの茂みが続いていたが、あと一時間も歩けば、それも抜け、合流地点に指定された丘に到達することができる。それを見込んでの休憩だった。シリルとクロードは、再びオリーブの木の根元に腰を下ろし、革製の水筒から口に水を注ぎ込んでいた。
そのとき、がさり、と近くでオリーブの葉が擦れる音がした。その気配に、ふたりの緩みかかっていた神経は途端に研ぎ澄まされる。彼らは水筒を放り投げると同時に、その方向に向かい鞘から抜いた剣を構えた。
攻撃は唐突だった。
次の瞬間、彼らに向かって短剣の鈍い光が迸った。ただし、オリーブ畑の奥からではなく、ふたりの真上から。
「シリル、敵は上だ!」
いちはやく反応したクロードが、シリルに向かって叫ぶ。慌ててシリルも長剣を上に構え直し、頭上を見上げる。するとオリーブの木の上を黒い影が素早くよぎるのが目に入る。そして次の瞬間、その黒い影は、クロードの身体の上に鋭い刃を振りかざしつつ地表に降り立った。
「先輩!」
だが、シリルの叫び声よりその黒い影の動きは寸分早かった。黒い影が手にした短剣は、確実にクロードの首を貫いていた。クロードの喉から吹き出る赤い血潮がオリーブ畑に飛散するのを、シリルは呆然として見つめる。土塊に倒れこむクロードの口からは、断末魔すら漏れなかった。あまりにも突然かつ、あっけない仲間の最期に、彼は声を出すのも忘れて、ただ、その場に立ち尽くすのみであった。
だが、彼はそのまま棒立ちになって手をこまねいているほど、騎士として愚かでは、なかった。シリルはすぐに己の意識を、地表に姿を現わした黒い影に切り替える。影はいまや、人の姿となって、オリーブ畑のなかでシリルと対峙していた。そして、息を切らし目前に佇む相手の姿を見て、シリルはちいさく唸った。
「……ファミリアか!」
そう、その緋色の騎士服を纏った敵の胸には、石榴の実をかたどった軍章が、赤く妖しく、ぎらり、光っている。
それこそは、シリルが殲滅すべき対象として、日夜死闘を繰り返している宿敵の証だった。
シリルは、息絶えたクロードの横に屹立しながら、敵の騎士の顔を睨み付けていた。絶命した騎士から流れ出す生ぬるい血液の河が、地表の草むらを、ついでシリルの靴をも赤く浸していく。それを視界の隅で認めながらも、シリルの意識は目前に立つ敵の姿に集中していた。
小柄な騎士だった。その顔は短い亜麻色の髪に隠れていて、表情までは分からない。だが、まだ若い騎士のようにシリルには見える。そして、肩で息をしながらも、血濡れた短刀を手に全身をわななかせながら立ち尽くしているその様子から見て、相手もシリルと同様に、クロードの死に驚き、この突発的な戦闘にどう対応すべきか困惑しているように感じ取れる。自分と同じような、まだ経験の浅い騎士なのだろう、とシリルは冷静に分析した。そう思って改めて敵の短刀を構える手を見てみれば、シリルの推測を裏付けるかのように、微かに震えている。それを確かめるかのように、シリルは長剣の構えを緩めぬまま、一歩、敵兵の方向に歩を進めた。すると敵が叫んだ。
「来るな! それ以上近づいたら、また、斬るぞ!」
その声にシリルは僅かに眉を動かした。意外にも、その声はか細く、そして甲高いものだったからだ。
「貴様、女か」
シリルは敵にまた一歩にじり寄りながら静かに問うた。それに対する返答の代わりに、短剣の輝きがシリルに襲いかかる。だが、それは、至近距離から繰り出されたにもかかわらず、彼の頬を軽く掠めるに留まった。身体を交差させながら、シリルは思わず嗤った。相手が同じ新米騎士だとしても、自分より力の弱い女性であるという事実が露呈したことで、彼の心には幾ばくかの余裕が生じていた。
「何、動揺してやがる。こんな距離で外すなど、貴様はよっぽど剣の腕が下手くそなのか」
「来るんじゃない!」
相手のか細い声からは明らかに動揺の色が見て取れた。シリルは再び足を動かす。それに釣られるように、敵の身体が後退る。それを確かめてシリルはまた一歩、一歩と、オリーブ畑の地表を踏みしめ、長剣を構えたまま相手との距離をじりじり、縮めていく。相手は、シリルの気迫に押されたかのように、また後退る。どのくらいそれを繰り返したのか。遂に、敵の動きが急に止まった。オリーブの太い幹に後ろを阻まれ、動きを封じられたのだ。敵は慌てたように後ろを見やったが、時既に遅く、その身体は、ぴたり、と木に押しつけられている。そして前を向けば、己の首筋にしっかりと狙いを定めたシリルの剣先が、目前に迫っていた。
「よし、そこまでだ。もう逃げられないぞ」
シリルの冷徹な声が、陽のひかりが跳ねるオリーブ畑に響く。敵は焦ったように身を捩って左右を見回す。だが、シリルが宣告したように、そこに逃げ道は残されていなかった。相手は亜麻色の髪を振り上げ、シリルの顔を忌々しげに睨みつける。果たして、シリルの青い目に入ったその顔は、まだ幼さの残る少女のそれだった。
「やはり女か。舐められたもんだな」
シリルはそう言いながら、少女の喉元に刃を突きつけた。少女の緑の双眼が、怒りと屈辱の色に揺れるのを見ながら彼は語を継いだ。
「ファミリアの奴らは、そんなに人材に枯渇してやがるのかよ。その分際で俺たちに楯突こうとは、まったく良い度胸をしているよな」
「うるさい! アバドンナの犬め!」
少女はシリルにそう叫ぶや、いきなり右足を直角に蹴り上げた。咄嗟に、シリルは突然の少女の蹴りを身を捩って躱す。彼女の蹴りはシリルの腿を軽く掠るだけに留まったが、その一瞬、シリルの体勢が崩れた。その隙を狙って、少女はシリルから逃れるべく横に跳躍する。
だが、シリルの反応もさらに素早かった。次の瞬間、彼は少女の細い腕をむんずと掴み、そして彼女を身体ごと地面に叩きつけていた。
「くっ!」
「逃げられないと言っただろ」
いまや、少女は仰向けにオリーブ畑の地表に倒れていた。そして、頬に感じる冷たい感触は、目で確かめるまでもなく、シリルによって突きつけられた剣先にほかならない。