2-14 小公女リゼットは、魔法の装丁と謎がお好き?
交易都市ソレルに暮らす『小公女』リゼットは、大層な変わり者として有名だった。
彼女が愛するものは心躍る物語ではなく、本の『装丁』だけ!?
毎日のように古書街へと繰り出しては装丁本に頬ずりする日々。そんなリゼットにある日、運命の出会いが訪れる。
大切な装丁本を盗まれたリゼットは、犯人を追いかけるうちに不思議な場所へと迷い込む。光が舞う道の先にある禍々しい黒の扉を開けば――そこはなんと装丁本の楽園だった。
煌びやかな装丁本が飾られた店に、リゼットは狂喜乱舞の声を上げる。
「ああっ、すりすりしたい!」
「本から離れろ変態!」
剣呑な表情で現れたのは、装丁店の主で『ルリユール』(装丁師)でもある青年だった。
脊髄反射で弟子入り志願したリゼットは、いつしか本にまつわる事件に巻き込まれていく。
「何があっても本は守って見せます!」
これは変人公女様が、装丁を通して真の愛を知る話……?
「おばあさま、このきれいな本はなぁに?」
少女は祖母の膝の上に置かれた本を見つめ、きらきらと目を輝かせた。色褪せた表紙にはタイトルも書かれておらず、子供の興味をひくような絵も描かれていない。それでも少女の目には、祖母が宝物のように抱えている本の装丁が星のように光って見えていた。
「この本はねぇ、魔法の本なのよ」
祖母は指先でひび割れた装丁をなぞり、優しく少女にささやいた。大切な秘密を共有しようとするかのような声に、少女はごくりとつばを飲み込む。
「まほうの、本? もしかして、どんな願いでもかなえてくれたりするの?」
「いいえ。願いをかなえてくれたりはしないわ。この本にできることは『最良の出会い』を導くことだけ」
祖母の言葉が示す意味が分からず、少女は難しい顔で本をにらんだ。
「さいりょうの……であい?」
「そう、生きる上で大切な人と出会わせてくれるの。この本があったから、私はあなたに会うことができたのよ。リゼット」
リゼットと呼ばれた少女は、戸惑いながら祖母を見上げた。どうして急にそんなことを言うのだろう。小さく首を傾げたリゼットに、祖母はそっと古びた装丁本を差し出した。
「だからね、この本をあげる。あなたにもきっと良い出会いが訪れるわ」
本を受け取ったリゼットは顔を伏せた。小さく肩を震わせる孫に、祖母は眉尻を下げる。
「リゼット、どうしたの?」
不安げな声も少女には届かない。不意に顔を上げたリゼットは、両目をかっと見開いた。
「ふぉおお! うつくしぃいいいいっー!」
奇声とともに始まった表紙への頬ずり。あまりの奇行に祖母の顔から血の気が引いていった。
これが、世にも珍しい装丁好き少女が誕生した瞬間だった。
――――
――
埃っぽいにおいを胸に吸い込むと、何とも言えない幸福感が押し寄せてきた。薄暗い古書店にはいくつも本棚が並び、ぎっしりと書籍が詰め込まれている。本棚の前に立った少女は背表紙に指を這わせ、うっとりとした笑みを浮かべた。
その指先が抜き出したのは、紫色の装丁が印象的な一冊だった。表紙に刻まれたタイトルは『恐るべき魔性の女百選』――どう考えても年頃の少女が好むような本ではない。
「リゼット様。まさかそれをお買い上げになるんで?」
「もちろんです! 麗しき革装丁は手に入れなければなりません!」
迷いのない言葉に、店主は諦めたような笑い声を立てた。リゼットは機嫌よく会計を済ませると、早速自分のものにした『恐るべき魔性の女百選』の表紙を眺める。
「うーん、この滑らかな手触りは上質な牛革でしょうか。オイルもちゃんと馴染んでいるし、状態も良い。いい、いいですね!」
繊細に彩色された紫色と年月を経たがゆえに生まれた味わい。そして何よりこの古い革と油の馴染んだにおい――。
「ああ……っ、すばらしいです!」
すりすりすりすりすり。
リゼットは革表紙に頬ずりする。美しき装丁。それが尊すぎて頬ずりを止められない。
「あの、リゼット様……もうお引き取りください」
「な、くっ。この程度の妨害でわたしの装丁への愛は止められませんよ!」
「あなたの方が営業妨害ですよ! 帰ってください! 『小公女リゼット様』!」
しまいにはほうきで外へと追い出される。それでも表紙への頬ずりをやめないあたり、リゼットの本へ向ける愛と情熱は『ホンモノ』だった。
――リゼット・フォン・ソレイユ。交易都市ソレルの領主の娘である彼女は、『小公女』と呼ばれ人々から親しまれている。しかし彼女には一つだけ大きな問題があった。
「わたしは本が好き! ただし、美しき装丁に限る!」
心躍る物語を好む人は多くとも、本の装丁だけを愛する者はリゼットくらいのものだ。周囲から生暖かい目を向けられようと、彼女の愛は誰にも止められない。
指で装丁をなぞり、感嘆のため息とともにまぶたを閉じる。今日なんて最高に素晴らしい日だ! 天へと昇るような幸福感とはこんなことを言うのだろう。本の重みさえも感じられなくなるほど体が軽くなってくる。
幸せを噛みしめた後、ゆっくりと目を開く。そして再び本を眺めようとして、両手が空になっていることに気づく。
「へ?」
本が消えた。理解不能な状況にリゼットはあたふたと周囲を見渡す。まさか本を盗まれた? こんな道の真ん中、しかもあのたった一瞬で?
混乱で思わず膝をついた時だった。何者かが紫の装丁を抱え、傍らを通り過ぎて行った。ぎょっとして目を見張れば、丸っこい頭の上で三角の耳がぴょこりと揺れる。
リゼットは不可思議な姿をまじまじと見つめた。それは明らかに『猫』だった。二足歩行をしていても、燕尾服を着て大きさが人間の子供くらいあっても『猫』だった。
町になじんでいるその姿が異常すぎて、あんぐりと口を半開きにしにしてしまう。世の中には不思議なことがあるとしても、これはちょっとあり得ない――。
「って、それわたしの本!」
我に返ったリゼットは勢いよく駆けだした。十数歩の距離を飛ぶように進み、『猫』の尻尾をつかもうとする。だが『猫』は素早く振り返り、毛を逆立て威嚇する。一瞬怯みかけたリゼットだったが、覚悟を決めて本に手を伸ばす。
「返して! わたしの本!」
「にゃあ! 冗談だろ! これはおいらの本だ!」
『猫』は可愛い声で叫びをあげ、手前の路地に飛び込んだ。リゼットも遅れることなく後に続く。こんなことで大切な装丁を失うわけにはいかない。奥歯を噛みしめ走り出したが、路地の先はすぐに壁だった。
頭から突っ込み地面を転がる。踏んだり蹴ったりとはまさにこのことだ。恨めしく思いながら身を起こした瞬間、涼やかな音色と共に無数の輝きが宙を舞った。
「なに、ここ」
「にゃあ、お前ついてきたのかよ!」
淡く輝く道の向こうに『猫』が立っていた。リゼットが眉を寄せると、周囲に咲いたスズランが高い音を響かせる。明らかに今までいた道とは何かが違った。異世界なんて言葉が思い浮かぶほどに、この場所は空気からして雰囲気が異なっている。
「わたしの本を返して。それは大切なものなの」
「何言ってんだよ、古書店でさっき買ったばかりのくせして。そんなに大事なら道の真ん中で目つぶってんじゃないにゃあ!」
「そんなの盗む理由にならないでしょ! いいから返してってば!」
「いやだね! どうでもいい理由で本を買いあさる貴族ってもんが、おいら一番嫌いなんだよ!」
リゼットが反論する間もなく、『猫』は身をひるがえし走り出した。その先には一枚の扉がある。青いスズランに縁どられた真っ黒な扉――『猫』はそこに体当たりするようにして姿を消す。
「待ちなさい!」
リゼットはふらつきながらも走り出した。すべては麗しい装丁のため。しかし真っ黒な扉は来るものを拒絶するような気配を放っている。
それでもためらうことはできなかった。あの本は自分と出会ってくれたのだ。だから何があっても守らなければならない。かけがえのない一冊のために、リゼットは扉に手を触れた。
すると扉を中心とした光景が歪んだ。目の前のすべてが渦を巻いて消え去っていく。あまりのことに悲鳴を上げ、ぎゅっと目をつぶった。
何が起こっているの! 混乱と共に叫び続けていると、唐突に肩をたたかれた。
「おい、うるさいぞ」
まぶたを開く。そうして最初に目が映したものは、煌びやかな装丁の数々だった。古びた書架に並ぶ金細工の施された背表紙や、ガラスケースに飾られた宝石の輝く装丁本。
ここは楽園か! 棒立ちになっている誰かの横を通り抜けて、ひときわ目立つ麗しいエメラルドグリーンの装丁に頬を寄せ――。
「何やろうとしてる!」
「うきゃあ!」
首根っこをつかまれて引き戻された。あまりの扱いに涙目で振り返れば、そこには黒髪の男が立っていた。年齢はリゼットよりも少し上くらいだろうか。深い青色の目に剣呑な光をたたえて、こちらを見下ろしてくる。
「な、何するんですかぁ!」
「何はこちらの台詞だ! いきなり装丁本に頬ずりしようとするなど破廉恥な……!」
「だって美しいんですもの! しょーがないです! ああ、すりすりしたい」
「はぁ!? お前、まさか変態か!」
変態と言われてもリゼットは特に反論しなかった。気にせず装丁本に向き直った刹那、視界の端をふわふわしっぽが通り過ぎて行った。
「あ」
目が合う。そこにいたのは間違いなく本を盗んだ『猫』だった。
「ね、ねねね、ねこぉおお!」
「うるさい」
「うきゃあっ!」
再度の首根っこ。リゼットは今度こそ男をにらみつけた。
「あ、あなた一体何なんですか! 邪魔ばっかりして!」
「俺は『ルリユール』だ」
「なるほど、あなたは『ルリユール』さんですか」
「違う。『ルリユール』は職業名だ」
「むぅ、じゃあ名前を教えてくださいよ。わたしはリゼットです」
礼儀として先に名乗っておく。すると職業名『ルリユール』男は、眉間にしわを寄せてそっぽを向いた。
「クライドだ。この魔法書店の店主で『装丁師』をしている」
クライドと名乗った男の言葉を聞き流すことはできなかった。――装丁師。そんな職業がこの世の中に存在していたとは! どういう仕事かわからないが『装丁』がつく以上、リゼットの守備範囲内だ。両手を恭しく差し出してクライドを崇める。
「す、すばらしい! 装丁師! これぞわたしの目指すものです! どうか弟子にしてください『クライド師匠』!」
「はあ!? ふざけるなお断りだ!」
迫ってくる両手を振り払い、クライドは忌々しげに舌打ちをした。それでも再び差し出される手に、装丁師の青年は面倒そうにため息をついた。
「うぜぇ」