2-09 冷凍睡眠で200年、世界はAR全盛期になっていた
瀕死の大怪我をして冷凍睡眠に入った主人公が目を覚ますと、200年もの月日が経っていた。人々はみな生後直後の視神経に装置を取り付け、AR(拡張現実)の中で生活しており、過去から来た主人公はその恩恵にあずかれず、AR世界を見るための眼鏡をもらうも、まともな生活をすることはできない。そんな時、主人公を必要とする組織からスカウトが来る。
温かい。
全身がぬるま湯に浸かっているような心地だった。
ゆっくりと目を開けると、視界が滲んでいる。
ここはどこだ?
周りを見回そうとして――。
(水っ!?)
出した声はくぐもっていた。
俺は水に浸かっていた。全身、頭の上までどっぷりと。
息が……!
バニックになり、空気を求めて押さえて暴れると、目の前にはガラスがあった。
閉じ込められている。
そのガラスの外側を、誰かがばんっと手の平で叩いた。
(助けてくれ!)
声を出すが、水の中では上手く伝わらない。
「落ち着いて下さい!」
ガラスの向こうの誰かが叫ぶ。
落ち着ける訳ないだろ! このままじゃ溺れちまう!
「呼吸はできます! 落ち着いて下さい!」
水の中で息ができるわけ……できるわけ……あれ?
肺の中まで水で浸かっているはずなのに、不思議と息が出来た。
俺はえら呼吸ができるようになったのか?
頭の中に疑問符を並べていると、目の前の男が叫んだ。
「苦しくなりますよ! 覚悟して下さい!」
たった今楽になったばかりなのに、苦しくなるだって!?
(やめろ!)
俺はガラスを叩いた。
どうやら俺は円筒状の容器の中に縦に浮かんでいるらしい。
実験体か……!
嫌な想像が駆け巡った。
ばんばんとガラスを叩くが、割れる気配は全くなかった。
足元から吸い出されるような感覚がして、上からごぼっと音がした。
水面が下がっていき、水面から鼻が出て、口が出る。
「ごほっ、げほげほっ、がはっ」
息を吸い込もうとして、俺は激しくむせた。
水が口からどんどん出ていく。
「落ち着いて。ゆっくり、ゆっくり息をして下さい」
気づくと丸めた背中を白衣の男にさすられていた。
ぜいぜいと喉が鳴る。
男に緑色のガウンを掛けられ、すぐ側にあったベッドへと誘われる。
体が重い。重力が倍になったように感じる。
「横になって下さい」
寝転がると、体のだるさが幾分か楽になった。
「自分の名前は言えますか?」
「名前……田村……田村太一……」
「眠りにつく前の事を覚えていますか?」
男の顔を見ると、その背後に何人も白衣を着た人間がいるのが見えた。
ここは病院なのか?
はっと腹部を押さえる。
「俺、怪我を……! 治って、る……?」
「そうです。あなたは瀕死の怪我を負いました。内臓の大半が破損していて、当時の技術では生存は絶望的でした」
「そうだ……それで、それで……」
「冷凍睡眠に入ったのです」
「じゃ、じゃあ、ここは未来なのか?」
「ええ。その通りです。あなたが眠ってから――二百年たちました」
「に、二百年!?」
俺は思わず上体を起こした。
すると視界が急に暗くなった。
あ、貧血だこれ。
後ろに倒れた後、俺は気を失った。
* * * * *
「これが見えないって言うんだから、不思議なもんだよなぁ」
俺は眼鏡をかけたり外したりして、デスクの際、床のコーヒーの染みを見比べた。
眼鏡をかけると、灰色の絨毯に茶色く広がった染みが見えなくなる。
眼鏡を外して手を離すと、ツルの部分につけた紐で、ネックレスのように首元にぶら下がった。
カゴの中のボトルを取り出し、洗剤を染みにぶっかけて、ブラシでこすった。
みるみるうちに染みが落ちていく。
化学の進歩ってのはすごいもんだ。
バケツの水に浸した布でこすり、洗剤を拭き取る。
清掃ロボットはいるが、こういう隅の汚れは落としてくれない。
だからこそ、俺みたいなブラインドが役に立つ。
清掃員は、俺が就ける数少ない仕事のうちの一つだ。
俺が寝ていた二百年の間に、世界は大きく変わった。
世界政府ができていたり、宇宙開発が進んでいたり、人体再生技術があったり、車が空飛んでたり、まあ、あの頃空想されていた事は大抵実現している。
その中で俺が目下苦労しているのが、拡張現実の実現だ。
簡単に言えば、現実世界にデジタルの世界を重ね合わせる技術だ。
具体的には、視神経に機械を直接取り付ける手術をする。その機械が通信を行い、見せたいものを視界に重ねるわけだ。
もちろん仮想現実も実用化されたんだが、人間、体を動かさないと脳が正常に発達しないらしく、廃れてしまったらしい。
そのほか、脳に色々埋め込んで身体能力を上げたり、視覚じゃなくて聴覚や嗅覚を改変したりってのもあったようだが、定着したのが視覚だった。
だがこの手術、生後間もない頃にやらないと駄目らしい。
成人している俺は対象外。やると脳が壊れると言われた。
っつー訳で、俺にはAR世界を見る目がない。
先天性の疾患や事故なんかで手術を受けられなかった人間は他にもいて、そういう者たちはブラインドと呼ぶ。
正式名称は長ったらしいんだが、医者も上司もこの通称を使っていた。
公的機関からAR世界を垣間見るための眼鏡を支給されてはいるが、三ヶ月たっても、未だに慣れない。
この清掃の仕事に就いている人間にはブラインドが多い。
視界をいじっている普通の人間たちには――どういう仕組みなのかは知らないが――生活に影響のない汚れは見えない。装置が勝手に判断して目隠しをするらしい。
だからこうして俺が働いていられるわけだ。
給料は安いが、瀕死の重傷を負った俺からすれば、こうして生きていられるだけで儲けもの。十分満足している。
仕事を終た俺は、一人乗りの自動運転車に乗って帰宅した。
マンションの玄関ホールも部屋の玄関も鍵は使わない。これもICチップによって開くからだ。
家に入れば勝手にカーテンが閉まって、勝手に電気がつく。便利な世の中になったものだ。
俺は食事をしながらテレビを見るのを習慣としていた。
テレビと言っても、物理的に機械があるわけはない。
白い壁の方を見て、眼鏡を通して見るのだ。
テレビ番組はチャンネルが大幅に多くなったわけでもなく、バラエティやドラマ、ニュースなど、二百年前と変わらない。
視線で操作してチャンネルを変え、ニュースを表示させた。
アナウンサーが着ている服の情報なんかは要らないので全てオフにする。
「げ。この近くじゃん」
連続殺人事件のニュースだ。
空きビルで死体が見つかったらしい。
どんなに再生医療が発達していても、死んだ生物を生返らせる事はできない。
大抵の怪我や病気では死なない今、殺人はさらに重い犯罪になっているが、それでも人は殺人をやめられない。
ま、俺には関係ないけど。
眼鏡を外し、容器をゴミ処理装置に放り込んだ時、ピンポーンと来客を告げるチャイムの音がした。
眼鏡をかけ直してみれば、マンションのホールに女がいた。
『どちらさまですか』
眼鏡を介してメッセージを飛ばす。
『警察の者です』
メッセージと共に表示されたのは、確かに警察のマークだった。
ホールのロックを開ければ、すぐに女は上がってきた。
「何のご用ですか」
「政府からの要請です。入れて頂いても?」
「はぁ」
俺が一歩引くと、女は玄関に入った。その後ろで、ガチャンとドアが閉まる。
「田村太一さんよね」
「はい」
「あなたをスカウトしに来たわ」
「スカウト……?」
「ええ」
スカウトってあれだよな。仕事に誘ってるって事だよな。俺を? 警察に?
何を言っているんだこの人は。
「意味がわかりません。俺、ブラインドですよ」
「ええ、知っているわ。当然でしょ。その上で、あなたをスカウトしたいの。私たちはブラインドが欲しいのよ」
ブラインドだってわかっててスカウト? 尚更意味がわからない。
「役に立てないと思いますけど」
「いいえ。ブラインドだからこそ欲しいのよ。私の目になってちょうだい」
「目に? どういう意味だかわかりません」
「わからなくてもいいわ。あなたに拒否権はないから。これは政府命令よ」
この国が共産主義になったなんて聞いてないぞ。民主主義のままのはずだ。
だけど俺には警察権力に逆らうほどの度胸はなくて。
俺は女に連行さ――同行することになった。