パン屋でトングをカチカチする没落令嬢、実は王子様な店主にいつもからかわれる
ラズーリ王国の城下町には、週に一日だけ開店するパン屋があった。
さほど広くないその店内にはアンパン、カレーパン、クロワッサンを始め、さまざまなパンが並ぶ。しかも値段は安くおいしいため、店が開く日はいつも盛況となるのだった。
もちろん客層は城下町に住む一般市民たち。老若男女がパンを求めてやってくる。
しかし、そんな中に一人だけ不釣り合いな常連客がいた。
肩までかかるふわりとした明るい栗色の髪、水色のワンピースを着て、気品が内からにじみ出た美貌を持つ娘。
彼女の名はパトリシア・ミケーネ。れっきとした子爵家の令嬢なのだが、庶民に混ざってパンを物色している。
「パトリシアちゃん、こんにちは」
「こんにちは!」
貴族でありながら、庶民にも明るく気さくに接し、周囲からの評判はすこぶる良い。
さて、そんなパトリシアには妙な癖があった。
このパン屋ではトングでパンをつまみ、それをトレイに乗せて会計してもらうシステムになっているのだが、パトリシアはパンを選んでる最中――
トングをカチカチするのである。
カチカチカチ……とトングを鳴らしながら、パンを選び、レジに持っていくパトリシア。
一人でこの店を切り盛りするのは店主クリス。
金髪碧眼の端正な顔立ちに、すらりとした長身を誇り、コック着に赤いエプロンをつけている。一見すると冷たそうな印象を受けるが、客への対応は柔らかく人気は高い。
そんなクリスがパトリシアに言う。
「なぁ、なんでお前はいつもトングをカチカチするんだ?」
「え、なんでって言われても……」
「何か理由があるんだろ? 教えてくれよ」
「別にないわよ。単なる癖よ。それより早くお会計してちょうだい」
「分かったよ。えーと、4点で……」
代金を払うと、パトリシアは嬉しそうに店を出て行った。
すると、同じく客だった中年主婦が言った。
「クリス君、あの子のことが気になるの?」
「え、ええまあ」
「あなたは素敵な男だけど、あの子はちょっと高嶺の花だわよ。なにしろ子爵家のご令嬢だもの」
「貴族なんですか」
「ただ……肝心の当主様が不祥事を起こして、だいぶ落ちぶれちゃったけどね。使用人もほとんどいないみたいだし。それでも貴族は貴族だものねえ」
主婦はいくつかパンを購入すると、帰っていった。
パンが売り切れ、クリスが店じまいをしていると、スーツを着た老紳士がやってきた。
「若、今日はいかがでしたかな?」
「今日もバッチリ売れたよ。自分の作ったパンが好評だと嬉しいものだな。楽しかった」
「しかし、クリストファー王子、あなたも変わったことをなさる。未来のラズーリ国王たるお方が身分を隠してパン屋をなさるなど……」
「民衆と直に接することも為政者には必要なことだろう? まあ、趣味が高じてというのもあるけど」
「若のお作りになるパンは絶品ですからな」
「変わった……といえば店の常連客に変わった客がいるな」
「とおっしゃいますと?」
「パトリシアという令嬢だ。なんでか知らんが、いつもトングをカチカチしてるんだよな。なんでだと思う?」
「さあ、私には分かりかねますなぁ……」
「想像でもいいから」
「カチカチということは音を出しておられるのでしょう? ……ということは威嚇かもしれませんなぁ」
「威嚇かぁ……」
クリスことクリストファー王子は「俺、嫌われてるのかな」とつぶやいた。
一方パトリシア、そんな噂をされてるなどつゆ知らず、自分の屋敷に戻る。
屋敷といっても子爵の住む家としてはだいぶ小さなものだが。
彼女の父が王国の予算を着服したと疑われ、爵位剥奪こそ免れたものの、今ではミケーネ家は「名ばかり貴族」に成り下がってしまった。
「ただいまー!」
元気よく帰ってきたパトリシアを、両親が出迎える。
「パン買ってきたから、一緒に食べましょ!」
つとめて明るく振舞うパトリシア。
「すまんなパトリシア……私が妙な疑いをかけられたばかりに……」
「気にしないで、お父様。沈んじゃったものは仕方ないし、後は這い上がるだけじゃない。上を見るしかないんだから、気楽なものよ!」
と言いながらパンを頬張るパトリシア。
彼女の明るさが、両親にはなによりの救いであった。
***
一週間後、パトリシアはクリスのパン屋に来ていた。
やはりトングをカチカチしている。
「これくださいな」
「なぁ……」店主クリスが問う。
「なによ?」
「今日もカチカチしてたけど、なんでだ?」
「だーかーらー、理由なんてないって!」
「ひょっとして威嚇とか? ほら蜂は威嚇する時、カチカチと顎を鳴らすし」
「私は虫扱いか! いっそ毒針で刺しちゃいましょうか! ……ん?」
一人の少年が泣いていた。目当てだったアンパンがすでに売り切れになっていて泣いている。
そして、パトリシアのトレイにはアンパンがあった。
彼女は迷わず少年にアンパンを譲った。
「ありがとう……お姉さん」
「おいしく食べてね」
クリスが尋ねる。
「いいのか? お前もアンパンは好物だったろうに」
「いいのよ。あの子の方が泣くほど食べたがってたんだから、アンパンも喜ぶわ」
「かもな」笑うクリス。
「ひょっとして惚れちゃった~? ……なーんてね」
トングをカチカチしながら冗談めかして言うパトリシアに、クリスは「バカ言え」と目を背ける。
「それにしてもあなたもこんなにおいしいパンを作れるのに、どうして週イチしか開店しないの? 普段は何やってるの?」
「……もし俺が王子だって言ったら信じるか?」
すると、パトリシアは笑って、
「信じる信じる! お会いしたことないけど、確か王子様ってクリストファーって名前だったよね。いつもおいしいパンをありがとう、王子様!」
丁寧に一礼するパトリシア。全く信じていないのが分かる。
「どういたしまして、お嬢様」
クリスも最上級の一礼をする。
そして、顔を見合わせて笑うのだった。
***
パン屋開店の日、今日も来ていたパトリシアはもちろんトングをカチカチしていた。
「まーた威嚇してるのか」クリスがからかう。
「だから威嚇じゃないって!」
怒るパトリシアに、クリスがある提案をする。
「お前、トングをカチカチせずにパンを選ぶことってできないのか?」
そういえばどうなんだろ、とパトリシア。自分でも試したことがないらしい。
「さっそくやってみる!」
トングをカチカチせずに、パトリシアがパンを物色する。
みるみるうちに彼女の顔は紅潮してきた。
顔がこわばっている。
手が震え、汗もかいている。
カチカチを抑えるため、だいぶ無理をしているようだ。
クリスも事態の深刻さに気付く。
「ごめん悪かった! 俺が悪かった! 思う存分カチカチしてくれ!」
「いいの? うるさくない?」
「いいんだ。俺、お前のカチカチ嫌いじゃないし」
「ありがとう……!」
カチカチを再開したとたん、笑顔を取り戻すパトリシア。水を得た魚のように生き生きとパンを選ぶ。彼女にとってトングカチカチは呼吸のようなものだった。
もう二度とカチカチを禁止するのはやめよう……クリスは己の所業を反省するのだった。
***
パンを選ぶパトリシア。言うまでもなく今日もカチカチしている。
この頃になると、クリスもパトリシアのカチカチにある種の法則を見出していた。
「俺、お前のカチカチでお前の感情が分かるようになってきたぞ」
「えっ、ウソ!?」
「先週は悲しんでただろ」
「よく分かったわね……家で悲しい物語を読んだばかりで」
よく当たる占い師に出会った時のように驚いている。
「――で、今日は怒ってる」
「……!」
「なんでだ? カレーパンが売り切れだからか?」
「そんなんで怒るわけないでしょ! お父様のせいよ!」
「お前の父さんが何かしたのか?」
「お父様は不祥事を起こしちゃったわけだけど、それをドルソン伯爵のせいだとか言い出して……。お父様が悪くないのは承知してるけど人のせいにするなんて……。私怒っちゃったの」
クリスは微笑んだ。
「お前はいい子だな」
「えっ、なに急に……」
だが、真顔になり――
「だけど、それだけじゃ社交界を生き抜くことはできない。這い上がりたいのなら、気を付けることだ」
きょとんとしてしまうパトリシア。彼女はまだ、クリスのアドバイスを理解するには余りにも経験が足りなかった。
***
パン屋開店日の午前中、トングをカチカチしているパトリシア。
クリスはすぐに異変に気付く。
「今日はやけに上機嫌だな」
「あ、やっぱり分かっちゃう?」
「ああ、トングの音でな」
「そこは顔や態度で分かってよ!」
と頬を膨らませるパトリシアだが、上機嫌なのは変わらない。
「実はね、今日晩餐会があるの!」
「晩餐会? 初耳だけど……」
「そりゃパン屋さんが知らないのは当然でしょ。伯爵家のご長男グレイグ・ドルソン様主催のパーティーで、私にも招待状が届いたのよ」
「ふうん、それで?」
「この晩餐会に出席したら、今月末に王宮で開かれる舞踏会に出られるよう、働きかけてくれるっていうのよ!」
クリスは表情を変えず黙って聞いている。
「その舞踏会に出られれば、家名を上げるチャンスだし、これはもう気合が入ろうというものよ!」
彼女の言う通り、王家主催の舞踏会で何かしらのインパクトを残せれば、彼女の家が再び浮かび上がれる可能性は高い。悲願だったお家再興を叶えられる。パトリシアはダンスには自信があり、決して見込みがない話ではない。
いつにも増してトングをカチカチし、パンを買っていった。
クリスは王子としての顔で独りごちる。
「ドルソン家か……あまりいい噂を聞かないが……」
***
夜になり、パトリシアは精一杯のおめかしをして、晩餐会会場であるホールに向かった。
父の名誉を取り戻す好機、絶対にしくじるわけにはいかない。
ホールの扉を開き、上品に挨拶する。
ところが――
「ホントに来たのかよ、落ちぶれ子爵のバカ娘」
招待状を送りつけたグレイグのこの言葉。
目を丸くするパトリシア。
他にも彼の悪友とおぼしき連中が、パトリシアを囲んでいた。皆、冷笑を浮かべている。
「こ、これは……?」
「いやー、ナイス表情! お前のその顔を見たいがために、こんなでかい会場貸し切って、みんなを集めた甲斐があったわ!」
パトリシアはまだ状況を把握できていない。凍っている。
「王宮の舞踏会出せるようにしてやるって招待状送ったろ? あんなのウ、ソ。落ちぶれた女をちょっとからかってみただけだったりして~!」
ギャハハと笑うグレイグ。長めの鼻が得意げに震えている。
「信じちゃった? ねえ信じちゃった? んなことあるわけないのにねえ。一度沈んだ貴族に再浮上のチャンスなんかねえんだよ」
ようやく、分かってきた。
「蝶になれるつもりで光に誘われて飛んできた蛾がやっぱり拒絶されるサマは最高だったわ! いやぁ、お前のおかげでうまいメシが食えそうだ!」
大笑いするあいつを殴りたかった。だが、そんな気力はなかった。
「せっかくだからなんか踊りでも披露してくれねえか? そしたら王宮の舞踏会で清掃係ぐらいにゃ推薦してやるよ!」
いっそ踊ってやろうかとも思った。だが、そんな気力もなかった。
「ああ、せっかくだから教えてやるが……お前の親父、ありゃ無実だ」
どういうことよ、と問い詰めたいが声が出ない。
「俺の親父が嵌めたんだよ。子爵のくせに妙に重用されてるから、予算を着服したように工作してさ。冤罪バンザーイ!」
笑いながら何度も両手を上げるグレイグ。仲間も同調する。
バンザーイ! バンザーイ! バンザーイ!
「まあ今更証拠もねえし、どうしようもねえけどな。で、どうする? 踊ってくか? 手拍子ぐらいしてやんぞ?」
パトリシアにできることはせめて涙をこらえることだけだった。彼らに背を向け、走って逃げた。背後から嘲笑の追撃が飛んでくる。
しかし、逃げることしかできなかった。
***
パトリシアはパン屋の前にいた。自然と足がここに向かっていた。
するとなぜか、とっくに店じまいしてるはずなのにクリスがいた。
「……どうした」
「あ、まだやってたんだ。ちょっと入ってもいい?」
笑顔を見せるパトリシア。
店内に入ると、わずかにパンが残っていた。
「なんとなくお前が来るかと思って……残しておいたんだ。腹減ってたら、食べてくれよ。もう固くなってるし、タダでいいぞ」
「気が利くじゃない。ありがとう!」
いつものようにトングとトレイを持つパトリシア。
しかし……。
「今日は……カチカチしないのか?」
「……」
トングを持った手は凍り付いたように動かない。
本能のようなものだったカチカチができないほど、心が打ち砕かれていた。
クリスは優しく告げる。
「何があったか話してくれ。俺はお前のカチカチが好きなんだ。それを取り戻すためなら、どんなことだってする」
すると――
「うっ……ううっ……うああああああんっ……!」
パトリシアはクリスに抱きついた。
そして、パトリシアは全てを打ち明け、クリスは全て受け止めた。
「……事情は分かった」
「ありがとう……おかげでスッキリしたわ。もう大丈夫」
「本当か?」
「うん、ほらちゃんとカチカチできるし」
トングをカチカチする。
「ダメだな。全然いつもの調子が戻ってない」
「え?」
「月末の王宮での舞踏会。お前も来い」
「いや、私……出られないわよ。招待状もらってないし」
「そこは俺が何とかする。お前が来たら入れるようにしてやる」
「パン屋さんがどうやって?」
「ええと……実は俺は宮廷パン職人で、それぐらいの権力はあったりするんだ」
宮廷パン職人という役職が本当にあるのか、あったとしてそんな権力があるのか。怪しすぎる提案だったが……。
「信じるわ」微笑むパトリシア。
「さっき騙されたばかりなのに信じてくれるのか」
「うん、信じる」
「ありがとう。絶対悪いようにはしない」
パトリシアをそっと抱き寄せるクリスのその横顔は、怒りに燃えていた。
***
王宮での舞踏会当日、パトリシアはグレイグに笑われた時の出で立ちでやってきていた。また騙されるという怖さはなかった。クリスを心の底から信じていたからだ。
城門にいる受付役の使用人に、名前を言う。
「パトリシア・ミケーネ様ですね。どうぞお入り下さい」
すんなり入れた。
クリスは約束を守ってくれた。パトリシアは胸が熱くなった。
王宮の大広間にはパトリシアより格上の貴族たちが集まっていた。
もちろん、彼女を笑い物にしたグレイグの姿もあった。
「なんでお前が来てるんだよ」という目つきで睨んできたが、無視した。クリスのおかげで彼との一件は克服している。
舞踏会の司会者が高らかに開会を宣言する。
「それでは舞踏会を始めさせて頂きます。我が国の王子であられる、クリストファー・ラーズベント様からご挨拶を頂戴いたします」
王子を見たことがないパトリシアは、周囲を押しのけて見ようとする。どんな人かしら。
そして、驚いてしまう。
「クリス……!?」
現れたのは、毎週パン屋で会っているあのクリスだった。他人の空似などではない。紛れもない本人。
しかし、王族としての正装をまとっているのでいつもとは雰囲気が違っていた。
「本日は我が王家主催の舞踏会に大勢が集まってくれたこと、嬉しく思う。存分に楽しんでもらいたい」
拍手が沸く。それに応じて柔らかな笑みを浮かべる。
「さて……私から直々に挨拶をしたい人間がこの中にいる」
まさか私――!? と一瞬思うパトリシアだが、違った。
「グレイグ・ドルソン殿、こちらへ」
呼ばれたのはグレイグだった。彼も驚いた様子で王子の前に出る。
「殿下、お会いできて光栄です!」
「こちらこそ」
クリストファー王子は、グレイグの容姿、人柄、さらには経歴を一通り褒め称える。ついに俺の時代が来たか、といった風情のグレイグ。
「その栄誉を称え、この宝剣を授与したい」
クリストファーはグレイグに剣を手渡した。王家の宝剣を与えられるなど、貴族としては最上級の栄誉である。子々孫々までの繁栄を約束されたようなものだ。
「ありがたく!」
宝剣を賜り満面の笑みのグレイグに、クリストファーはある物を見せる。銀色に輝くトングだった。
「話は変わるけど、これ……なんだか分かるかな」
「トング……ですか?」
「その通り。これを……こうしちゃおう」
トングでグレイグの鼻をつまんだ。王子の戯れに、貴族たちは大喝采。
だが、クリストファーは笑顔のまま、グレイグにしか聞こえない声で言った。
「俺は彼女のカチカチが好きだった。それを奪ったお前を許さない」
「は……? カチカチ……?」
なんのことかさっぱり分からないグレイグ。
そして、トングを伝って恐ろしい殺気を感じてしまう。
全身にぶわっと脂汗が浮かぶ。
このままじゃ、鼻をもがれる――!
「うわあああああっ!!!」
恐怖に駆られたグレイグは、与えられたばかりの宝剣を抜き、クリストファーに斬りかかってしまう。
王子はそれをすかさずトングで叩き落とす。
「せっかくの宝剣も、使い手がゲスだとトングにすら負けるんだな」
この瞬間、グレイグの人生は終わった。
どう申し開きしようと、周囲からは王子の戯れに激怒し斬りかかったようにしか見えない。
クリストファーは衛兵に命じる。
「連れていけ」
「はっ!」
脇を抱えられ連れて行かれるグレイグ。彼の父親がやった罪も遠からず暴かれることだろう。そんな終わった人間には目もくれず、クリストファーはパトリシアに歩み寄る。
「来てくれたんだな、嬉しいよ」
「いえ……」
「すまない。結果的にまた騙してしまった」
「そんなこと……あなたは自分が王子だと言ってたのに、私は信じなかったもの!」
しばし見つめ合う二人。クリストファーの面差しはパン屋で見るいつものものになっていた。
「パトリシア……俺は君が好きだ。一緒に踊ってくれるかい」
「……喜んで!」
王子と子爵令嬢という格差のあるカップル成立に、異論は出なかった。
それほど二人の並んだ姿はしっくりきたからだ。
「おっとトングを持ったままだった」
「じゃあ私に貸して下さる?」
パトリシアはトングを受け取ると、それを持つ右手に心を委ねた。
「うん……今までで最高のカチカチだ」
二人は手を取り合い、踊り始めた。
~おわり~
何かありましたら感想等頂けると嬉しいです。