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「副団長が目に見えて落ち込んでおられる……」
「ベレンガリア様となにかあったんだ……」
「絶対そうだ……」
「あの副団長を落ち込ませるなんて、ベレンガリア様以外にいないもんな……」
聞こえてくる部下のコソコソ話にも、ルオーはなんの反応も示すことができなかった。彼らの言葉のとおり、ベレンガリアが理由なのだから噂話を否定や諌める気力が湧かないのだ。
「また婚約者とうまくいかなかったのか?」
と、第3騎士団団長マイツェンが上座に腰掛けながら言った。マイツェンは小柄ながら筋肉質で、髪をオールバックに固めた45歳。面長の顔に肉はなく、頬骨がよく目立つ。顎にある切り傷の痕は、戦禍で付けられたらしい。
部下にも分け隔てなく接する気さくな人だが戦いとなると鬼のように厳しく、それでいて強く、5つある騎士団の団長の中でも取り分け恐れられている。
ここは騎士団の執務室で、巡回や訓練に出ていない団員が事務作業をする部屋である。事務仕事があったルオーが出勤してすぐにデスクに突っ伏したものだから、室内にいた団員達は驚いたようだった。
なにせ、気さくな団長を補うかのようにルオーは規則に厳格だからだ。
マイツェンはルオーを諌めることもなく、部下からの報告書をぺらぺらと捲りながら言った。
「聞いてやるから話せよ。どうせ、いつもみたいに勇気が出なくて手を繋げなかっただとか、キスできなかっただとか、髪飾りがよく似合っていたのにうまく褒めてあげられなかったとか、そんなもんだろ」
かかか、と笑うのは団長の癖だ。
酒やけしているのか声が出ず、ほとんど空気が喉で空回りしているみたいな笑い方なのだ。入隊して以来ずっと聞いている笑い声なので慣れたものだが、このあとの咳き込みはうるさすぎる。
予想通り、マイツェンは激しく咳き込んだ。これで病気ではないのだから不思議だ。
ルオーは机に額を押し当てながら打ち明けた。
「ベルに土下座させちゃったんです……」
長くの沈黙。
そのあとで──
「はああああああ!?!?!?!?」
「副団長が女性を土下座させた!?」
「いや、副団長なら納得だ。副団長の厳しさを侮っちゃいけないぞ」
「で、でも、あのベレンガリア様を!?」
「目に入れても痛くないくらいに溺愛してるのに!?!?」
やいのやいのとうるさい。
ルオーは机を拳で殴り、周囲を黙らせた。
「僕だって、あんなことをして欲しかったわけじゃない! ただ、ただ──」
危険な目に合わせたくなかった。
ベレンガリアが地獄耳少女であることは機密事項で、国王と、リーシェと、騎士団の中にある特別捜査団とマイツェンしか真実を知らない。だから今この場ですべてを打ち明けるのは難しかった。
マイツェンはそれを察したのか目配せで他の団員を外へ促した。冷え切った雰囲気に耐えられなかったのだろう。団員達はそそくさと退室して、執務室にはマイツェンとルオーのみになった。
「なにがあったんだ?」
改めて問われ、ルオーはしばらく言い淀んでいたけれど、昨夜の出来事を語った。
マイツェンは腕を組んで椅子の背に凭れた。難しそうに天井を見上げている。
「……それで土下座かぁ。まあ、話を聞くに相当に純粋な子だからルオーに怒られたと思ったんだろうよ」
「でも、謝って欲しかったわけじゃなかった。犯人探しをやめてくれればいいだけなのに」
「まあ、見付かったら相当やべえからなぁ」
最悪な未来を想像すると、目頭が熱くなる。ベレンガリアの血、肉、悲鳴、涙、鼻水、そんなものが目の前をチラチラちらついて、耳の奥をきいきいと引っ掻いていく。絶対に捕まって欲しくない。安全な場所で、好きな読書をして、時折、顔を上げては微笑んでいて欲しい。
だから、つい強い口調になってしまった。
なのに、あの迷いのない土下座。
貴族ならば絶対にしない行動だ。いや、人間ならば誰だってあんなに簡単に出来ない。自分はそれをさせてしまった。
あのベレンガリアに。
大好きで大好きで堪らないベレンガリアに。
ルオーは頭を抱えた。
「あああああああ。だって他になんて言えばよかったんだあああああ」
「まあ、言ってることはルオーが正しいんだ。お前も謝ったんだろ? なら、それでいいじゃないか。落ち込むのはわかるが、謝ったんならそれで終いだ。それとも許さないとでも言われたのか?」
目をぱちくり。
顔を上げてマイツェンを見る。
「……え?」
「……え?」
マイツェンの目が見開かれた。
「え?」
「え? まさかお前、謝ってねえのか!? 昨日の夜も!? 今朝もか!?」
「え、あ、あやま──」
まったく頭になかった。
朝は合わせる顔がなくて目も見られなかったし、何も言わずに家を出てしまった。いつものように玄関までベレンガリアは見送りに来てくれていたのに。
謝るということが、謝らせたという事実に押し退けられていた。
はッ!
と口を抑えると、口髭を蓄えたマイツェンは呆れた顔でこめかみを揉んだ。むしろ、ほとんど怒っていた。
「あのなぁ! 悪いことをしたらすぐに謝る! 夫婦円満の基本だぞ! 正論でも言い方が強くて嫁を怖がらせちまったんなら、お前も謝るべきだろ!!」
ごもっとも。
ルオーは机にまた突っ伏した。
「ああああああベルぅーーーー!! 嫌わないでぇーーーー! ベルに嫌われたら世界が終わる……!」
「暗黒の副団長が聞いて呆れるな! お前は今日はもう使いものになんねえ! とっとと謝ってこい!」
「馬を──」
「好きなの持ってけ!!!!!!」
そうしてルオーは上着を羽織って執務室を転がり出た。
繋いでいた愛馬に跨って街へと走らせる。人通りが多い場所では全力で走らせられず、歩かなければならないのでもどかしい。
屋敷にはいなかった。
またリーシェと出歩いているらしい。
ああ、もう、どこにいるのだろう。
焦りばかりが募る。早く会って謝らないと。
きっとベルなら許してくれる。
謝りさえすれば、ベルなら──。
ふと聞こえた歌声に目を向けると、見えた公園のベンチ。
そこにはふたりの男女。
リーシェの膝枕で眠るベレンガリアがいた。
淡香色の髪をリーシェの膝に散らせて、その小さな耳をリーシェの手で塞がれて、緊張の糸の切れたベレンガリアは目を閉じて熟睡しているみたいだった。
ベレンガリアのために歌い、ベレンガリアの寝顔を見つめるリーシェの幸せそうな顔といったら。
ルオーは愕然として、震える唇で言った。
「な、なんで、歌なんか──」
そこで察する。
ああ、ベレンガリアのために──。
絶えず音の嵐の中心にいるベレンガリアのために、歌ってやっているに違いなかった。
そんなの思い付かなかった。
これが愛される者と、そうでない者の差か。
「そりゃぁ、僕じゃなくてリーシェを選ぶか」
自嘲する。
柔らかな雰囲気に包まれたふたりを壊す真似なんてできなくて、ルオーは小さく手綱を引いた。




