5
本国は王都を中心とした20の州に囲まれた世界有数の大国である。広大であるがゆえに州ごとに犯罪の特色は異なるし、国境付近では耐えず隣国との争いが続く。その中でも一番の犯罪件数を誇ってしまうのが、やはり最も栄えている王都だった。
だから王都の全域を回ればあの男の声を捉えられると思ったのだけれど、ベレンガリアの耳には届かなかった。
「やはり州を越えないと」
しかし、それでは途方もない時間が掛かってしまう。王都の3倍もの土地を有する州だってあるのだ。1か月後には正式に夫婦になってしまうのだから、それまでにはルオーを呪縛から解き放ってやらなければならない。それを考えると、州をすべて練り歩くのは不可能といえた。
なにかいい方法はないだろうか。
「ええー? でも犯罪って言ったら、やっぱり王都じゃないかなー? 大きい犯罪であればあるほど、王都に集まってくるよ」
と、呑気に花占いをしているリーシェ。
見慣れた街並みに歩き疲れてしまって、ふたりは誰もいない公園のベンチに並んで腰掛けていた。もう日も暮れて夕方になっている。食事を済ませてくるとは言ったものの、食欲はあまりなかった。
「でも、ここまで聞こえないとなると王都にはいないと考えたほうがいいんじゃないかと思って」
「ていうかさ、なんでベレンガリア様が躍起になって捕まえようとしてるの? 耳がいいだけで訓練を受けたわけじゃないんだし、よく考えてみたらめちゃくちゃ危なくない?」
「だって、私とルオー様が本当に夫婦になってしまったらどうするの」
「どう、って? 普通に『おめでとー』でよくない?」
「ルオー様が愛する人と離れ離れになってしまうでしょ。きっと毎日『ああ、僕の愛する人は今なにをしているのだろう。今すぐに会いたい』と嘆いて、私を恨むに決まってる。ルオー様も幸せになれないし、私もそんなふうにルオー様に思われたら胸が張り裂けそうだもの」
リーシェは、そうかなぁ、と首を傾げている。
そうに決まっているではないか。夫婦になったら人生を悲観して、ルオーはきっとベレンガリアのいる屋敷に寄り付かなくなり、愛する人に思いを馳せ、時には涙してしまうかもしれない。
ベレンガリアは首を振った。
そんな思いはさせられない。これだけ誠実に護ってくれたのだ。せめて幸せにしてやらねば。なんとしてでも、ルオーを幸せに。
「なにかいい方法はない? ルオー様に知られないように、犯罪者を探す方法」
「うーん。仮に、ベレンガリア様が聞いた犯罪者をカゲさんと呼ぶとして、そのカゲさんがどこにいるかを調べるのは無理っぽくない? 名前もわかんない。顔もわかんない。声的には男だったとしても、声の低い女の人の可能性だってあるわけじゃん? 探しようがないよ、無理むり。諦めんしゃい。リーシェが生涯、お守りいたしますゆえ」
恭しく胸に手を当てたリーシェは、しかし悪戯っぽく笑っていた。
どうやら給料がいいらしいのだ。
それもそのはずで、多忙なルオーがいないときには昼夜を問わず駆け付けなければならないから勤務の予定が立てられず、ほとんどプライベートがない。自分の生活を擲っての任務だから、かなりの金額を貰っているらしかった。
忠誠心というよりは、集団行動をしなくて済むという協調性のなさと、金のために護ってくれているのだろう。
「まぁ、ルオー様はベレンガリア様のこと好きだと思うけどなあ」
「ありえない。私なんて耳がいい以外になんの取り柄もない。好かれる要素がないの。ありえない」
首を振って否定する。
ずっと否定してきた。期待すれば裏切られると知っている。両親は普通に生まれた弟と妹ばかり構っていた。静かな家の中でうるさいと癇癪を起こす長女など、手に余りすぎていっそ捨ててしまいたいと思っていたに違いなかった。
あの子さえ生まれてこなければ。
何度もそう聞いた。うんざりするほど、よく聞こえた。
勉強を頑張っても、料理や裁縫やその他の家事を頑張っても、普通ではないベレンガリアは愛される資格がなかった。
愛されたいと望む資格すらないのだと気付いたときには、自分の価値のなさに途方に暮れたほどだった。
私に、なにがあるのかしら。
自信という欠片さえ持たずに育ったベレンガリアには、誰かからか好かれていると信じるのはなによりも難しい。
「まあ、まだ王都にもカゲさんを探してないところあるんだけどねぇー」
と、リーシェ。
長い脚を投げ出して、背凭れに肘を引っ掛けている。
ベレンガリアは目を見開いた。そんな場所、あるはずがなかった。耳に届く範囲の王都はすべて歩いたのだ。しかも何周も。
「どこにそんな場所が? だって、私達何度も何度も歩いてきたのに」
「聞こえる範囲にあっても、聞こえない場所だってあるでしょー?」
「聞こえない場所って──」
「犯罪者が集まるところ」
ぴん、と人差し指を立ててみせたリーシェの細目は、わずかに開けられて瞳がちらついていた。その妖しい光はどこか警告色にも見えるし、ゆらめきが誘惑にも見えた。
ベレンガリアはすぐに察した。
「刑務所……?」
リーシェはベンチの上で尻を滑らせて、ベレンガリアとの距離を一気に詰めた。目の前に迫ったリーシェに驚いて顔を見上げると、リーシェがベレンガリアの前髪を撫でるように耳に掛けた。
吹き抜ける風が生暖かい。
まるで悪魔が降り立ったみたいに鳥肌が立つ嫌な風だった。リーシェの香水が鼻を突く。
「どうする? 行ってみる?」
その声音は瞳と同じく、やはり妖艶だった。