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「ねえ、遅すぎない?」
屋敷に戻るころには、すっかり夜になっていた。
そこでベレンガリアとリーシェを出迎えたのはルオーだった。ルオーは隊服のまま玄関に仁王立ちして腕を組んでいる。怒っているらしいとは顔を見ずとも声音でわかった。
「ごめんさーい。ついついベレンガリア様と話が弾んじゃって! 帰りたくなーいってベレンガリア様が言うものだから!」
「そんなこと言ってない」
「またまたぁ」
「本当に言ってない」
「えー? 本音は俺と離れたくないっしょー?」
リーシェのこの空気の読めなさは故意なのだろうか。ルオーが不機嫌であるのはわかるはずなのに、どうして敢えて煽るのか。
ベレンガリアは焦って、尚も嘘をつこうとするリーシェの袖を引いた。
「ねえ、やめて」
リーシェの瞳が高いところからベレンガリアに向けられる。彼の瞳は燃えるような赤だ。いつも糸目で細められているから、その炎に射抜かれるのはやや緊張する。元より人の目を見るのは苦手だから、ベレンガリアはすぐに目を逸らした。
「えー? ベレンガリア様、もしかして怒ってる?」
なんて、袖を引く手を握ってくるリーシェには呆れた。ベレンガリアが溜息をつくと──。
「リーシェ・ドレシャー。他人の婚約者に触るな」
ぎくり、と肩を強張らせる。
その声はルオーだ。ひどい威迫が込められている。
ほら、怒っている。怒っているじゃないか、怒らせたくないのに。
好きになって欲しいのに、嫌われてしまう。
「ご、ごめんなさ──」
「じゃ、俺は帰りまーす。明日もまた来るっすねー」
(……本気?)
これだけ場の空気を悪くしておきながら、するりとベレンガリアの手を離したリーシェはまた糸目で笑って颯爽と歩いて去ってしまった。
なんと門扉を潜ってからも一度も立ち止まらずに歩き続ける足音がするではないか。心音も拍動も一定のままだ。
ベレンガリアは目を伏せたまま動けない。
仁王立ちするルオーを頭上のままに、動けずにいる。
しばらくの沈黙。
「夕ご飯は? 食べてきたの?」
と、ルオー。
「い、いえ、まだ」
「一緒に食べんの? 僕と?」
「は、はい……。お、お許し、いただけるのであれば」
はあ、とルオーの嘆息。
ああ、気まずい。
定時には間に合わせるつもりだったのに、リーシェが途中で買い食いばかりするから。護衛であるルオーが怒るのも無理はない。
「早くおいでよ。夜は冷えるんだから、風邪引くよ」
振り仰ぐと、ルオーは既に歩き始めていた。ほっと一安心。これからも怒られ続けてしまうかもしれないと思っていたのだ。
後を付き従うと、少ししてからルオーが言った。
「あと、他の男に触らないで」
先までの声より、かなり抑えられている音量だった。独り言みたいな、小さな呟き。
常識だろうと呆れているのかもしれない。みっともないと蔑まれているのかもしれない。
ルオー以外に好きな人などいないというのに。
「申し訳ありませんでした。以後、気を付けます」
返事はない。
ただ、ふたりが前後になって廊下を歩くだけ。
◇◆◇◆◇◆
なんで。
なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで?
なんで僕には触ってくれないのにリーシェには触るわけ?
はーーーー??
廊下を歩き進めながら、ルオーは腹が立って仕方なかった。
僕だってベレンガリアに袖引かれたいし、上目遣いで見られたいし、なんなら街の散歩だってしたいし、話が弾んで帰りたくないって言われたいんですけどーーーー??
はーーー?
リーシェも護衛のくせに、はーーーー??
なんで僕と同じ護衛なのに僕よりベレンガリアと仲良くなってるわけ?
はーーーー??
そもそもなんでリーシェはベレンガリアの手を握ったわけ?
そういう関係?
ベレンガリアはリーシェが好きで、リーシェはベレンガリアを弄んでるの?
それとも相思相愛なの?
邪魔者は僕なの?
いや、でもそうだよな。僕は仕事ばかりで碌な会話もしてあげられないし、ゆっくり街を見る時間もないし、窮屈なこの屋敷にいるより賑やかな街を散歩するのが楽しいのは当たり前だよな。
「それにしたってさぁ……!」
「は、はい!」
どうやら胸中が独り言となって漏れてしまったようだ。
パンを千切っていたベレンガリアがぴくりと肩を震わせて姿勢を正している。
「あ、いや違う。僕の独り言。なんでもない」
「はい……」
ベレンガリアは目に見えて怯えている。
やはり表向きだけの婚約者には心を開けないということか。ルオーは落ち込んで嘆息ついた。
ベレンガリアと仲良くなりたい。