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ベレンガリアの世界はいつも雑音に支配されている。
耳元で誰かが喋り続けているし、誰かが皿を割っているし、走っているし、食べているし、笑っているし、ドアの開閉、水の音、排泄音、鼠の咀嚼、馬の闊歩。雑多な音がずっと聞こえ続けている。
あまりにも苦痛だった。
耳を塞いでも、音は止んでくれない。
生まれたときからそうだったのだろうと思う。どうしてそんな力を得たのかは知らないけれどずっと世界がうるさくて『あなたは眠らない子どもだった』と母に憎らしそうに言われたこともある。眠らないのではなく、寝られなかったのだと今なら反論もできただろう。
朝。
音が一気に煩くなる。
布団を剥ぐ音。窓を開ける音。着替え、歩き、皿、炎、金属、水、人から人への指示。騒がしくなって、ベレンガリアはいつも暗いうちに目を覚まして耐えている。
眠れない。
ふと寝返りをうってルオーを見た。承和色の髪はさらさらとしていて、騎士団らしく清廉に整えられている。横顔は彫り物のように美しく、鍛えられた体は頼もしい。
ルオーの寝息は、とても静かだ。
カーテンを静かに膨らませる風のように、心地よい。心音も、拍動も、ベレンガリアにとって苦痛にならない静かな音だ。
(なぜ、婚約なんて──)
ルオーの重荷になりたくなかった。なのに、護衛を目的とした婚約だなんて。
ちゃんと、愛されたかった。
ちゃんと、愛のある婚約がよかった。
とはいえ、ベレンガリアは平民の出身であるから、貴族であり、なおかつ次期総隊長と名高いルオーとの婚約そのものが奇跡に近い。犯罪を聞き、食い止められたからこそ護られ、婚約できたのは喜ぶべきことなのだ。
けれど、ルオーには幸せになってほしい。
自分を受け入れてくれた優しいルオーだから。
大好きなルオーだから。
そのためには、来月までにあの犯罪の首謀者を見付けなければならない。夫婦になる前に首謀者を見付けて、護衛の任を解く。そうすれば婚約は解消されて、ルオーは本当に愛する人と幸せな婚約ができるはず。
タイムリミットは1ヶ月。
早く見付けないと。
あの声の持ち主を──。
◇◆◇◆◇◆
「ベル、今日は騎士団の幹部会議があるから、定時まで僕は戻らないよ」
「はい。承知しております」
朝食を共にしたあとで、隊服に着替えたルオーを見送るのはもはや習慣になっていた。前庭に出ると、既に馬が用意されている。
「じゃあ、行ってくる。昼寝しないで起きておかないと、また夜ふかしすることになるからね」
「気を付けます」
目を伏せて頭を下げると、やや間があってから溜息が聞こえた。ベレンガリアは瞑目する。ルオーの顔をまともに見られない。きっと、『なんでこいつと婚約なんて』と思っているに違いないから、そんな顔を見たら傷付いて泣いてしまうから、いつも地面や床ばかり見てしまう。そしてその態度を、ルオーが辟易していることもわかっている。
怒られることと、傷付くこと。
天秤にかけると、傷付くことのほうが怖かった。
馬が遠ざかっていく。
門扉の開閉。服の擦れる音。ルオーの呼吸が遠くになって、ようやくベレンガリアは顔を上げた。
晴れた日だ。
前庭に広がる緑の芝生がきらきらと輝いている。隊服は黒だから、きっと暑いだろう。ルオーのことだから大丈夫だろうけれど、体調が悪くならないか心配である。
「ベレンガリア様」
離れた門扉からひょっこりと顔を出して手を振るのは、こちらも同じく護衛のリーシェだ。ルオーが執務中は代わってベレンガリアの護衛の任に就く一見従者風の若者。
伸ばした茶髪を緩くひとつに結んで、にこにこと笑う顔は人懐こいけれど、その実誰にも心を許していない最大級の警戒心を持つ手練れ。ベレンガリアでさえ、彼が騎士団の所属なのか、はたまた流れの雇われなのかを知らない。
とにかく、3年前からずっとルオーが出掛けるや代わりに見を守ってくれている。もちろん、れっきとした護衛であることはルオーに確認済み。
(それにしても──)
「もっと大きな声で呼ばないと、誰にも気付かれないですよ」
ベレンガリアが呟く。
リーシェが手を振る門扉は玄関から続く前庭が馬で歩くほどの距離で広がっている。それなのにコソコソと呼ぶものだから、屋敷のものは誰ひとりとして気付いていない。門番がちらちらとベレンガリアを窺っている。
「では、私も行ってきます」
「ベレンガリア様!?」
「大丈夫。リーシェが来ています」
ひとりで出掛けるとでも思ったのか、屋敷の者達は慌てたけれど見たその先にリーシェがいるのに気付いて、ほっと胸を撫で下ろした。
「初めから大声で呼んでくださればいいのに。門番にも意地悪しないで」
来客は門番が伝令するのだが、リーシェはそれをさせずにベレンガリアが来るのを待つのだ。仕事をさせてもらえない門番が時折可哀想になる。
開けてくれた門扉をくぐると、リーシェは後ろ手で組んで歩き出した。ベレンガリアも続く。
「ベレンガリア様には聞こえるし、別にいいかなーって」
「毎日試して楽しいです?」
「うん、楽しい」
「いい性格してますね」
「よく言われる」
リーシェは背が高い。だから目を合わせなくとも不審に思われないし、なんと思われようと構わないから会話が気楽だった。
ふたりは街を散歩するのが日課だった。
特に買うものもないのだけれど、街を練り歩く。
犯人探しのためだ。
ベレンガリアが聞いたあの声の持ち主を探している。あと一度でも聞けばすぐにわかるのに、そして追って顔を見てやるのに、ベレンガリアは会えずにいる。
雑音の中で声を聞き分けるのは大変な集中力を要した。歩くのもそぞろになって人にぶつかるので、ベレンガリアはよくリーシェの腕を借りる。
声に集中。声に、声に。
「ベレンガリア様、腹減らない?」
「いま集中してるところ。静かにして」
「俺、朝ご飯まだなんだよねえ。あのパン買いたい。行こうよ」
「付いて行くから、話し掛けないで」
軒を連ねた中のパン屋に引かれていく。リーシェがパンを選んでいる間中、ベレンガリアは聞こえてくる声にだけ集中していた。
早く学校に行きなさい。
いらっしゃいませ。
ありがとうございました。
いってきます。
ごめんなさい。
夜は何を食べたい?
パパ。ママ。
駄目だ。あの声の男はいない。
やはり犯罪者は夜に活動するものなのだろうか。夜に街に出ることを、ルオーは許してくれるだろうか。
「ベレンガリア様、見て! ベレンガリア様の顔に似てるパン!」
そうして見せてきたのは、三毛猫の色形をしたパンだった。失敗したものを訳あり商品として安く置いていたらしく、やたらと眦が釣り上がっていて目付きが悪い。
ベレンガリアは目を細めてリーシェを睨み付けた。
「……あなた、私を怒らせようとしてる?」
「少しね!」
本当にいい性格をしている。