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ルオーは踵を返しかけた。
ベレンガリアが倒れた報告は、おそらく同僚がなし得る最も速いスピードでルオーにもたらされた。だから、今まさしくベレンガリアが息荒く気絶しているのだろうと理解できた。
早く行ってやらねば。
うるさすぎただろうか?
緊張?
体調不良?
この気温?
それとも──。
考えている間に警護対象が動き出す。だからルオーもそれに付き従って動かなければならなかった。
この場から離れることは許されない。
でも、だからといって──……。
リーシェにだけはベレンガリアを頼みたくなかった。あの男だけには。いや、むしろ他のどの男にだって。
ベレンガリアか。任務か。
そうやって葛藤をしていると、警護はどんどん進んでいき、視覚的にも聴覚的にも嗅覚的にも情報が入り込んできて脳内が処理し始め、さらに判断が遅れる。
その優柔不断な沈黙を、同僚はルオーが任務を選んだと判断したらしかった。
「すぐにリーシェ様に応援を要請します」
驚いて、振り向いたときにはもう同僚が走り始めていた。その背中から目を逸らしたのは、任務に戻らなければと正気になったからか、任務にベレンガリアを同行させたことが誤りであったと悟ったからか、わかっていたのに見て見ぬふりをしていたからか、ルオーは決めかねていた。
終わったらすぐに迎えに行って、今夜はもう片時も離れない。どうすれば気持ちを聞いてもらえるのかはわからないけれど、諦めずに伝え続けなければ。
終わったら、この任務が終わったら──。
「……え? 帰った?」
任務を終えて馬車に駆け付けたとき、客室は既に空っぽだった。
誰もいない、がらんどうの馬車を見て呆然としていると、御者が既にベレンガリアは帰宅したのだという。
体調不良で倒れたベレンガリアを休ませていると、リーシェが颯爽と現れて、ベレンガリアをリーシェと同じ馬に乗せて、そのまま戻らなかったという。
あのリーシェ……!
いや、それほどにベレンガリアの体調が思わしくなかったのかもしれないし、それならば医者を手配してやらないと。
リーシェはまた愛馬に跨って自宅へと駆け出した。
「ベレンガリアは!?」
屋敷に着いて、開口一番に執事に問う。
ルオーは額から垂れる汗を拭うこともせずに、きょろきょろとホールを見渡した。ベレンガリアの姿はない。臥せっているのだろうか。
執事は気まずそうに眉根を寄せて、それから小さな声で答えた。珍しいくらいに歯切れが悪かった。
「中庭に……」
聴き終える前に歩き出した。
従者の前で余裕なく走るのは当主としてどうなのかと思いつつ、中庭へと続く掃き出し窓までやってきた。
ベレンガリアがいた。
顔色はだいぶ良さそうだ。爽やかな風をまとう髪がふわり、ふわりと靡いて、くるり、くるりとスカートの裾が翻って。
ベレンガリアは踊っていた──リーシェと。
リーシェが手配したらしいカルテットによる音楽の演奏で、ベレンガリアは音楽とリーシェの音に集中できているようだった。いつも煩わしそうに音を嫌がるのに、今のベレンガリアは楽しそうに歯を見せて笑っている。
「リーシェ! 目が回っちゃう!」
「じゃあ逆回りー」
「やめてー!」
大きく口を開けて、その華奢な喉から奏でる笑い声は今までに聞いたことがないくらいに遠くに届きそうだった。
溌剌とした笑顔。弾ける笑顔。
作法も何もあったものではない、めちゃくちゃなふたりのダンス。めちゃくちゃなのに、誰が見ても幸せそうだった。
だから執事は気まずそうにしたのか。
ルオーが邪魔な存在であると勘付いていたから。
「だめー! 目が回って足がー!」
もつれた自分の足に躓いて転びそうになったベレンガリアを、リーシェはすかさず抱きとめる。
時が止まったようだった。
抱きとめられたベレンガリアは余韻でまだ笑い声をたてていて、抱きとめたリーシェはやっと手に入れた幸せを逃すまいと瞑目していて、その口元は優しげに微笑んでいて、ふたりの間にはなんの隙間もなさそうに見えた。
ルオーは視線に気づいて、ふと横を見た。
執事が目を逸らしたところだった。




