15
ベレンガリアは馬車の中にいた。
ルオーは皇后陛下の護衛のため、孤児院の中へ帯同している。馬車の周りや、孤児院の周りまで騎士達で埋め尽くされていた。ルオーもベレンガリアを残して離れることに不安があったようだが、これだけの騎士に囲まれていれば大丈夫だろうというのが結論だったらしい。
小窓から外を覗く。
太陽を隠す雲はひとつもなく、暑い日だ。馬車の中にいるベレンガリアも、動いていないのにじっとりと汗を掻き始めている。
孤児院の中からは特にうるさい物音がずっと流れ込んできていた。
子どもの声、積み木かなにかをがらがらと崩す音。走り回る足音。はたまた癇癪で泣く混乱。
ベレンガリアは閉ざされたドアを開ければ幾分か風が入ってくることを認識していながら、これ以上の喧騒に呑まれては気分が悪くなることを回避したくて密室の中でじっと閉じ籠っていた。
それがよくなかった。
音のせいではなく、暑さのせいで頭がくらくらとし始めたのだ。
(これは、よくない)
ベレンガリアはいよいよ崩折れるように馬車から出た。
風がそよいで、汗が触れてひんやりとする。同時に、わっと喧騒の津波が押し寄せて、勢いに圧されて尻もちをついた。
周囲の騎士達がぎょっとした。
「だ、大丈夫ですか?」
駆け寄ってくれた騎士のその一言が頭の中でぐわんぐわんと暴れ回る。
「ごめんなさい、気分が……」
吐きそうだった。
なにかを騎士達が叫んでくれているのに、それは逆効果でベレンガリアの正常を奪っていく。
遠くに──。
リーシェの言葉が蘇った。
確かに、この耳を持つ限り人のいる場所で生きていくのはあまりにも辛すぎる。自分以外の誰もいない遠いところに行ってしまえば、きっと楽なのだろう。
(だって……)
ルオーがなにを伝えたいのかがわからない。白紙の手紙を渡され、必死の形相で訴えてくるのは無音。聞こえないなんて、ありえない。
聞くのがおそろしいのだろうか。
ルオーに嫌われているという事実を付きつられているその事実を受け入れがたくて、耳が聞こえていないように錯覚して拒否しているのだろうか。
それならば、もうなにもかも嫌だ。
ルオーにあんな顔をさせてまで、なにかを知りたくない。リーシェとの気軽な時間を、どこか遠くで過ごせるなら。
そんな場所に行きたい、とさえ思った──そのときだった。
ひんやりとした感触が首に当てられた。
うつろな視界の焦点をなんとか合わせると、そこには黒髪黒目のすっきりとして顔立ちの青年がいた。リーシェと同じくらいか、ほんの少し歳上くらいだ。
「おい、なにしてる!」
騎士が叫ぶ。
青年は答えることなく、両手を動かした。手話だった。
けれど騎士に反応したということは、耳は聞こえているらしい。
話せないんだ。
そう気付くと、ベレンガリアは自分でもぞっとするほど惨たらしいことを祈った。
話せない人と過ごせるなら、静かかもしれない。
ベレンガリアは頭を振った。
(なんてことを! なんてことを考えているの!)
首を振ると、青年が掛けてくれたらしい冷たい布から水が滴った。その水の滴りが、僅かな理性を取り戻した。
「ありがとう」
そう微笑んで伝えるのが精一杯だった。
青年の両手がまた動いて、騎士に何事かを伝えている。それをぼんやりと眺めながら、重たい瞼を閉じた。
久しぶりに、なんの音も聞こえないくらいに深く気を失った。




