12
ベレンガリアは驚いた顔で振り返った。呼び止められた箇所だけが聞こえたのだろう。ベレンガリアは告白に驚いているのではなく、大声で呼び止められて驚き、そして次の言葉を待っているように見えた。
「君が好きだ!」
この距離なら聞こえないはずがない。──普通なら。
「好きだよ、大好きだ! 本を読むときに背筋が伸びているのも、屋敷の中に迷い込んだ蜘蛛に怯えながらも窓を開けて逃してやっているところも、雨が降ると雨音に雑音が掻き消されて少し上機嫌になるところも、全部、全部大好きだよ!」
ベレンガリアの驚愕の顔が困惑に変わっていく。眉根を寄せて、空いている手で自分の耳に触れているのが見えた。
「護衛だから結婚するんじゃなくて、愛してるから結婚したいんだ! ずっと一緒にいようよ! 僕と結婚しよう!」
想いを叫んだあと、しばしの沈黙が生まれた。
そのあとで、ベレンガリアの瞳からぽろりと涙が流れた。
「……聞こえない……。ねえ、リーシェ、ルオー様はなんと言ってるの……? 私、おかしくなっちゃった。聞こえないの、ルオー様の声が聞こえない」
「聞こえなくていいんだよー。今まで散々、聞こえることが苦痛だったでしょー?」
リーシェは言って、またさらに手を引こうとした。このまま行ってもいいのだろうか。聞こえない異常も、ルオーの悲痛な訴えも無視をして、流れに身を任せたほうが、もはや楽になる近道なのだろうか。
けれどルオーは追ってきて、ベレンガリアの片手を掴んで引き止めた。
「好きだよ」
「行くよー、ベレンガリア様ー」
「うるさいな、黙ってろよ!」
リーシェへの悪態が急に耳をつんざく。
訳がわからなかった。ルオーの声がぶつぶつと途切れて、急に大きく聞こえたりする。ルオーの拍動が激しい。
「ね、ねえ、リーシェ、ルオー様はなんて──」
「ベレンガリア様と一緒にいるのが苦痛だった。早く出て行けってずっと喚いてるよー」
ベレンガリアは愕然とした。
「馬鹿な!? 僕はそんなこと言ってない! ねえ、ベル聞いて! 僕が愛してるのは君だけだ! これまでもこれからもずっとずっとベルだけを愛してる! ベルがいない明日なんて来なくていい! だからベル──」
「俺の時間を奪ったんだから謝れって言ってるよー。ちゃっちゃっと謝っちゃえばー? お腹空いたよー。帰ろー?」
「だからそんなこと言ってないんだって! ベル! 僕を信じてくれ!」
もうベレンガリアの頭はぐちゃぐちゃだった。
リーシェの言うことが本当なのか。けれど違うと否定してくるルオーの顔に嘘はないように見えるし、でもならばなぜ声が聞こえないのだろう。聞こえないなんて初めてだから、聞こえないことのなにを信じればいいのかわからない。
帰ろうと誘うリーシェと、なにかを必死に訴えようとするルオー。
頭が割れそうだった。
だからベレンガリアは泣いた。
赤ん坊がそうするように泣いた。言葉もなく、声の出し方しか知らない赤ん坊のように立ち尽くしたまま泣いた。
聞きたくない音がたくさんあって、聞きたい声が聞こえなくて、聞こえない部分がもしかしたら愛する人に自分が罵られているかもしれなくて、どうしたら耐えるのかがわからなくなって、とうとう泣いた。
「ベ、ベル?」
「ベレンガリア様、どうしたのー。やめてー。泣かないでよー」
わたわたとベレンガリアの頭を撫でたり涙を拭いたりするふたりは、いっとき、反論し合うのをやめた。直近での喧騒が収まったからか、ベレンガリアの混乱も若干の落ち着きを見せた。
「る、ルオー様が、なにを、言っているのか、わ、わからない」
ひっく、ひっくと喉を鳴らしながら言う。
「リーシェに、ついて行っていいのか、わからな、い。お願いだから、やめて、ください。わたし、頭が……」
「頭が痛いの? ごめんね。ごめんね、ベル。医者を呼ぶから、部屋に戻ろう」
ひっく、ひっくとしながらも、ルオーに促されて廊下をとぼとぼと歩き始めたベレンガリアは、だがすぐに振り返ってリーシェを見た。
「護衛の、引き継ぎ、これで、だ、大丈夫?」
ひっく、ひっく。
その間だけ、一瞬の騒音が収まる。大音量と無とが入れ替わって、ベレンガリアの頭には相当なダメージがあった。今にもベッドに崩れ落ちて、枕で耳を覆って静寂な夢の中に落ちてしまいたい。
けれどリーシェがいつまでも帰れなかったら可哀想だし、護衛に直接引き継がないといけないと言っていたし、そのための確認だった。
リーシェは苦笑した。
胸のあたりで小さく大きな手を振ってくる。
「大丈夫ー。どうせここじゃ熟睡できないんだから、また明日、膝枕してあげるねー」
膝枕をやけに強調した言い方だったけれど、ベレンガリアは特に気にせず頷いて居直った。ルオーがリーシェを睨んだ気がしたけれど、憂い悩むほどの余裕はない。
寝室に戻ると、ベレンガリアはぐったりとベッドに倒れ込んでしまった。
ほとんど気絶に近かった。




