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「ねえ。──好きなんだけど。」
その告白は、目の前の背中に届いたはずだった。
真っ直ぐと腰まで伸びた淡香色の長い髪。華奢な背中を包むのはラベンダー色の長袖ワンピース。読書のために机に向かう姿勢は凛と正されていて、清々しくさえある。
その少女の名前はベレンガリア。18歳。
今まさに愛の告白をしたルオー・デルガドの正式な婚約者である。
ベレンガリアは振り向かない。こんなに近くに、手を伸ばせば届く距離にいるのに、ルオーの声が聞こえなかったみたいに本のページをぺらりと捲る。
沈黙の中で立ち尽くしてから、ルオーは嘆息混じりに自分の承和色の前髪をくしゃりと掻き毟った。
腰に手を当て、強めの語気で言う。
「ねえ、婚約者。いつまで起きてんの。寝る時間でしょ」
ルオーが言っても、振り向かずにベレンガリアは答えた。
「眠れそうにないんです」
「そうやってどんどん昼夜逆転していくんだからね。昼間に眠くなっても付き合ってやらないよ」
「わかってます」
ベレンガリアは振り向かない。
いつもそうだ。ベレンガリアは誰の目も見ないし、誰の顔も見ない。伏し目がちにして、部屋に戻ると本ばかり読んでいる。
根負けして、願うように言った。
「……寝ようよ」
「お先にどうぞ。すぐに行きます」
「一緒に行こうってば」
「だからお先に──」
「──ベル」
この世でルオーしか呼ばない愛称で諭すと、ベレンガリアは背中をぴくりさせてからようやく本を閉じた。机に手を付いて、ゆっくりと立ち上がって、たっぷりと勿体ぶって振り返る。
ワンピースと同じラベンダー色の瞳は、ルオーを捉えてはくれなかった。切れ長の瞼に隠された瞳は切なげに虚空を見ている。
微笑まない口元はどこか冷たさがあって、ルオーは体を強張らせた。
嫌われているのだろうか。
いつも不安になって、怖くなって、仮に嫌われていてもダメージが少なくて済むように、婚約が決まるずっと前から愛しているくせに素っ気ない態度を取って自衛している。
「わかりました。行きます」
仕方なしとばかりに言うベレンガリアを連れて、ふたりでベッドに向かった。
着替えてからシーツに包まるベレンガリアは、またすぐにルオーに背を向ける。
その瞬間が、ルオーは堪らなく嫌いだった。
寝転んだまま天蓋を眺める。
天蓋から垂れるベールは視界をくすませて、ふたりを世界から遮断する。だからここではふたりきりのはずなのに、ルオーはいつだって孤独だった。
どうして自分を見てくれないのだ。
20歳になるルオーは、幼少期に知り合ってから人生の半分以上をベレンガリアと過ごしてきた。ベレンガリアの特殊な力も知っているし、受け入れている。そのうえで一緒にいることを望んでいるのに、ベレンガリアはそうではないらしい。
いつ、嫌われたのだろう。
なぜ、嫌われたのだろう。
なにをしたっけ。
記憶を遡ってもわからなくて、自分ばかりが好きなのをひた隠しにして冷たい態度を取るからまた嫌われて──という悪循環に陥っている。
「ねえ、婚約者」
「なんですか」
「……なんでもない」
やはり、こちらを振り向かない。
「そうですか。一応、ご報告ですが、足音がふたつ向かってきています。重さとリズムからして執事のヴィクターさんとウォレスさんだと思いますが」
「そう。ちょっと見てくる」
言って、ドアの隙間から廊下を覗く。しばらくして指摘されたとおりのふたりが忍び足で歩いて行った。戸締まりをしているらしかった。いつもの習慣だ。ちなみにルオーは、この扉1枚越しでようやく足音を聞き取れた。
ベレンガリアの特殊な力とは、その聴力にある。
人間離れしたその耳はこのデルガド家の屋敷の外の、またそのずっと向こうに広がる街の囁き声さえ聞こえるらしい。その界隈では、ベレンガリアは『地獄耳少女』と呼ばれているほどだ。
3年前、ベレンガリアはとある犯罪者の会話を聞いてしまった。
それは国家を揺るがす犯罪で、しかもその犯罪者が犯罪を食い止められたことで地獄耳少女に会話を聞かれたと気付いてしまった。地獄耳少女がベレンガリアである事実はまだ有名ではなく、広くは知られていないがそれも時間の問題。
だからルオーは、ベレンガリアの護衛に選ばれた。
その犯罪がこの国を他よりも優位に立たせるものだったから、地獄耳少女を抹殺しようと動く可能性のある犯罪者からベレンガリアを守るほうへ舵を切った王命だった。
ルオーは複雑だった。
想いを寄せるベレンガリアと婚約できて嬉しいが、ベレンガリアにも自分を愛して欲しかった。そのうえでの幸せな結婚を望むのに、ふたりは先に守られるものと、護衛とに分かれてしまった。
ルオー・デルガドは国営騎士団の第3騎士団副隊長を務めている。次期総隊長とも言われる指折りの戦闘力で、護衛には最適なのだった。
だからベレンガリアはルオーを仕事相手としか見ていないのかもしれない。
それが耐えられなくて、ルオーはいつも共に行動したがった。ただの護衛なんかじゃなく、君と一緒にいたいのだと暗に伝えているつもりで。愛しているのだと、伝えているつもりで。
──伝わっているのかは、わからないけれど。
首だけを巡らせて、ルオーはベレンガリアの背中を見た。
この力にはひとつ弱点がある。
どうやってその弱点を知ったのかは覚えていない。どんなきっかけだったたろう。少年時代の単なる悪戯が発端だったはずだ。
「好きだよ」
言っても、やはり無反応。
どんなに遠くの音が聞こえて、どんなに正確に誰の足音なのかを聞き分けられても、ベレンガリアは自分自身に向けられた愛の告白だけは耳に届かないのだ。
「ベル──すき。」
返事はなく、風で窓が揺れただけだった。
【地獄耳少女は愛が聞こえない】