夜空
「敵は払暁に攻撃してきた。払暁こそ、我々は警戒しなければならない!」
傭兵、或いは、元自由市民だった者の前で、幹部職員が喚き散らす。
その頃内務卿は、メウタウ河沿いの高地に集結させた部隊を視察していた。
帝国軍。後にそう呼ばれる、貴族の私兵でも、皇帝の親衛隊でも、職員が兼務する部隊でも無い、国庫によって養われ、或いは徴兵によって賄われるプロの軍隊――といっても、まだその芽であるが――が帝国にとっては珍しく、特に何の記念式典とかを開くことも無く、場当たり的に創設されていた。
ドーベック公国を、平野の中に閉じ込める。
その課題に対して内務卿は、全方向の交通を遮断することによってこれを行おうとしていた。
その前提となる資金は、取り敢えず一旦支払いを保留された後、最後通牒の回答期限ギリギリになって、以下のような事情によって発行された債権によって調達された。
まず内務卿は、海賊を雇って私掠免許を与え、ドーベックから出入りする船舶を拿捕し、財産を没収することが考えた。何もドーベックそのものを攻撃しなくても、海路を遮断してしまえば隔離できるのでは無いかと。
これに商人らは猛烈に反発した。そもそも、その船は彼らないし彼らが依頼した海運業者の物であって、ドーベックのモノでは無い。その上、彼らはドーベックの商品を流通させることによって相応の利益を挙げており、貴族とは異なって別段困窮とかはしていなかったから、まだまだ発言力があったし、度重なる取引を経て『受領していないから代金を支払えない』とかやったら絶対にひどい目に遭うというある種の確信があった。一方、商人の中にはドーベックに借金を負っている者もおり、それは巧妙にして狡猾に商人を縛っていたから、武力による解決を望む者も居た。
そこで内務卿は、商人らを説得するにあたり、このような説明をした。
彼らが強かったのは、平野の中だからだ。彼らの戦闘は本質的には巨大な消費活動であり、平野から出て戦うには、絶大な努力が必要である。にも関わらず、彼らは平野から出ようとしている。我々はそれを待ち受け、ドーベックを武装解除し、その生産を商人らに公開して分配する。と。
要するに、内務卿は将来期待される軍事的成果を取引に掛けたのだ。
商人らは当然、それを信頼した訳では無かったが、ある者は安い賭けとして、ある者は起死回生の策として、ある者は報復として。
ドーベックでさえしなかったこの暴挙は秘密裏に行われつつ、各商人の帳簿には計上されたから後々明らかになるのだが、兎も角、内務卿はなんとか資金調達に成功した。
神祗から回されてきた情報と航空偵察、その他のあらゆる情報によれば、カタリナの手下は、メウタウ河沿いの攻撃を準備しているように見えたし、内務卿はそれを疑う程疑心暗鬼にはなれなかった。それに、ドーベックは非効率にして不合理な民主政治を取っている以上、リアムは民衆の前で嘘は付けないという先入観があって、もしそうしたなら、熱狂する民衆に血祭りにあげられるだろうという都合の良い妄想もあった。
当然、このようにして調達された資金は、万一、ドーベックの平野外進出をゆるした場合に焦げ付くということは明らかであり、その前提となる「ドーベックが自ら強みを捨てる」という事象を認知の俎上に登らせて検討する段階はとうに過ぎ去っており、後はどのようにして爵領庁に所在するステークホルダーを納得させ、自分に協力させるかという政治的問題に集中していたのだ。
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81mm 化 学 砲 弾 GB―1
81mm化学砲弾GB―1は、81mm迫撃砲用の化学砲弾であって、内部には2.6kgのメチルフルオロホスフィン酸イソプロピル(サリン)を生ずる2液(メチルホスホニルジフルオリド・イソプロピルアミン)が充てんされている。
この砲弾は、通常、歩兵部隊による化学攻撃のため使用され、軽易かつ短時間に多量の化学剤を散布することができ、対化学防護措置をとっていない人員に対して絶大な威力を発揮するが、通常の迫撃砲弾と同様、点目標射撃には通常適さない。また、風向や距離によっては、友軍相撃の可能性がある。
赤色の弾体に黄緑の色帯を巻かれた化学砲弾を、万一の漏洩事故に備え陽圧式防護服に身を包んだ職員が車へと積み込む。
まだ未熟な触媒と内燃機関とが黒煙を撒き散らし、或いは騒音を鳴らしているから、移動は夜間か林間、森林を経るものとされ、既にルート選定も済んでいた。
後部ハッチを閉めると、上空からそれは草原か森の一部であるように見える。
車両の直近で、敬礼を交わす者が居る。
一方はドーランとブーニーハットを始めとする偽装を体中に施し、一方は平服を着ていた。
「では、万事よろしくお願いします」
「ご武運を」
総理と、元帥である。
内閣総理大臣は、法律上は文官であり、かつ、国家市民軍最高指揮官である。奇妙なことに、アンソンの軍歴は第一旅団長を最後として除隊したことになっているが、確かに現在、彼女は国家市民軍最高指揮官なのだ。
シビリアン・コントロールの猿真似でしか無い。
当時のドーベックは、後世からそういう辛辣な評価を浴びることが多かったが、そもそも全有権者が義務的に受ける教育によって基本教練を仕込まれ、番号によって管理され、かつ、強大な権限を持つ警察組織によって監視されているという、そもそも国家自体が『巨大な暴力組織』であったという評価さえもされることがある。
その評価の下敷きとなっているのが、当時の国家市民軍が大変に洗練された暴力組織であったという事実に他ならない。現に今、元帥が行っているのは『特殊部隊の事前潜入』という奴で、これを探知・事前撃破することは極めて困難である。
敵航空偵察が困難な夜間に分散して進行し、敵部隊との遭遇を注意深く避けつつ、森林内に前進拠点を分散的に配置、無線通信を始めとする各種体制を確立した後に主力部隊及び化学砲弾を搬入、敵が兆候を把握する前に攻撃を開始。砲撃開始時間は黄昏、攻撃開始時間は薄暮。
元帥は唯一人、微光暗視装置が欲しいとボヤいたが、当時の常識からして夜間に活発な活動を行い、かつ、化学剤という極大な破壊力を持つ兵器を使用するというのはあまりに『常識外れ』なものであった。
まず統率が取れないし、視界も通らない。兵は不安を持つし、彼我の判別も明確で無い。
だが、元帥は特殊部隊を鍛え上げた。
闇に慣れ、闇を友とし、相互の信頼を以て闇を克服し、静かに、そして素早く――
特殊部隊は、ミミズクをそのシンボルとした。
「総理、それでは」
「ん」
元帥が遠く、稜線を超えて消えた後、秘書官に促されて公用車に戻ろうとしたとき、ふと見上げれば凍てるような鮮明さを以て輝く星を認めることができる。
あんなにも遠い星々は認めることができるのに、彼はもう見えない。
総理は初めて、自らに降りかかっている恐るべき孤独と重圧とを自覚する。正確を期すならば、彼女はそれらを理解していたが、体感したのは初めてと表現すべきだ。
政治的に対立し、或いは銃を突きつけてまで自分の部下になるよう強要して尚、自分が如何に甘えていたかを自覚できなかったことを嘲笑するように、彼女は首を振って、そして義務感を以て公用車に乗り込む。
灯火管制によって、街の灯りは消され、逆に畑や野原があたかも市街地であるかの如く光り輝いている。
もし我々が失敗したならば、街の灯が再び灯ることは無いだろうという、漠然としつつも具体的、そして十分説得力があって、実現可能な予想が一瞬脳裏に過ったからか、或いは寝不足か疲労からか、総理はこめかみと眉間を揉んで、深い溜息をついた。




