化学兵器
「――今回11iRCTが採集したサンプルを分析した結果、メウタウ河流域に対して大規模な殺虫剤散布措置が必要となることが明らかになりました。以下に資料を示し説明します」
戦争を遂行すべく設置された『事態対処本部』では、戦闘が終結した今、難民問題と平和条約問題、そしてこの農害問題が主題となっていた。農害問題とは、11iRが直面した難民、その根本的原因である『カビ』のことである。
「まず――サンプル中の病変部分を拡大したもののスケッチがこちらです。難民らは『黒変』とか『土化』と呼んでいたそうですが、実際に植物の構造が破綻し黒変していることが分かりました。これを詳しく観察したところ、腐葉土と殆ど構造が一致」
スライドが実験の概要図に切り替わる。
「難民らからの聞き取り調査により、収穫後にも穀物庫内に於いて本農害は発生したという情報を得られた為、本サンプルの一片を収穫後の小麦中に残置したところ、小麦にも同様の黒変が生じました。これを双眼実体顕微鏡で観察したところ、このような小生物を認めました。この小生物を分離し、新たに小麦中に残置したところ、黒変が発生……
科学技術省の担当者がスライドを交換し、顕微鏡像のスケッチを示す。
誰がどう見てもダニだ。
……以上の実験結果から、難民の故郷で発生していた農業被害の原因はダニであると推定されます」
ペラ、そんな列席者からの音が重なってバラ、という音が鳴り、それに併せるようにガチャンとスライドが切り替わる。
「我々は本害虫を『クロメウタウダニ』と命名しました。現在、クロメウタウダニに対抗すべく殺虫剤の開発を行っておりますが、現在までに有機リン系を始めとする複数種類の製剤に成功しています。このうち、人への有毒性が低く、ダニへの有効性が高い製剤、及び解毒・中和剤の開発を並行して行っています。科学技術省からは以上です」
カーテンがジャッと開けられ、キュウ、と瞳孔が縮み上がる。
強い光によって眼底に痛みを感じると共に、少しの興奮と頭痛とがあった。
「有機リン系製剤のリストは――コレか、ああ、そうだよな」
メチルフルオロホスフィン酸イソプロピル(C₄H₁₀FO₂P)。
動物実験に於いて特に哺乳類に対する毒性が強く、農薬としての使用は不適と判断された物質群の中に、確かにソレはあった。
私は、前世でソレをサリンと呼んだ。
「化学兵器――ですか」
「その通り、この兵器は凄いぞ。殺傷力としては催涙ガスの比じゃ無い」
「致死性ガスの野戦に於ける大量投入……」
今まで我々が『秘密兵器』と呼んできたのは、火縄銃とか、鏡の群れとか、前世からすれば本当に取るに足りないような代物であった。
だが、こいつは違う。
国際的な約束の下規制され、それでいて、地下鉄サリン事件に於いて使用された『大量破壊兵器』である。
核兵器? まだ早い。ウラン鉱脈は大穴周辺に発見されていない。きっと現在の技術でもガンバレル型原爆ならば製造可能だが、如何せん原料が無いことにはどうにもならない。
生物兵器? ケンタウロスの系統図すら確立できていないのに?
化学兵器。
20世紀に飛躍した化学技術がもたらした、悪魔。
第一次世界大戦では火力の一手段として大々的に使用され、第二次世界大戦ではその使用が自粛された一方、冷戦期には各国で研究と備蓄が進められ、冷戦終結が終結して漸く、禁止条約が極めて有効なモノとなったソレ――は、またの名を貧者の核兵器と呼ぶ。
核兵器が元素が原子的に持つ不安定さを活用し、生物兵器が生物学的知見を活用する一方、化学兵器はその物質そのものの作用を活用する。
C₄H₁₀FO₂P
炭素、水素、フッ素、酸素、リン。
言うまでもなく、これらの元素は自然界中に豊富に存在している。それらを器用に組体操させれば、核兵器に準ずる威力を持つ破壊体の中身が出来上がるのだ。
「将来、帝国は確実に塹壕を運用してくる。そうなると榴弾の実効的威力は極めて小さいものとなる。我々はこれに対して対抗策を持っておくべきだと思うんだ。また、コレがあれば都市の壊滅も容易に可能だ。手段として、持っておくべきだ」
「仰る通りです」
アンソンは、尻尾や耳を動かすこと無く、黙って聞いている。
秘書官を始めとする者は予め払っていた。今ココに居るのは、アンソンを始めとする高級将校だ。
ドーベックには既に沢山国家機密がある。そのリストの最後尾にコレが加わろうとしている。
「当然、化学兵器の取扱には特別の技能が必要だ。だから職種を、特殊武器防護職種を新設する必要がある」
「運用の研究については――」
「これを見てくれ」
幕僚諸元がある。
前世、脳味噌のシワへと外挿的に刻み込んだソレは、どういう訳だか世界を超えて参照することが可能だ。有り難く使わせて貰う。
「見積では15榴1コ中隊で旅団の正面を殆ど完全に制圧可能だ。防護装備を我々しか持っていないならば、この間よりも大きな奇襲効果を得られる。今度は突撃もいらんかもしれん。それにな、『サリン』は自然に分解するんだ。除染の必要は殆ど無い」
「『サリン』と言うのですね。コレは」
こちらの言葉で喋っている中で、つい『サリン』という単語が口を突いて出る。それは発音記号で表現するとsäɾʲiɴと表される、完全に『地球語』のソレだった。
別に私が前世どういう者だったのかというのを隠すつもりも無かったが、ロイスにも言っていないようなことを白状するのはどうだろうかという気持ちもあった。
「ああ、そうだ」
幸いにして、高級将校らは些事を気にも留めず、目の前の軍事における革命の芽を見るのに夢中だった。
特にアンソンは、自らが構築したような防御陣地に自分の部下を攻撃させなければならない未来が到来することを予測していたから、コレに対するソリューションがリアムから提供されつつあることに一抹の安堵すら抱いていた。
彼女は、部下の生命をしてその任務にあたらせるという重責を負い、そして勝利した。職業軍人、それも高級将校としてリアムの一番弟子と呼ぶべき者であったから、飽くまで冷徹にこの兵器の特性を見通そうとしていた。
「敵陣地の他、敵の集結地を特殊部隊で特定して奇襲的に撃ち込めば相当な効果が見込めますね」
「ああ、そうだとも」
「敵を害虫のように――エルフも、ケンタウロスも――駆除できる」
アンソンがやや恍惚としたように、喰むように呟く。
エルフやケンタウロスの神経伝達系がヒトのソレと大差ないことは検証済みだ。
サリンは神経剤。神経伝達を阻害することによってその威力を発揮する以上、暴露さえさせれば神経伝達に障害が発生する。そして死ぬ。
害虫に対する作用機序と大差は無い。平米幾らで散布するという運用の考え方も一緒だ。
少し違うのは、大砲とか航空爆弾とかに詰めてドカドカ撒き散らすのが野戦では主たる運用手段である点ぐらいだ。
「アンソンとしては、どう思う」
「どう、とは」
「君はさっき、敵を害虫のように駆除できると言った。君はこれを国家市民軍へ導入すべきであると考えるか?」
これまでずっと、『これを使え』と様々をドーベックに与えてきた。
機関銃、鉄条網、小銃、榴弾砲、無煙火薬……等、地球文明がお互いを効率的かつ簡便に、それでいて経済的に破壊するために磨いてきたそれらを、こちらに持ち込んで、そして敵対勢力を殺してきた。
非倫理的。そうだとも。
私は、元々この世界にあった秩序を実力を以て破壊せんとする侵略的外来実体だ。今更その誹りを失当であると反論する気は無い。
だが、これらの道具は何れも通常兵器に過ぎない。地域そのものへと壊滅的打撃を与え、それこそ『駆除』するような圧倒的破壊を振りまく大量破壊兵器では無い。
生石灰だって、白リンだって、催涙ガスだって。広義の化学兵器であるが、サリンは明らかに一線を画する。別の言葉で言えば、私はドーベックに一線を越えさせようとしている。
例え、この世界の科学者達が将来発見し、そして私の影響を受けずして『活用法』を見出すとしても、私の存在はそれを数十年、否、数百年は早めているだろう。
幾ら私が直接開発を指示したもので無くとも、それを軍事へと導入するにあたっての免罪符が欲しい。そういう自己中心的な動機が、高級将校らを執務室へ呼び出したのだ。議会に上程する勇気は無かった。
なんて情けないのだろうか。
アンソンは少しの間考えるようなそぶりを見せるとか、そういった挙動を一切しなかった。
高級将校らも、同様であった。
「勿論です。首相閣下。国家市民軍は最善を尽くして我が国を防衛しなければなりません。当然、あらゆる手段と道具が活用されるべきです」
「……分かった」
彼女は、殆ど即答した。
じゃあ、教えてやろう。
そうやって言い訳と納得、それと少しの巻き添えを得て、私は講義を始めた。
本当に、良かったのか?




