para bellum
「――……アム……リアム」
聞き慣れた、安心するような。
そんな声と香しいオーブンの香りで意識を取り戻す。
「ロイス」
ドーベック随一の歌姫にして、宣伝家、そして、我が愛するパートナー。
「ご飯だよ」
「今何時――?」
「7時」
「午後だよね」
「うん」
不味い、仕事に戻らなければ。
というか、何故帰宅しているのだ?
そうだ、帝国との共同宣言と平和条約案を見、驚いてオッと叫んでぶっ倒れてしまったのだ。
スザンナは、カタリナ氏が連れ去られる前よりも安定した地位の確立と通商の保障、そしてカタリナ氏の奪還という我が国の追加的要求を全部飲ませ、背中にカタリナ氏を乗せて帰ってきた。叙勲モノだ。
だが、問題がある。密約と、このままでは我が国が『公国』になってしまう点だ。
明らかにこの条約は我々を宥和させ、そして帝国の権威下に『組み込む』べく設計されている。或いは、向こう側にはハナから条約を守る気が無い。肉を切らせて骨を断つと言えば良いのか、こちらの要求を踏まえつつアチラの利益を交渉上通してくる相当な手練れが居る。現に密約で我が国は『公国』として記述されている。タダなモノは病気以外貰えば良いというこっちの性根を利用されたのだ。間抜けに見えてしょうがなかっただろう。
しかし、カタリナ氏としては一応考えがあるらしい。なんでも通貨への信頼がどうとか、経済的に活動しやすくなるとか言っていたが、それは『些事』だ。
憲法上、この宣言は議会で批准されて初めて効力を発揮するが、向こうとしては知ったこっちゃ無いだろう、否、法典は渡しているから気付いているか?
正直な話、このまま平和条約の交渉に入るか否かでまだ揺れている。
完全な独立のためは、帝国に認められなければならない。しかし、公国としての独立は、皇帝の権威を認めることになる。それは建国宣言にもとる。帝国からドーベックが分離したとは言えない。
しかし実際的な問題として、今の我々に帝都を脅かす力は無い。
勿論、テロリズム的特殊作戦は発動可能だが、やる意味があまり無いし、それどころか徒に帝国を刺激することになる。
ただでさえ武力行使に敵軍属であった『万民』を巻き込んだので議会が紛糾しているのに、こんなもの持ち込んだら更に紛糾し、悪いことに『カタリナ下ろし』に加えさらなる武力侵攻の主張まで有力なものとなりかねない。加熱した議会はロケットの如くどこまでも飛んでいく。量の概念は意識しなければ失くすから、1Bを帝都まで突っ込ませて無条件降伏させろみたいな主張が力を持ちかねない。ああ、戦略軍と憲法保安庁が恋しい!
それと密約。こんなの守れる訳が無いし、解釈の幅が広すぎる。
特に五号の教化条項。恣意的に解釈したらいつでも『我が国』はコレに違反する状態となる。それに通商してたら人流が出来るから我が国の文化に触れないなんてことは無いだろう。曖昧なラインを引いていつでも戦争というオプションを正当化しようという意図が見え透ける。
だが密約は飽くまで密約、向こうから提示してきた平和条約までのつなぎであり叩き台だ。つまり、平和条約の締結までに何か譲歩を引き出せるモノがあれば……
スザンナについては完全に人選をミスった。俺が行けば良かった。
だが、慣習・慣例・種族その他の要素を考えれば、総合的に考えてスザンナしか適任が居なかった。それは事実だ。
もしかして、内務卿をボコボコにしたところで詰んでいたのかもしれない。完全に下手打った。
今や我々は、抑止力をそれぞれ欠いている。
前世が、怖いと叫んでいる。それは平和を切望する、恐ろしい断末魔であった。
「また怖い顔してる」
「……分かってるだろう」
ベッドの上、上体を起こした状態でウンウン唸ってたのを引き戻される。
ロイスには宣伝人としての才能があった。
その小さい身体から発せられる力強い声と可愛らしい――妻にこういうことを言うのは小っ恥ずかしいが、客観的事実として!――愛らしいルックス、それでいて我々を近くで見て何か出来ないかと考えていてくれたこと、そして私がたまに慰めて貰っていたこと……それらの諸事情が総合して花開いた才能は、国内向け宣伝の殆どを彼女が自らこなし、或いは監督するまでになっていた。
「取り敢えずさ、ご飯、冷めちゃうから」
「……今晩は?」
「ロブスターのグラタンだよ」
「道理で、いい匂いがすると思った」
「さぁ、起きて」
レダさんのロブスターでもてなされた、商会に入ったあの日を思い出す。
ロイスと共にネリウスを脱出してから、もう二十年にもなる。
二十年でココまで来た。奇跡だ。
そろそろ、次の二十年を見据える時期なのかもしれない。
次の二十年、この暖かくて安らげる家で二人過ごしても、何とかなるだろう。
部下は優秀だ。貯金も沢山ある。当初の目的であった建国も、取り敢えずは達成した。
そろそろ、満足すべきじゃ無いのか?
このまま自衛能力を涵養すれば――否、『大穴』がある。我々はいつまでもココに根拠する訳にはいかない。だが、恐らく当面の間『大穴』は静かだろう。それに、私は災害なんて慣れているし、即ち国家滅亡を引き起こす訳では無いと知っているでは無いか。
ロブスターの食感と風味とを楽しみつつ、思案に暮れる。
気付けば全部を食い終わっていた。たっぷりのチーズとホワイトソースを使ったグラタンはレダおばさんからロイスへと伝えられた商会、ひいては我が家の定番料理だ。
「ねぇ」
食器を洗って片付けた後、食卓に呼ぶ声がある。
風呂上がりのロイスだ。この家の給湯器はワンオフ品で、追い焚き機能を付けている。
「んー?」
「どうするの、条約」
「……今のところはここが現状の妥協点かな、と。実利を取るならコレが良い」
「本当に? 議会が怒るよ。今でさえ『独特』の解釈で揉めてるのに」
「分かってる」
「ねぇ、私は少なくとも公国化されるべきでは無いと思うの」
たった二十年、されど二十年。ずっと共に歩んでいた彼女の手をずっと引いているつもりだったが、今や手を引かれている。
「どうして?」
「私達の子に、顔向け出来ない」
「えっ」
心当たりは勿論ある。健康な夫婦だから。
「まだよ」
「そうか、そうだよな」
残念なような、ホッとするような。
いたずらっぽく笑う彼女を見つめる。やっぱり笑顔が似合う。
昔と違うのは、どこか余裕があるような、それでいて本能的で熱っぽい視線をこちらへと向けるようになったことだ。
「ねぇ……今日はもう休めって」
「…………分かった」
「お風呂、入っておいで」
あの日、シクシクと泣いていた少女は、大人になっていた。
その声は毎朝毎晩国中で響いているから、広く知られているが、細い首と手首、寝間着に包まれたくびれた腰、甘い石鹸の香り。何度感じても飽くことは無い。柔らかさ。
そうだとも、それは私しか知らない。
拝啓、明日の私へ。
後は何だ、その――頼んだ。
拝啓、昨日の私、あとロイスへ。
なんてことしてくれたんだ。
襟を上げ、ネクタイをキツめに締める。
資料をブリーフケースにブチ込み、秘書官と共に公用車に乗る。
街には法的には戦争中だとは思えない程の平穏が回復されていた。港も再稼働して、昨日ロブスターが食卓に上がったのだ。
治安についても、警察大隊を復員した効果が出てきて改善傾向にある。
「本日宣伝大臣は――」
「午前休だ」
ああ、と秘書官は呆れたように息を吐く。クソ、頭より腰が痛い。
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「皇帝陛下、畏れ多くも申し上げますと、今すぐにでも――彼の国を攻め滅ぼすべきかと」
「1万の部下を殺し、尚朕の顔を潰せと、卿はそう言っていることを自覚しているか?」
皇帝はひどく冷たかった。
それは、皇帝のドーベックに対する忌避・嫌悪感と、内務卿が尚、武力に訴えんとすることへの呆れ、それと少しの『お前のためにここまでしてやったのに』という徒労感があった。特に皇帝が独自裁量で動かせる内務卿隷下部隊の大半を喪ったことは大きな損失として特記すべきだろう。
ヴィンザー帝国の武力組織は、その大半を貴族の私兵と武家とで賄っており、国外紛争に向けては皇帝が任命した『大公』に対して軍事費を下賜し、大公はその費用を元に傭兵若しくは他貴族からの部隊を雇用し若しくは皇帝の命令によって部隊又は代替金を供出させ、国内紛争の調停に対しては皇帝が命じて介入させる他、内務卿がこれを執行するという構造を取っていた。
これは現在帝国が直面している対外紛争が飽くまで法的に継続しているもの――ほんの、つい最近までそうだった――というクソ悠長な安全保障状況と、慣習に根拠したものだったが、要するに国軍と呼べるモノがほんの一部を除き存在していないのだ。
「カタリナ公を公国へと封じますことは、国内の不安を生じさせます」
「そんなことは分かっておる。それをなんとかするのが卿の仕事であろ」
内務卿は、頭ではこの『妥協案』が当時の最適解であることを理解していた。
少なくともお互いにメンツが立つ。尤も、相手方に潰すべきメンツなんてモノは無いが。
「皇帝陛下、彼の国と和睦すべきではありません」
「じゃあ、卿の身柄も返還せねばな」
「我らは負けてはおりません! まだ――「黙らんか!」
テメェがヘマしたせいなんだからこっちでケツ拭いてやったんだぞボケナス。とは言わなかった。もしリアムが皇帝の立場ならそう言っただろうが。
帝国が大幅に譲歩したのは、『ドーベック』を大穴が吹くまで封じ込めるには、満足させる必要があるだろうと、そのように考えたからであった。しかしその結果、内務卿が当初の目標としていた状態よりも更に悪化した状態――なんと、法的に隔離して半分外国みたいにしたにも関わらず、良いように言いくるめられて関税自主権を喪った――という恐るべき状態が共同宣言で確認されてしまったのだ。外務卿は何を考えているのか!
「交渉を出来る限り引き伸ばして有耶無耶にするという手もあります。内務卿が帰ってきたのですから、後はどうとでもなります」
「外務卿――「外国とて、我が国内部の問題と理解されるでしょう。国際約束は守られるべきですが、彼の国は外国とは言えない。丁寧に説明すれば、理解されるかと」
「我が国の国庫は現在危機的状況にあります。ドーベックに対しては外国として、ソレ以外の国に対してはドーベックを国内として、実質的には封じ込めるのです」
外務卿とて、あの共同宣言に不都合な点があることを承知していた。
しかし、内務卿よりも早く知っていた分、一計を案じる時間はあった。
「封じ込め、封じ込めか。それには彼の国に勝たねば――
しかし、内務卿はドーベックを封じ込められるとは到底思っていない。
あの統制され、教育された貪欲な群れは、きっと周辺をあっという間に飲み込んでしまうだろう。外敵として貴族共を団結したとしても、どうにかなるのか?
あの地積へとギチギチに部隊を展開して、そして負けた。
今のままでは、駄目だ。
先の戦の敗因は、明らかに翼竜騎兵の温存を過度に重視したことだ。その結果地上撃破の憂き目に遭っている。
だが、あの『爆発』も、穴を掘れば殆どが避けられる。戦訓は幾つかある。
準備が必要だ。
「卿は――勝てるのか」
皇帝が問う。
「まだ、わかりませぬ」
平和とは、次の戦争までの準備期間。その言葉は普通、斜に構えた者から発せられる概ね間違った言葉であるかもしれないが、少なくとも今回に於いては妥当した。




