緊急事態
「えっ、ドーベックが?」
「はい、中央郵便局からの確かな情報です。大穴が吹きました。通信途絶。被害不明」
ニュードーベックの、真新しい執務室。
10回目の建国記念日という、考えうる限り最も輝かしい日の早朝。
暫く息を深く吸う音だけが数回響いた。
「総理、」
「現時刻をもって、内閣は全国に対し非常事態を宣言します。アンソンさん。否、国防大臣」
「はい」
「国家市民軍元帥に推挙します。就任式は省略。認証は、後日、陛下の書面認証により行います。よって、現在時、国家市民軍元帥に任じます」
「謹んで拝命いたします」
ロイスは、太く、澄んだ声で、また満ちかけた沈黙を切り裂いた。
「全閣僚へ、緊急閣議を招集します」
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その数刻前。アンソンは日課のトレーニングをしていた。
彼女は、政治家である前に飽くまで職業軍人であり、現役に復帰してからというもの、歩兵に準ずるレベルの身体活動量と身体能力を維持する為、朝に時間を捻出して激動し、朝食前に入浴することを日課としていた。
国防大臣がそんな風なので、直属の部下である高級幕僚らも当然、それに付き合わざるを得なかったから、国家市民軍総軍司令部建屋の地下2階にあるトレーニングルームは、早朝だけは高級将校らの巣窟と化していた。
軍のトレーニングルームという所は独特な雰囲気が満ちている。と言っても、飽くまで友愛と相互尊重に満ちた雰囲気であり、端的に言えば、皆がリラックスして各々の課題をこなし、将校も兵も同じ『トレイニー』という、一兵卒と同じ立場にあって、普段は恐ろしい軍曹でも、懸垂が一回もできないトロい二等兵に親切にアドバイスするような――そういう雰囲気が満ちている。(一応更に説明すると、ただでさえ時間が無い軍人の貴重な自由時間を、ベッドの上では無くトレーニングルームで過ごすという選択をしたことに対する敬意が払われていると言える)
そんな場には相応しくない男、常装と短靴でトレーニングマットを踏みつけて、二科長めがけて疾走する男が現れて、場が一瞬凍る。
二科長は、報告を聞いて「うん」と頷いてから、ダンベルをベンチの下に置いてこちらを注視するアンソンに駆け寄り、そっと耳打ちした。
「第一報。ネリウスから、ドーベックの大穴が吹きました。ドーベック市内は粉塵に覆われて細部観察不能。駐屯部隊との通信はまだ取れていません」
総軍二科長からの報告を受けた総軍司令官――つまり、平時に於ける国防大臣であるアンソンは、どういう訳か高揚した。
さて、ドーベックは、大穴に寄りかかって成立している国家である。
で、大穴は『吹く』ことが知られており、だからこそドーベックは全く開発されずに、劣等種(と、キチガイエルフおばさん)以外からは見向きもされていなかったのだが、当然、『吹く』ことを想定した規定が憲法に書き込まれている。
ドーベック国法典 第1巻(憲法)17頁
第九章 非常事態
〔非常事態の宣言〕
第九十八条 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃又は武力攻撃の切迫、内乱、大規模な自然災害その他の緊急事態に際して、国が非常の措置を執らなければ憲法秩序を維持し、国及び国民の安全と人権を守ることができないと認めるときは、国の全部又は一部に非常事態の宣言をすることができる。
2 内閣総理大臣は、前項の宣言をしたときは、直ちに、国家議会の承認を得なければならない。
3 第九条の規定により戦争を開始したときは、国の全部に、本条第一項に定める宣言をしたものとみなす。
〔非常事態下の権限〕
第九十九条 非常事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同等の効力を有する緊急政令を制定することができる他、国の資産の全部に命令して、非常事態を終結させるために非常の措置を執ることができる。但し、この場合においても、この憲法が保証する国民の人権は制限することはできない。
2 前項の場合に於いて、国家市民軍は、法律又は緊急政令の定めるところにより、警察力を補助するため、国内で行動することができる。
まぁ、いわゆる「緊急事態条項」という奴である。
コレを発令する旨味としては、国家市民軍を動員して国内の憲法秩序を維持できる上、その行動根拠を内閣総理大臣が自由に決められるという点がある。
要するに、コンビ技を決められるのだ。
だが、この憲法はリアムが起草したようなものである。
あのパターナリズムの化け物、暴力の信奉者が、この程度で満足するわけは無い。次条を見てみよう。
〔戒厳の布告〕
第百条 内閣総理大臣は、前条の規定による非常の措置によっても尚、憲法秩序を維持し、国及び国民の安全と人権を守ることができないと認めるときは、象徴に対し、国の全部又は一部に対する戒厳の布告を勧告することができる。
2 内閣総理大臣は、前項の勧告をしたときは、直ちに、国会の承認を得なければならない。
この条項から、『象徴』による国事行為たる『戒厳の布告』に手続きが移行することが分かる(憲法七条12号)。続けて次条を見てみよう。
〔戒厳下の権限〕
第百一条 戒厳が布告されたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同等の効力を有する戒厳令を制定することができる他、国の武力若しくは警察力及び資産の全部に命令して、緊急事態を終結させるために必要とされるあらゆる行動をとることができる。但し、この場合においても、この憲法が保証する国民の人権は最大限に尊重されなければならない。
2 前項の場合に於いて、内閣は、内閣総理大臣を最高指揮官とする戒厳司令部を置く。国家市民軍は、戒厳司令部の指揮により、国内で行動することができる。
突っ込みどころ、というか、「おい」と指摘されざるを得ないポイントとして、非常事態宣言下では『この憲法が保証する国民の人権は制限することはできない』と表現されていた人権が、『この憲法が保証する国民の人権は最大限に尊重されなければならない』という表現に後退している点がある。
更に戒厳司令部が置かれ、国家市民軍の行動根拠が『法律又は緊急政令の定めるところ』から『戒厳司令部の指揮』になっているのである。
ゲキヤバである。
だが、元々ドーベックは都市国家であり、大穴が吹くというのは、都市国家そのものが吹き飛んでもおかしくないよなぁと、リアムは起草時に考えた。結果、
〔緊急事態下の特例〕
第百二条 国の全部又は一部が非常事態下又は戒厳下にあるとき、国家議会は、任期の定めにかかわらず、解散しない。このとき、議員の任期は、次の選挙が実施されるまでの間、継続するものとする。
2 本章に定める非常の措置又は行動は、内閣総理大臣又は象徴が緊急事態に際してその職責を遂行できないと認めるときは、内閣総理大臣又は象徴が職務を遂行できるまでの間、国家市民軍元帥がこれを行うことができる。憲法秩序が根底から転覆される明白かつ具体的な緊急事態が切迫し、或いは発生しているにもかかわらず、国家市民軍元帥が空位であるか死亡しているときは、国家市民軍の将校のうち、職務を遂行可能である最高階級の者が、国家市民軍元帥代理に就く。国家市民軍元帥代理は、国家市民軍元帥が遂行すべき全ての職務を行う。
3 国家市民軍元帥が前項の措置をとったときもなお、最高裁判所がその機能を有している場合は、その措置が真にやむを得ないものであったかを速やかに審査しなければならない。最高裁判所が、内閣総理大臣がその職務を遂行できると認める旨の決定をしたときは、宣言又は布告と、それに伴う非常の措置は、直ちに内閣総理大臣に引き継がれなければならない。
4 最高裁判所は、非常政令又は布告が憲法に適合するか否かを、終局的に判断することができる。
こういう条項が入れられた。
まず、「まぁ内閣総理大臣とか象徴とか死ぬこともあり得るわな」という発想から、その者らが死亡した場合にどうすれば良いかというのを予め示したのである。ここまでは良い。
問題は、権力継承先が『国家市民軍元帥』である点だ。更に、ドーベックが市民皆兵国家であることを良いことに、『国家市民軍元帥代理』にも権力継承先を指定している点である。(運用上、国家議会議長が予備役大将になっていたりするという摩訶不思議かつ暴力的な制度設計をしていた)
一応ブレーキとして、最高裁判所による審査を設けているが、国がそのような緊急事態下にあって、健全に活動できる司法権というのは、古今東西存在したことが無い。
要するに、リアムは自分の弟子ら――国家市民軍の将校らに、「あとは任せた!」することを予め予定していたのである。
それはまぁ、良い。運用の問題だからだ。
最も大きな問題は、その運用する者が国家市民軍元帥であること――『内閣総理大臣又は象徴が緊急事態に際してその職責を遂行できない』という文言の解釈をする者が、軍人であることにある。起草者の意志としては、これは死亡又は行方不明の場合を指しているのだが……思い出して欲しい。ある事態に直面し、「どうにかしろ」と言われた軍人が上官に向ける目を。『血の断行』のとき、リコが中隊長に向けた眼差しを。
こうすれば良いのに。あの人ならこうしたのに。
実際は熟慮とか、他事情の考慮の末に出された命令であっても、軍人の理想から離れていた場合には、そのような所感を持つことを禁じ得ないのである。
だが、軍人は命令に従う。何故なら、そうすることが義務であり、かつそうすることが期待されているからだ。
だが、国家市民軍元帥は、憲法上、『内閣総理大臣又は象徴が緊急事態に際してその職責を遂行』できるかできないかを判断し、行動を起こすことを期待されている。(と『も』解釈できる)
アンソンは、二系からの情報を自分の所で止めた。