遺言の前の人生ってなんだろう
人は死ぬ。
まあ、生物として生まれたからには、テロメアがなくなって細胞分裂ができなくなったとかいろんな理由はありますが、生きる事をどう考えるか、そう思えるのは思考できる生物である者が、その結果を何らかの形で伝達できるからこその問題であるという認識です。
あ、これ、評価とかそんな事別段どうでもいいです。
自分に対して考えている事を書き連ねる事だけのリソース消費なんで、チラ裏の戯れ言程度のものでしかないです。
面白いよね、そんな個人的な話なのに、なろうのシステムを使って、少なからずディスク容量を食い潰している、しかもそれが広告収入で賄われているとか言うと、まあ一利用者として利益を還元するという意味ではむべなるかな。
でね、人生ってなんだろうって思う訳ですよ。
生物の生きている理由。それは種の保存だったりするわけで、三大欲求とはよく言ったものだと思うのですよ。
食う寝る遊ぶ。
種の保存が遊ぶに組み込まれるというのもなんですけどね、受精の行為も気持ちいいからやるんでしょうね。快楽が付随する。
食べる、美味い、快楽。
寝る、リセットですっきり、快楽。
性行為、気持ちいい、快楽。
ふむ、なるほど。
で、知的生命体を自称する人類ですが、それでこれら三大欲求に代替とする快楽はなんぞ、という訳ですね。
承認欲求。
これも、認められる事で子孫を残せるとか、評価されて金が入れば美味いもんが食えるとか、そんな辺り。
物々交換が代替品としてお金になったってだけで、えっと、お金は物々交換よりも効率的に扱えるって事で、商品を交換するよりも一旦お金を間に挟んだ方が効率的だという訳で、そうなると、お金が重要なファクターになる訳で。
うーん、面倒くさい。
世の中、その「代替手段」にすり替わっている物が多すぎて、把握しづらくなっていますね。
承認欲求も、認められる事で子孫が残せる、美味い物が食える、安全になる事で平和に眠る事ができる、そこにつながっていくんでしょうかね。
ん?
子孫を残す、ここに尽きるのかもしれません。
子孫を残すためには、自分が食っていって生殖行為ができるようにならなくてはいけない。
そのためには継続しての稼働が難しいから寝なくてはならない。
食を得るためには食糧を確保しなくてはならない。寝る時に無防備になるから安心して寝られる環境を創らなくてはならない。
全ては子孫を残すため。
うーん、そうなると、今の社会、子孫を残さなくては駄目なのか、という議論になりますが、そこは社会全体の問題です。
社会を構築する一部分であれば、何も自分が子供を産まなくてもいいんです。
だって、男性は子供を産まないでしょう。機能的にもそうですけど。
となると、社会全体で、産める人は産んだらいいんです。産めない人や産まない人は、それを社会のコミュニティに参加しているのであれば、何らかの形でフォローしているんです。
それがリンクしないなら、それは社会を構成する為政者のせいにしていいと思います。
それはともかく。
そうなると、自分ってなんで生きているんだろうっておもうのですよ。
社会的な価値を見いださないと、生きている事そのものに疑問が生じてしまう。
働いてお金を稼ぐ、それは結構。
でもそのお金っていうのも、社会の信用があって、その上で価値があって、それを労働という物の対価で受け取る。それを消費する。
社会とか価値とか、そんな抽象的なイメージに踊らされて、金を動かす事に一喜一憂。
なんのために生きているのかなあって、思う訳ですよ。
死ぬにしたって、来世なんて記憶を持ったまま行ける訳でもなく、だったら今の記憶のままどうにかするしかないんです。
私はどう生きて、どう死んだら……。
幸せって、なんでしょうね。