「諸君。――共に、世界を救おうぜ」
それから数日間は平和な日々が続いた。
あれ以来侵略者が来ることもなく、事件が起きることもない。俺は大学に行ったり、シロハはスピと一緒に街を散策したり、灰原は麺類を摂取したりと、つまりはいつも通りの日々を過ごしていた。
時々起こる些細な出来事に一喜一憂する穏やかな日常。俺たちが勝ち取ったものは、そんな当たり前の毎日なのかもしれない。
「あの、ナツメさん。話したいことがあるんです」
そんな日々は、彼女の言葉で終わりを告げることになった。
ある日の夜、そろそろ寝ようかという頃合いにシロハは切り出した。パジャマ姿の彼女は布団の上に正座して、少なくとも正座をしようとして、足がしびれたのか結局はぺたんと女の子座りになった。
「どうした、改まって」
「ナツメさん。私、そろそろこの街を出ようと思います」
大変お世話になりました、と彼女は深々と頭を下げる。俺はその様子を見て、ぱちくりと目を瞬かせた。
街を出る。それは街から外に出ることを意味する。なるほどつまり外出か。どこか遠いところまで出かけてみたいってことだな。
「良いぜ、今週末あたりに出かけようか。どこか行きたいところあるか?」
「いえ、そういうことではなく」
「海にはまだちょっと早いからな……。観光地か山かってとこか。折角だし灰原も誘ってみっか」
「ナツメさん、違うんです。旅行ではなくて、私はこの街を出ることにしました。もう戻ってきません」
…………。
聞き間違いだったら良かったと思ったが、そんなわけがなかった。シロハは街を出ると言った。それはつまり、街を出るってことだ。
「新しい魔法少女を探しに行こうと思うんです。ひとまずの脅威は退けたとは言え、次の侵略者が現れないとも限りませんので。そうなる前に、少しでも魔法少女を増やさないといけません」
「それはそうだが……。でも、もう少しくらいゆっくりしてもいいんじゃないか」
「いいえ、もう十分すぎるくらい休ませていただきました。これ以上はただ、名残が惜しくなるだけです」
彼女は正しいことを言っている。介入派の末端であるリントヴルムを倒したところで、次の侵略者は必ず現れるだろう。それに備えて戦力を増強するのは、順当な決断だ。
それは分かっている。分かっているが、何か引き止める材料がないか探してしまう自分が居た。
「この街でも魔法少女は探せるだろ。俺たちも一緒に手伝うからさ」
「ナツメさん」
「それに古森鏡子だってあれっきりだ。ここに居れば、また彼女に会えるかもしれない」
「ナツメさん、そうではないのです」
シロハはゆっくりと首を振る。それから真っ直ぐに俺を見た。
彼女は純粋な瞳をしていた。何かを決意したときの、穏やかで強い色が瞳に宿る。俺は彼女のこの顔を何度も見てきた。そして彼女は、こうと決めたことは必ずやり遂げることも沢山見てきた。
「私は魔法少女です。世界を救うために刃を握ると決めた、魔法少女です。その宿命から目をそらしたりはしません」
「シロハ……」
「私には私の道があり、あなたにはあなたの道がある。私たちは、それぞれの道へと進むべきです」
俺の前には、宿命を背負った少女が居た。
彼女は強い。強く未来を見据えて、未知へと飛び込む勇気を持つ。こんなところで灰色に染まって、いつまでも日々に埋没する俺とは違う。
……だとしても。そんな道理を飲み込めないくらいに、俺はバカだった。
「一緒に居たいんだ。それだけじゃ、駄目なのか」
「私だって……。私だって、ナツメさんと一緒に居たいです。でも、この場所は本当に温かくて、優しくて、居心地が良いから。だから、これ以上ここに居てしまうと、私の決意が揺らいでしまう」
「良いじゃないか、それでも。シロハはもう十分頑張ったんだ。少しくらい休んだって誰も責めない」
「……駄目ですよ。だって私は、世界を救う魔法少女だから」
――たとえ何があったとしても、足を止めるわけには行かないんです。
己にそうあることを課した少女は、強く、美しかった。
俺はシロハを引き止めるために考えた、全ての言葉を飲み込んだ。行かせてあげるべきだ。宿命を背負った少女の道を阻むことなど、俺にはできない。
「……寂しくなるな」
絞るように漏らした声は震えていた。遅れて、同じくらい震えた声で彼女が「はい」と答える。
「元気でやれよ」
「はい」
「スピと仲良くな」
「はい」
「たまにはちゃんと飯を食えよ」
「はい」
「夜になったら寝るんだぞ」
「心配症ですね、ナツメさんは」
シロハはゆっくりと立ち上がり、俺の手を取った。
彼女は俺の手に、そっと口づけする。触れるか触れないかの淡く柔らかな優しい感触。たった一瞬の事だったが、俺にはそれが永遠に思えた。
「シロハ……?」
「お守りです。受け取ってください」
左手の甲に銀色の魔術紋が刻まれる。盾と剣を象った厳かな魔術紋は、ゆっくりときらめいていた。
意味を問うこともなく、彼女は背中を向けた。それから、小さな声で言った。
「それと、ナツメさん。私だって、嫉妬くらい、するんですよ」
シロハの耳は真っ赤に染まっていた。多分それは、俺も同じだろう。
俺は彼女を背中から抱きしめた。顔を見ることはできなかった。きっと今、彼女の顔を見たら泣いてしまう。せめて笑って送ってあげたかった。
「帰りたくなったら、いつでも帰ってこい。お前の居場所はここにある」
「……やめてくださいよ。行きづらくなるじゃないですか」
シロハは一度体を離し、正面から俺と向き合う。彼女は微笑んでいた。こんな時でも彼女は強い。顔を見ただけで、泣きそうになってしまう俺とは大違いだ。
「そんな顔しないでくださいよ。まったく、もう」
「だってよ……」
「また会いましょう。その時までは、さよならです」
俺はもう一度彼女を抱きしめた。少しだけ体を固くした彼女は、ゆっくりと力を抜いて、背伸びをして目を閉じる。
アプローチの仕方なんて知らないが、どうすればいいかは分かる。優しくて、甘くて、それからちょっとほろ苦い。そんな温かさが胸の中に染み透っていった。
*****
目覚めた時には、シロハの姿はなかった。
彼女は荷物と呼べるものは何一つ持っていなかった。スピだけを連れて、俺が寝ている間に居なくなってしまった。
昨日までは二人分だった部屋が、やけに広く感じられる。寝ぼけた頭は俺の感情をそのままに伝える。こぼれそうになった涙を慌てて拭って、それから顔を洗った。
俺には俺の道がある。思慕に足を止めていては、そう言った彼女に合わせる顔がない。俺は寒々しい部屋を抜け出して、重い体を引きずるようにして大学に行った。
「それでそんな面してたのか」
そこで灰原に捕まって、俺と灰原はいつもの空き教室で溜まっていた。
大学には来たものの、結局講義はサボることになった。いつもなら罪悪感もなくサボっていた講義も、今だけはなぜだか悪いことをしているように思う。それはきっと、彼女に背中を押されてしまったからだろう。
「女々しいって笑ってくれよ。こんなの、俺らしくないって」
「それは後でやってやるから安心しろ。酒でも飲みながらな」
俺はこいつとの友情に心底感謝した。こいつは本当に優しいやつだ。
「にしても、やっぱりシロハちゃんは行っちまったのか……。ナツメでも引き止められなかったんだな」
「知ってたのか?」
「ナポリタン食ってる時に聞いた。他の奴らにも話してたよ。決意が鈍るからお前には最後に話すって言ってたぜ」
そうか……。じゃあ、あの日からもうシロハは決意を固めていたんだな。
スピが言っていた、これ以上君の出番はないってのはこのことだったんだろう。その通りだった。一度交差した俺とシロハの道はここで別れ、交わることがないまま進んでいく。
俺はまた彼女に会えるのだろうか。またすぐに会えるかもしれないし、もう二度と会えないかもしれない。これからのことなんて、誰にも分からない。
「それで、ナツメはこれからどうするんだ?」
「どうするって?」
「あー、いや、別に具体的な何かがあるわけじゃないんだが。何時も通りに灰色の男たちで馬鹿をやるとか、しばらくゆっくりするとか。なんなら真面目に勉強して資格取ったりとかでもいいぜ。とにかく、何かやったほうが良いと思うんだよ」
灰原はタバコに火をつける。ふわっとした煙が教室に広がるのを見送って、俺は少し考えた。
「なあ、灰原。目的もなく、情熱もなく、ただ過ぎ去っていく日々に流されるのが俺たちの灰色だったな」
「まあそうだな。刹那的に今を楽しむ生き物だ」
「だったら、俺の灰色はそろそろ終わりかもしれない」
今の俺には、やりたいことがある。
明確な目的を自覚した。進むべき道を見定めた。彼女がそうと決めたように、俺もまた自分の未来を見据えることにした。
きっと今この時、俺の中の灰色に火が灯ったんだろう。胸の中に宿った小さな火は、灰色を焼いてきらびやかに輝いた。
「灰原。俺にはやりたいことがある」
「聞かせてくれ」
灰原は机に寝そべり、天井を見上げる。俺は窓の外を見た。柄にもなく真面目なせいか、顔を合わせるのが恥ずかったんだ。
「確かにシロハは世界を救う魔法少女だ。世界を救うその日まで、あいつに安らぎは訪れない。でもよ、シロハは魔法少女である以前に、一人の人間なんだ。痛みも辛さも感じる人間だ。涙を決意で覆い隠して戦い続ける、ただの女の子なんだよ」
シロハと共に過ごした日々を振り返る。頭の中に浮かぶのは過ぎ去っていった日々のきらめき。それを大事に胸に秘めると、胸に宿った小さな火が少しだけ大きくなる。
「だから俺は、決めたんだ。あいつがもう戦わなくてもいいような、そんな未来を掴み取るために」
俺は、シロハと一緒に居たい。シロハと一緒にいろんな景色を見て、美味しいものを食べて、いっぱい遊んで。楽しいことも辛いことも、これから先のすべての事を、シロハと一緒に分かち合いたい。
でも、そんな未来を夢見るにはまだほど遠い。それが俺の灰色だ。だから。
たとえこの先何があろうとも、この灰色だけは焼き尽くすと決めた。
「……惚れた女のため、か。オーケイ、よく言った。なあお前ら、そういうことだそうだぜ」
教室の扉がガラッと開く。ぞろぞろと入ってきたのは、俺と灰原を除く十六人の男たち。彼らは無言のまま教室に入り、それぞれの席に座った。
顔を上げた灰原がニヤリと笑う。お前の仕込みかよ。
「ナツメ。お前俺らになんか言うことあるんじゃねえの?」
「ああ? なんかってなんだよ」
「言わなくても分かってんだろ。とっとと言えよ、こいつらそれを聞くために集まったんだから」
ったく、しゃーねえなあ。わーったよ。
俺が教卓に立つと、灰色の男たちは一斉に俺を見た。どいつもこいつも馬鹿面だ。こいつらの顔を見ていると、なんだか不思議と勇気が湧いてくる。
期待に応えるとしよう。それが、灰色の男ってもんだ。
「そういうわけだ。俺にはやりたいことができた。だが、立ちはだかる敵はあまりにも強大だ。だからお前らの助けが欲しい。もちろん強制じゃない。各々の事情を優先してもらって構わない。だが――」
灰色の男たちは露骨にため息を付いた。くだらねえこと言うなよって意味だ。ああ、もう。こいつらってやつは、どいつもこいつも馬鹿ばっかりだ。
分かった、もう余計なことは言わない。少しの間を置いて、俺は覚悟を決めた。
「諸君。――共に、世界を救おうぜ」
喝采が上がる。その意味は問うまでもないだろう。
これはまさしく宣誓だ。俺たちの未来を決定づけた、大きな決断だ。夢と希望を失って久しい俺たちが掴み取った、輝かしい薔薇色への第一歩だ。
この日、俺たちの灰色の日々は、音を立てて砕け散ったのだ。