「……ぱんつ見えた?」
空をふわふわと踏みながら、ブラックシルトはゆっくりと伸びをする。
ブラックが目を覚ましたのはほんの数分前だ。正直なところ、まだまだ眠い。相変わらず体は重いし魔力は足りないし、お腹も大変よく空いている。あまりよろしいコンディションとは言えない。
それでも、リントヴルムの足止めをするくらいはたやすかった。
「おっと」
リントヴルムはしばし迷った後、ホワイトの後を追おうとした。
彼が動き始めようとした時には、ブラックは既に進路を塞いでいた。強引に突破しようとするリントヴルムを、柳のような自然体で翻弄する。爪牙の一撃を日傘で反らし、伸びる尾の刺突をクロユリの盾で弾く。引き絞った翼の双撃は、それぞれの足の裏で同時に受け止めた。
左手でまくれあがったスカートを抑え、ブラックは恥ずかしそうにストローハットで顔を隠した。
「……ぱんつ見えた?」
ひゅるんと体を回して翼を巻き込み、体全体を使って投げ飛ばす。すとっと軽やかにブラックは着地し、投げ飛ばされたリントヴルムは荒々しく翼を羽ばたかせて態勢を立て直した。
リントヴルムの目つきが変わる。目の前のこれを無視することはできない。刃のように鋭い牙をギリギリと噛み合わせ、ブラックの首筋に狙いを定めた。
「おーこわ。怒った? 思春期の男の子は大変だ。いいよ、お姉さんがたっぷりお相手してあげる」
脳裏に直接響く声は、真空を越えてリントヴルムを挑発する。余裕満々のシニカルフェイスで、誘うように白い指を揺らした。
注意を引きつける一方で、ブラックは冷静に戦況を判断していた。余裕と優位を演出しているが、内心は全くの逆。自分が後数分も持たないことはよく分かっていた。
(くっそ、もう魔力が尽きてきた。まだ黒百合盾式しか使ってないのにこのザマか。あー、眠いお腹空いたお風呂入りたい……)
丸一週間近く眠りについたことで多少は魔力も回復したが、こうして戦場に立つのがやっとだった。魔法も使えて後数回。それ以上は無理すらもできない。今だって本来なら絶対安静にしていなければいけないのに、無理に無茶をいくつも重ねて騙し騙し戦っている。
長くは持たない。勝つことも不可能だ。ならばどうするか。リントヴルムの猛攻をやり過ごしながら、ブラックは地上へと意識を向けた。
「久しぶりだねナツメくん。元気そうで何よりだ」
*****
頭の中で、古森鏡子の声がした。
二度目の言葉で確信する。聞き間違いではない、間違いなく彼女の声だ。しかし周りを見ても、彼女の姿はどこにもなかった。
「古森さんか? どこにいる?」
「リントヴルムの目の前だ。月夜をステージにして踊ってる。君も招待したかったよ」
空を見上げる。真っ赤に染まった月夜の果てに、白い光の側でほんのりと瞬く黒が見えた。あれが古森鏡子――いや。魔法少女ブラックシルトか。
「残念。目を凝らしたってスカートの中は見えないよ。もう見せない」
「……随分余裕がありそうじゃないか」
「まあねー」
気の抜けた言葉に俺は苦笑する。相変わらず掴み所がない。余裕満々な返事があったが、それもどこまで本当なのか疑わしかった。
「ナツメくん。君に聞きたいことがあるんだ。正直に答えてほしい」
「おう、なんだ?」
「私の愛しいホワイトちゃんとはどこまでヤッた」
「はあ!?」
大きい声が出た。
灰原とスピが不思議そうな顔で俺を見上げる。古森鏡子の声は俺にしか聞こえていない。そのことはさっき確認していた。
「なんもやってねえよ」
「何もってことはないだろう。ほら、正直に言うんだ」
「あのなあ、俺とシロハはそういう関係じゃないって」
「それ本気で言ってんの? あんな可愛い子と同じ部屋で暮らしておいて、懸想の一つも無かったって? いーや嘘だね、私だったらその日のうちに押し倒す」
うっせえな、クソ。そういう目で見ないようにしてんだよ俺は。だってそうだろ、もし俺があいつを傷つけちまったら、あいつには逃げ場なんてどこにもなくなっちまう。それだけは絶対にやっちゃいけないんだよ。
「ほらほらほら。どんなものでもいいから」
「……タバコの回し呑みなら、した」
「間接キスかよ……。君、逆にすごいね。中々童貞こじらせてる」
やかましいわ。なんなんだよ、久々に会ったかと思えば何でこんな話させられてんだ。
「質問を変えるよ。ホワイトのこと、どう思ってる」
「あのなあ、そんな話してる場合じゃないだろ」
「そんな話をしてる場合なんだ」
真剣な響きだった。皮肉が抜け落ちた真っ直ぐな言葉に、俺は少し戸惑う。
言葉の意味を把握する間もなく、彼女は小さな悲鳴を上げた。それから、少し荒くなった吐息も。
「古森さん? 大丈夫か?」
「一発かすった……。こっちのことはいい。ナツメくん、質問に答えて」
彼女は今も戦っている。戦いの渦中に今も身を躍らせながら、こんなくだらない質問を重ねてくる。
きっと必要なことなのだろう。彼女が何を考えているのかはわからない。それでも俺は、彼女の言葉を無意味なものだとは思えなかった。
「言っとくが、恋とか愛とかそういうのじゃねえぞ。俺はあいつをそういう目で見るつもりはない」
「臆病者め」
「なんとでも言え。俺はただ、あいつに幸せになってほしい。それだけだ」
あの日偶然に出会って、駆け抜けるように日々を過ごした。たった二週間。されど二週間。彼女の希望も、彼女の願いも、彼女の絶望も、その全てに触れるには十分すぎる時間だった。
理由なんてそれだけで十分だ。気に入らない灰色は焼き尽くす。灰色の男とはそういうものだ。
「そこは、俺が幸せにしてやるって言うとこでしょ」
「このザマじゃな。今後の努力目標にさせてくれ」
「ふむ。今日のところは及第点としましょう」
「そりゃどーも」
微笑と苦笑が交差する。その時、右手の甲がカッと熱くなった。
手の甲に刻まれた魔術紋が紫紺の輝きを放つ。体の中から湧き上がる何かがここに集まっていくような、そんな不思議な感触がした。
「使い方はわかるね。前教えたとおりだ」
「古森さん、これは一体――」
「悪いね、質問に答える余裕は無い。それからそこの観測者。盗聴してんだろ」
古森の口調が少しだけ攻撃的になる。それを受けたスピは、隠す気もなく苦笑いしていた。
『盗聴呼ばわりは心外だよ。これでも僕は、長い間君とホワイトのサポートをしてきたつもりだったけど』
「お前が裏で何をしていたのかは全部知ってる。今回だって干渉派の侵略者に信号を飛ばしてただろ。だから敵はいつも、お前がいる場所に現れた」
『…………。君がそう受け止めるのなら、僕はそれを否定しない』
刺々しい言葉だ。彼女たちの間に何があったかは知らないが、魔法少女とマスコットの関係性は完全に崩壊していた。
正直俺はまだスピのことを計りかねている。こいつが観測派の侵略者ということは疑いようもないだろう。だが俺は、これまでのスピの言葉が全て嘘だったとはどうしても思えなかった。
「邪魔したければそうすればいい。お前ならできるだろ」
『直接的な干渉は趣味じゃなくってね。僕はあくまでも観測者だ』
「そうかい」
『ああ、そうとも』
二人の会話はそれで終わった。言いたいことはまだまだあるが、互いに言葉を飲み込んだ。俺にはそんな風に感じられた。
「さて、それじゃあ私はそろそろ……。と言いたかったんだけど、もうちょっとだけ頑張るか」
「? どうしたんだ?」
「計画変更だ。なに、良い知らせだよ。あの子が頑張ってくれたようだ。ほら、そこからでも見えるだろ?」
古森に言われて目を凝らす。空の果てで瞬く白い光が、繰り返し強く輝いていた。