「寝たいご飯食べたいお風呂入りたい……」
深淵が張り詰める静寂の世界に、歪が生まれた。
生まれた歪は大きくひび割れる。身の丈ほどに広がったひび割れを豪快に蹴破って、古森鏡子は虚無の世界に入り込んだ。
「だっる……。寝たいご飯食べたいお風呂入りたい……」
けだるげな呪詛を吐きながら、古森は深い闇の中に倒れ込む。蠢く闇は形を変えて、彼女の体を優しく受け止めた。
『おかえりなさい、ブラックシルト。久方ぶりの外の世界はいかがでしたか?』
「満喫してきたように見える……?」
暗闇に不思議な声音が響く。脳内に直接文字が書き込まれるような不快感に、古森は――魔法少女ブラックシルトは顔をしかめた。もう長いことこの場所に居るはずだが、この感覚だけはいつまで経っても慣れない。
『ひどい有様ですね。やはりまだこの場所を出るべきではなかったのでは?』
「んなことは分かってる。でも、やらなきゃいけなかったんだよ」
『無理は禁物ですよ。あなたはまだ、万全とは程遠いのですから』
「だったら声抑えてよ……。あんたの声、頭に響くんだ」
古森が暗闇にぼすっと手を突っ込むと、次元の狭間からペットボトルが出てきた。蓋を開け、ミネラルウォーターを頭からざばざばと浴びる。
頭が冷える。心地よい。古森の中で絶え間なく騒ぎたてる飢餓が、少しだけ収まった気がした。
『具合はいかがでしょう』
「んー。本調子の二割ってとこかな。あーくそ。調子乗って喋りすぎたせいで、余計な魔力使ったわ」
『ブラックシルト、可能な限り魔力の消費は控えなさい。あなたはまだ実体を取り戻したばかりなのですよ』
「わーかってるっつの。説教すんな」
ブラックのお腹がくぅと鳴る。体は常にエネルギーを求めているが、いくら食べても満たされることはない。彼女が真に必要としているのは、カロリーではなく魔力だ。
不便な体になったものだとブラックは自嘲する。あの頃はお腹が空くことも、眠くなることもなかった。かといって食べて眠ったところで、何が回復するわけでもない。
とにかく空腹を誤魔化そうと、暗闇から板チョコを引っ張り出す。包み紙を剥いで頭からバリボリと齧りついた。暴力的な糖分で口元を汚しながら、勢いのまま一枚まるっと胃袋に収めた。
「こんなん食ってもなー。あー、魔力が食いたい。余計な手が加えられてない、生の魔力が」
『私のでよければ、食べますか?』
「あんたのソレは味が濃すぎる。魔法少女の私が食ったら腹壊すわ」
暗闇に蠢くモノが放つ魔力は確かに特上だ。だがそれを食べてしまえば、ブラックはブラックでいられなくなる。手を出すにしても、せめてもう少し体調が回復してからにしたい。
包み紙を適当に放り投げて、ごろんと寝返りを打つ。食後の一休みだ。極めて人間的な欲求にブラックは身を委ねた。
「昔は魔力なんて一晩寝れば全快したのになぁ。私も年かぁ」
『人の一生は短いですものね。そろそろブラックも寿命ですか』
「ジョークだ。通じろよ、バケモノ」
ブラックが嗤うと、空間に満ちる闇が少しだけ揺らいだ。声の主なりの感情表現だということは分かるが、どういう意味かまでは分からない。
『魔力の回復方法はご存知でしたよね? なら、どうしてそれをやらないのですか?』
「いやまあ、確かに知ってるけどさぁ……。やろうと思ってやれることじゃないじゃんね。こればっかりはどうしようもないじゃん」
『そうなのですか? 人間ならば簡単なことだと思いますが』
「人間ってのは複雑なんだよ。バケモノにはわかんないだろうけどなー」
どうすれば魔力を回復できるのか、ブラックは知っている。だが知っていたところで、彼女自身ではもうどうすることもできない。どうにかできるならとっくにやっている。
だからブラックは、彼に助けを求めるしかなかった。
「……許せよ、棗裕太。たとえその気が無かったとしても、君は最後の希望なんだ」
ホワイトブランドと灰色の男たちが出会ったあの夜、魔法少女の命運は首の皮一枚繋がった。
彼らが現れたことでホワイトは生き残り、今は少しずつかつての力を取り戻しつつある。それだけではない。戦場に関与する一般人の存在は、侵略者たちにとって想像以上に厄介なものだった。
彼らの存在により、介入派閥の侵略者は魔法少女に手を出せなくなった。そして観測派閥の侵略者もまた、大っぴらな行動を抑制させられている。
介入派、観測派、魔法少女。地球を戦場として繰り広げられている三者三様の代理戦争は、灰色の男たちの手により停滞を強いられた。そうして生まれた時間は、ブラックにとって千載一遇の好機だ。
「ようやく面白くなってきた。なあ、バケモノ。お前もそう思うだろ?」
『わかりませんよ。ですが、あなたが面白いと言うならば面白いのでしょうね』
「つれねーなぁ。まあいい、私もアンタと仲良くやりたいとは思わない」
また少し、闇がうごめく。それがどういう感情なのかはブラックには分からない。そもそも知ろうとも思わなかった。
「次の満月の夜。もう一度、あの街へ行く」
ブラックが何気なく投げかけた言葉に、闇がざわめいた。
『おやめなさい。貴女はまだ、戦場に立てるような状態ではありません』
「無理は承知だ。それでも行かなきゃいけない時はある」
『ですが、もし万が一のことがあれば……』
「とっくにその万が一の状況なんだよ。のんびり休んでる暇なんて無いんだ」
ブラックは淡々と思考を回す。体は動かずとも頭は動く。今となっては、それが魔法少女ブラックシルトの最大の武器だった。
『戦況はそんなに厳しいのですか?』
「んー。ぶっちゃけ勝率1%もあればいい方なんじゃね? 百回やったら九十九回は世界滅ぶよ」
『ダメじゃないですか』
「だから私が行くんだよ。2%くらいにはなるから」
『しかし……』
「大丈夫。私さ、昔っから悪運だけは強いから」
実感のある言葉だった。一度命を燃やし尽くし、世界から消失したというのに、何の因果か甦った彼女だ。どれほど分の悪い賭けだろうと、押し通してみせる意地はある。
「ホワイトが必死に戦い続けて、棗がひっかき回した最高の舞台だ。ここで踊らずしていつ踊る。たとえ万に一度の奇跡だろうと、最初の一発で引き起こしてやるよ。それが魔法少女ってものだろ?」
『……。わかりました。でしたら、私も微力ながらお手伝いさせていただきます』
「それはやめろ。あんたが出てくると比喩抜きで世界が滅ぶ。マジでやめろ」
『なら、せめてここで祈らせてください。貴女の願いが叶いますようにと』
「……私の願い、ね」
底冷えするほどに冷たい声で、ブラックは言う。
「忘れんな。私の願いにはお前も含まれてんだよ、バケモノ」
『承知しております。だからこそ私は、貴女に協力しているのです』
「……食えないやつ」
『貴女に言われるとは、私も捨てたものではありませんね』
バケモノは敵意すらも優しく受け止める。それなりに長い付き合いになるが、ブラックはコレの真意を計りかねていた。
本来ならば決して関わることのない、決して関わってはならない相手だ。こうして会話が通じていることすら奇跡に近い。そんな相手に背中を見せることには抵抗があったが、ブラックには手段を選ぶ余裕は無かった。
「後は……。あー、そうだ。棗にあれ言うの忘れてた」
ポケットからスマホを引っ張り出し、棗にぺたぺたとメッセージを送りつけた。会話ですらない一方的な情報供与。普段ならばコミュニケーションの一つも楽しむところだが、それ以上に今の彼女は眠かった。
送るだけ送りつけると、既読も確認せずにスマホを放り投げる。型落ちしたスマートフォンは、闇に沈んで消えていった。
「しばらく寝る。満月の夜に起こして」
『ええ。ゆっくりおやすみなさい』
仕込みは済んだ。後は体調回復に努めよう。寝転んだまま目を閉じると、眠気が意識を重く沈めた。
まどろみの中、寝る時くらいはいい夢を見たいなんて戯言混じりに、ブラックは考えていた。
(せめて、一目だけでもホワイトに会いたかったな……)
こんな簡単な願いすらも、叶えるにはまだ程遠くて。
黒の魔法少女は暗闇に包まれて眠りについた。





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