「らぶちゅっちゅ」
最近、講義が退屈だ。
最近に限らずとも講義は退屈だ。世界創生のその日より大学の講義とは退屈なものと定められている。だが、最近の講義は輪をかけて退屈であった。
俺には早く帰ってシロハと遊ぶという崇高な使命があるというのに。なぜいまだに俺は講義室に縛り付けられているのか。ああ、なんたることか。これぞまさしく学府の横暴に他ならぬ。
今こそ決断の時である。果敢なる決意を持って単位を投げ捨て、颯爽と講義室を立ち去るのだ。やあやあやあ。我こそは灰色の男がその一人、棗裕太その人である。いざ行かん。
そんな空想に逃避したりしなかったりしつつ、俺はアメリカ経済史の講義を乗り切った。まあ、うん。単位は大事だよね。許せシロハ。恨むなら文部科学省を恨んでくれ。
とは言え今日の講義は終わりではない。次の講義は現代資本主義論。俺の安息はまだまだ遠い。ため息をこらえつつ、俺は次の講義室に移動した。
座席のポジショニングは、講義室の真ん中ちょっと左がマイジャスティス。前方は真面目に講義を受ける学徒の聖域であり、後方は講義中でも馬鹿騒ぎをしたがる薔薇色どもの動物園だ。どちらにも染まらない灰色の俺は、その中間でほどよく講義をサボることにしていた。
「お邪魔するよ」
彼女は返事を待たず、俺の隣に腰掛けた。
綺麗な子だった。ふわふわした金色のボブに、漆黒のストローハットを乗せている。アイスブルーの瞳はぱっちりと開かれ、口元は機嫌良くにやつく。表情からにじみ出る無邪気さとは裏腹に、瞳は見透かすような鋭さを放っていた。滑らかで、可憐で、怜悧な少女だった。
背丈は中学生くらいか。とても大学生には見えない。着ているのはゴシックな趣味の入った漆黒のワンピース。足元まで黒のローファという徹底っぷりだ。首に巻いた黒いチョーカーにぶら下がる金の鈴が、黒猫を強く意識させた。
「棗裕太くんだね。少し、お時間いいかな」
「いいや、人違いだ。俺の名は山田・マキシマム・爆竜太。棗裕太ならそこのあいつだぜ」
「……」
俺は名も知らない誰かの背中を指さした。彼女は俺から視線を外すこと無く、二度瞬きした。
「山田・マキシマム・爆竜太くんだね。少しお時間いいかな」
「……悪かった。その名で呼ぶのは勘弁してくれ」
「とっさに偽名を使うのは結構なんだけど、もう少し何かなかったの?」
彼女はいたぶるように微笑んだ。手強いな。ったく、一筋縄ではいかなさそうだ。
言わずもがな、俺はこの女に最大級の警戒を向けていた。これほど目立つ容姿だと言うのに、俺は彼女を学内で見た覚えがない。おまけに彼女は俺の名を知っている。怪しい女が俺にピンポイントで接触してきたのだ。これで平然としていられる理由がない。
「なあ、あんた。名前は?」
「私? 私は田中・ヘルファイア・牙王丸。眷属からは、畏怖を込めてガオちゃんと呼ばれている」
「どうやら俺たちは出会うべくして出会っちまったようだな……」
俺は彼女を受け入れた。他人という気がまるでしなかった。ここに瓶ジュースがあれば、カシュッと開けてグイッと乾杯していたことだろう。ガオちゃんにならば俺の全てを教えても構わないとすら思えた。そう、これまで誰にも言うことのなかった、あの話を。
「俺さ。小学生の頃、好きな女の子が居たんだ」
「なにゆえ突如小学生の頃の話を始めた」
「その子にだけ、当時大事に育てていたカナヘビを見せたんだよ。喜ぶかなって思ってさ。そしたらガチ泣きされて、その後卒業まで一言も口聞いてくれなかったよね」
「心中お察しするけど、率直に言って私は今リアクションに困っている」
「それ以来、俺のあだ名はカナヘビ男だ。なぜか他の学年にも伝わって、二年下の名前も知らない女の子が、俺の顔を見ただけで泣き出したこともある」
「ああ……。うん、辛かったね。で、これ、何の話なの?」
「その後帰りの会で吊し上げられて、その子の教室まで謝罪に行かされた」
「やめろ……! わかった、わかったから! 君は悪くないから、もうそれ以上言うな!」
なんでだろう。涙が止まらないんだ。教えてくれよ、ガオちゃん。俺はどこで間違えたんだ。多分最初からなんだろうな。どうしてあの日の俺は、女子はカナヘビを見たがらないことに気が付かなかったんだろう。だって男子の間じゃ大人気だったんだよ。カナヘビ。ラブリーじゃん。
「あ、どうも。雨城大学二回生の棗裕太です」
「この流れからなんでもないように自己紹介するんだ……。古森鏡子。よろしく」
はいはい、古森さんね。よろしくね。
「それで、何の用なんだ?」
「やっと本題に入れる……。君のことは知っていたけど、正直ここまでとは思わなかったよ。あの子はよく君みたいなのに付き合えるね」
「あの子? ボンジョルノのことか?」
「誰だよ」
ボンジョルノではないらしい。となると、シロハのことなんだろうけど。
あー、うん。そうだとは思っていたけど、やっぱり魔法少女関係者だよな、こいつ。さてはてこいつは、敵か、味方か。
「介入か、観測か。どっちだ」
以前リントくんが言っていたことを聞いてみる。言葉の意味は分からないが、試金石にはなるだろう。
彼女は俺の問いかけに動じること無く、不敵に微笑んだ。
「それは侵略者の派閥を指す言葉だ。だがあえて答えるのなら、どちらでもない。君と同じだよ、棗くん」
「……ふうん。だったら仲良くやれるかもな」
「当然。私は君と友達になりにきたんだから」
俺と同じ、ね。なるほどなるほど。よくわからん。
まあでも、敵ではないってことなんだろう。少なくとも今のところは。ひとまずそれだけでも十分だ。
「本当だって。私は君とよく似た目的の下に行動している。と言っても、すぐには信じられないかな?」
「おいおい、冗談はよしてくれ。俺がこれまで古森さんを信じなかったことがあったか?」
「さっき露骨に試したよね」
肩をすくめる。手強い相手だ。少しでも隙を見せれば、簡単に突いてくる。こういう輩はできるだけ敵に回したくない。
「口で言ってもしょうがないか。棗くん、少し失礼するよ」
古森さんは俺の手を取る。貴婦人のように優雅な所作だった。そして、俺の手を彼女の口元に近づけて。
俺の手の甲に、何かとても柔らかいものものが押し当てられた。
「…………」
しばしの間、俺は硬直していた。
ええと……。今のって、つまり、その……。なんだ……?
「古森さん……。今、何をした……?」
「らぶちゅっちゅ」
らぶちゅっちゅ。
「らぶちゅっちゅか」
「らぶちゅっちゅだ」
「らぶちゅっちゅなのか」
「らぶちゅっちゅなのだ」
俺の頭は完全にショートしていた。なるほど、らぶちゅっちゅだそうだ。らぶちゅっちゅってなんだ。らぶちゅっちゅってなんなんだ!?
「らぶらぶの証と受け取ってくれて構わないよ。うむ」
「うむじゃない。俺が構うんだよ」
「君、意外と初心だね。ひょっとして初めてだった? だとしたら……。あの子に悪いことしたかな」
「やかましいわ。生まれてこの方彼女が居ない灰色大学生の気持ちを弄んで楽しいか」
「楽しい」
「でしょうね」
こういうところ本当に親近感が湧く。好敵手と言って差し支えないだろう。おのれ古森鏡子、侮りがたい女であった。
「それ、お守りだから。大事に使ってね」
古森は楽しそうに笑って俺の手の甲を指さした。改めて確認すると、手の甲になにか不思議な紋様が描かれていた。ハートマークにも花びらにも見える。ラメのように輝く濃紺の紋様は、手でこすっても全く落ちなかった。
「お守り、ね。ピンチになった時にかざすと奇跡が起こるタイプのアイテムか?」
「そうそう。大切な人を守りたい時に、空に掲げて叫ぶといい」
「なんて叫ぶんだ」
「らぶちゅっちゅファイヤー」
らぶちゅっちゅファイヤー……。
冗談だとは思う。だが、それはそれとして試してみたい衝動が俺の身を貫いた。なんのことはない。講義室のど真ん中で突如立ち上がり、片手を天空にかざして「らぶちゅっちゅファイヤー!!」と叫びたくなっただけだ。男ならば誰でも俺と同じことをやりたがるだろう。しかしあまりにも賢明な俺は、ぐっと我慢することができた。えらいぞ俺。
「君とのおしゃべりはとても刺激的なんだけど、悪いね。私には時間がないんだ。来て早々だけどお暇させてもらうよ」
「? 古森さん、俺とらぶちゅっちゅしにきたのか?」
「その言い方は語弊があるけど、そう捉えてくれて構わない。言っただろう。私は君と友達になりにきたんだって」
時間がないというのは本当なのだろう。彼女は性急に立ち上がった。かと思うと、彼女は手にスマートフォンを差し出した。
「だから、RINE交換しよう」
「……おう」
スマホ、持ってるんだ。浮世離れしたイメージにそぐわず、俺は少々戸惑った。
連絡先を交換し、挨拶代わりのスタンプを送る。クリオネがサンドバックをボコボコにしているスタンプを送ると、古森は機敏にポーズを決める十六頭身のスタンプを返してきた。引き分けだな。
「それじゃあ。また会おう、棗くん」
「ああ。またな、古森さん」
足早に去っていく彼女を見送る。その時俺は、ちょっとした違和感に気がついた。
彼女の足元には、本来そこにあるべき影が無かったのだ。
(……ふうん。ファンタジーじゃん)
入れ替わるように教授が入室する。そろそろ講義が始まるようだ。カバンからルーズリーフを引っ張り出しながら、俺は今しがた見た光景に首をひねらせた。





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