「男には単位より大事なものがあるんだよ……」
シロハの意識はゆっくりと浮上した。
起床時独特の浮遊感。曖昧な意識が少しずつ輪郭を描き、自分という人間を形作っていく無防備な時間。満足に動かないふわふわした頭で、シロハはとりとめもなく考えていた。
どれほど眠っていたのだろうか。寝たのは久々だ。夢は見なかった。結局寝たところで何が変わったようにも思えない。でも、頭は軽い。ふわふわする。それに引きずられて、気持ちも軽い。うん、よく寝たかな。
「ん……うー……」
少し、寝たりない。まだ寝ていたい。この曖昧な時間をもう少し感じていたい。
睡眠欲など無かったが、シロハは自然にそう思っていた。布団の中で寝返りをうち、もう一眠りと目を閉じる。
「…………う?」
寸前、人の気配を感じた。
目を開く。同じ布団でナツメが寝ていた。ああ、なんだ、ナツメさんか。そう納得しかけて、もう一度目を閉じる。
「……はうあっ!?」
シロハは飛び起きた。
なんで同じ布団でナツメが寝ているんだ。というかそもそも、布団の中で寝た覚えはない。無意識のうちに布団の中に潜り込んでしまったのだろうか。殿方と同衾してしまうとは、この魔法少女一生の不覚である。
「かかかかか、かくなる上は……!」
『かくなる上は?』
「この人を殺して、私も……!」
『過程が十段階くらいふっとんだねー』
スピはシロハの頭上に飛び乗る。ふわふわした前足でシロハの髪をポスポス叩いた。
「どうしよう……どうすればいいの……!?」
『布団から出ればいいと思うよ』
「その手があった!」
シロハは少し落ち着きを取り戻す。それから、ナツメを起こさないように布団から抜け出そうとした。
が。その動きは、他でもないナツメ自身に阻まれた。
「シロハー……」
名を呼ばれ、シロハは硬直する。起こしてしまったのだろうか。見られるとまずい。他人の布団に潜り込むようなはしたない子だと思われてしまう。それは、とても、よろしくない。
「ジーラ○ス……捕まえてきて……」
「……へ?」
「あと……ホ○ルオーも……」
意味が分からなかった。
ナツメはごろりと寝返りを打つ。なるほど寝ぼけているらしい。起こしてしまったわけではないようだ。なら、今のうちに。
「行くな……シロハ……行かないでくれ……」
そう言われましても。
妙に情がこもった言葉に、シロハはどうするべきか迷った。
「ジェイムス……お前もだ……」
誰だよ。
「ボブ……ミハイル……ヨハンソン……アニー……シロハ……」
頼むからその謎の人名ラインナップに私を加えないで欲しい。どうすればいいんだ私は。シロハはひたすら困惑した。
「死ぬほどベイブレイバーやろうぜ……」
もはや意味が分からない。いや、意味など最初から何一つとして分からなかったが。
一度落ち着こうと、シロハは時計を見る。時刻は午前九時前。シロハは大学の講義が始まる時間は知らないが、今が随分と悠長な時間だということはわかった。
「シロハー……。朝飯何がいい……?」
「あの、ナツメさん。起きてますよね」
「大学行きたくねえ……」
「起きなさい」
シロハが布団を剥ぎ取ると、ナツメは笑いながら起き上がった。完全に確信犯である。
「おはようさん」
「……おはようございます」
『おはよー。よく寝てたね』
なんでもないように挨拶が交わされる。色々どうでも良くなって、シロハは小さく笑みをこぼした。
ちなみにこの間、灰原は何事もなく眠りこけていた。誰よりも早く寝たとは思えないほどの、堂々とした眠りっぷりであった。
*****
で。案の定。
「やべえやべえ、遅刻する遅刻する」
ナツメは大急ぎで朝の支度をしていた。といっても、野郎の支度など大したものはない。顔を洗って、寝癖をしばいて、服を着替えれば完了だ。その気になれば五分で終わる。
今すぐ大学に走っても講義時間には間に合わない。遅刻はすでに確定している。だが、幸いにも今日の一限は遅刻に寛容だった。
「おい諦めんな灰原。社会地理学なら十分くらい遅刻したって許されるから」
「ナツメー。俺午後からいくわー……」
「ばっかお前単位がどうなってもいいのかよ」
「男には単位より大事なものがあるんだ……」
「それはあるが、今じゃない」
ナツメは灰原をひきずりおこし、洗面台に投げつける。顔を洗えば目も覚めるだろう。
「うー……。なんでだよー……ナツメー……なんでなんだよー……」
「やかましいわ。母上様より留年だけはするなとお達しを受けたのを忘れたか」
「俺のかーちゃん、大学受かっただけで嬉し泣きしてたから……」
「じゃあちゃんと卒業してもう一回泣かせてやるんだよ。ほら急げ」
灰原は嫌々ながらも手を動かし始める。一度エンジンがかかれば後は早いものだった。くすんだ金髪を雑にセットし、寝袋と共に持ってきた着替えを装着する。ひっつかんだカバンの中にはルーズリーフと筆箱だけ。教材は友人から借りるつもりだ。
「準備できたか? 行くぞ」
「はいはい、行こうぜかーちゃん」
「誰がかーちゃんだ」
さて行くぞ、と玄関で靴を履く。今まさに飛び出そうとする寸前、ナツメは思い出した。
「あ。やっべ、忘れてた。シロハー!」
「はーい」
ナツメは玄関の収納から鍵を取り出す。とてとてと寄ってきたシロハに、それを握らせた。
「? なんですか、これ」
「合い鍵。どっかでかけるなら、鍵かけといて」
「……へ?」
シロハはぱちくりと目をまたたいた。しばらく硬直し、言葉の意味を咀嚼する。それは、つまり。
「私、ここに居てもいいんですか……?」
「そりゃそうだろ。むしろいてくれなきゃ困る。また探しに行くのは面倒だからな」
「探すって……。私を、ですか」
この人は、そこまでして自分に付き合うつもりなのかと。呆れる半面、シロハは言葉にできないほど嬉しかった。信じられないような顔をしてその場に立ち尽くすのがやっとだ。
「ナツメー。時間やべーぞー」
「っと、そうだった。じゃあ行ってくるわ。シロハ、晩飯何食べたいか考えといて」
「シロハちゃん、まったねー」
慌ただしく走り去っていく二人を、シロハは黙って見送った。言葉は出なかった。何でもないようにナツメが与えたものは、シロハにとって大きな意味を持つものだったのだ。
シロハはその場でしゃがみこんだ。今の顔を、誰かに見られたくはない。
『涙もろくなったね、ホワイト』
「……うるさいな」
こうして一人ぼっちの魔法少女は、自らの居場所を手に入れた。
彼女の胸に広がる灰色が、ゆるやかに溶けて消えていく。代わりに灯ったのは小さな火。希望を意味する、小さくとも力強い火だ。
胸の内できらめくそれをシロハは大切に抱きしめる。もう、二度と無くしてしまわないように。
「ねえ、スピ」
『うん』
「私さ。やりたいことがあるんだ」
『大変だよ。いいの?』
「大丈夫。私はもう、逃げたりしない」
『なら、僕も手伝うよ』
立ち上がり、シロハは振り返る。目元を拭って、一歩を強く踏み出した。
もう逃げない。現実から目をそらさない。眼前に広がる全てと向き合う勇気を胸に、彼女は強く歩きだす。
彼女の立ち向かうべき相手は、今もここにあるのだから。
「スピ。掃除しよう」
『賛成だ。ここは人の住む場所じゃない』
昨日は極力我慢していたが、ここに居ることになるならば話は変わる。
大学生の一人部屋。そこかしこに物が散乱し、部屋の隅にゴミ袋が積まれる空間は、年頃の少女にとって極めて劣悪な環境であった。