悪魔の囁き
「えっ、誰?」
ハッとして顔を上げ、腰まで伸びる三つ編みを揺らす。
辺りを見回したしぐれは、石塀の上から飛び降りてきた小さな影を捉えた。
白銀の体毛を持つ見たこともない小動物は、蒼い瞳の奥に知性を煌めかせ、しぐれを真っ直ぐに見上げてきた。
「わ、何これ。こんなの見たことない。猫? 狐? えっと、撫でてもいいですか?」
ややテンション上がり気味のしぐれに警戒する様子もなく、差し出した手に素直にすり寄ってくる。
見た目といい、普通の動物とは何か違う気がする。
「ふふ、くすぐったい。もしかしてさっきの声はあなた?」
「そうだよ」
「ふぇ……っ?」
しぐれは、目を丸くして手を引っ込めた。まさか返答が返ってくるだなんて、思いもしなかった。
凝然と固まるしぐれに構わず、小動物は六つに割れた尾を振って、マイペースな声で平然と自己紹介を始めた。
「やあ。僕はかがみん。この身に魔法を宿し存在さ」
「……え……?」
ぽかんと口を開けたしぐれは、ゆるゆると首を振って、目の前の現実を否定する。
「何これ、どういう……? ま、魔法って……。そんなまさか……」
「何をそんなに驚いているんだ? 現に君はこうして僕と言葉を交わしているじゃないか。これが魔法と言わずに何だと言うんだい?」
「……え、ええと。どうしたら……」
見たことのない生物が人語を解して勝手気ままにしゃべり出す。
事態は完全に、しぐれの処理範疇を飛び越えていた。
誰かいないかと助けを求めて視線をさ迷わせるが、あいにくと夕暮れの一本道に佇むのはしぐれただ一人きり。
「混乱しているようだね。僕が君を助けてあげよう」
「……えっと」
困惑の元凶が何食わぬ顔で勝手なことを言い始めた。
しぐれを置いてきぼりにしたまま、かがみんは本題を切り出す。
「まず君の名前を聞かせてもらえるかい?」
「雨宿しぐれ、ですけども……」
「そうか、しぐれ。君はかつての友人から手酷くいじめられているんだってね」
「ど、どうしてそれを……っ」
「なに、魔法で心の中を覗かせてもらっただけさ」
「は、はあ……。魔法で、わたしの心を?」
「そうだよ。君は今、その問題ばかりが頭にあるようだね、だいぶ思考を読み取りやすかった。だから、君が本当はどうしたいのかも僕には分かる。君の本当の望みが何なのかもね」
「わたしの、本当の望み……?」
「口ではどんな風に言おうと、君は親友を見捨てたくないんだ。彼女と仲直りできると信じている。強く願っている」
「……っ。それは、でも……」
「僕なら君の願いを叶えてあげられるよ。もちろん、魔法を使ってね」
「魔法……」
怪しく光る蒼い瞳に覗かれて、しぐれは内心ドキリとした。と同時に、一歩後ずさってかがみんから距離を取る。
見透かしたようなではなく、本当に見透かされている。心の内の迷いも葛藤も含めて、しぐれのすべてを。
「今さら仲直りできたって、どうせ……。それに、もうわたしの話なんて聞いてくれないだろうし……」
故にすべてを諦める決心をつけたはずなのに、こんなにもあっさりと揺り動かされてしまう。
どうして今になって出てきて、そんなことを言うのか。
しぐれは得体の知れない恐怖に囚われながらも、かがみんの大きな瞳から目を離すことができないでいた。
引き寄せられ、惹き付けられる。魔法という、常識の向こう側にある可能性に。
その力に頼れば、もしかしたらもう一度美羽と……。
「でも、そんなことあるはずが……」
「そんなことはない。願う心はいつだって奇跡を起こすものさ」
「……」
しぐれは、ごくりと唾を飲み込み、震える足を止め、その場に留まる選択をした。
幼気な少女の心を捕らえたかがみんは、純朴な少年の声で、救済の手を差し伸べる。
「僕が君に力を貸そう」
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