雨宿しぐれの事情
まりあはしぐれを自宅に招き、リビングでソファを勧め、冷たい麦茶でもてなした。
「おお、いい飲みっぷりだ」
子猫にはミルクだ。小皿に入れて差し出せば、とてとてと歩み寄り、そのうち飲み始める。
しきりに舌を出し入れする子猫の元気な様子に、まりあは嬉しそうはにかんで、優しく小さな頭を撫でてやった。
見たところ目立つ怪我はなく、どうやら単にお腹が空いていただけのようだ。獣医に診せる必要もないだろう。
真っ白に濡れた口元を舌舐めずりして、満足げに「にゃあ」と一声鳴く。
まりあは子猫を抱き上げ、緩んだ笑みをしぐれに向けた。
「この子、名前何にしようか、しぐれちゃん」
ソファの対面で沈黙していたしぐれは、一度まりあの顔を見て、気まずそうに視線を泳がせ、それからぽつりと。
「……名前」
「うん?」
「わたしの名前、知ってたの? だって、話したこともないのに……。どうして?」
「どうしてって。同じクラスじゃない、当然だよ?」
まりあが事もなげに答えると、しぐれは泣き出しそうに唇を引き絞って、「ごめんなさいっ」と勢いよく頭を下げた。
「最初、助けてもらった時、わたし、まりあちゃんの名前分からなくて……。わたし友達少ないし、まりあちゃんとお話ししたこともなかったから……。ごめん」
「ああ、いいよいいよ、気にしなくて。これからよろしくってことで」
「……っ」
向けられる屈託のない明るい笑み。
しぐれは、途端に顔を赤らめて何かを堪えるように唇を噛んだ。
胸の奥が変に熱くなる。正直に言えば、動揺していた。
しぐれもまりあと同じクラスだ。顔を見かけたことは何度もあった。
けれど、本当にそれだけの間柄だ。ついさっき、名前を聞いてようやく顔を思い出したような希薄な関係。
にもかかわらず、まりあはしぐれを「友達」と呼び、いじめられているところを助けてくれた。
しぐれの常識では考えられないくらい、頼もしくて優しい、ヒーローのような人。
「……まりあちゃんって、いい人だね」
胸を熱くする気持ちをうまく言葉にできなくて、しぐれはもじもじしながらそんな風に言った。
すると、まりあは小首を傾げて、
「そっかな。困っている人見かけたら、誰だって助けたくなるでしょう? だからしぐれちゃんも、子猫に餌をあげてたんじゃないの?」
「わたしは、別に……。助けようとかそんなんじゃなくて、ただ……。たまたまこの子を見つけて、放っておけなくなって……。それだけ」
「うん、だからそれでいいんじゃない?」
「……いい、のかな?」
「うん、良いことだと思うよ」
「……そっか」
まりあの笑顔に照らされて、いつの間にかしぐれも自然と微笑んでいた。
友達と一緒におしゃべりをして笑い合う。どこにでもありふれた幸せが、どこか懐かしく、とても嬉しかった。
自己紹介もそこそこに、まりあは先の公園での出来事について訊ねる。
「いじめ?」
「うん。五年生に進級してからずっと……」
「う~ん、まさかうちのクラスでそんなことが起きていたとはね……」
まったく知らなかった、と腕を組むまりあ。
しぐれは困り笑顔で、
「まりあちゃんは、あんまり女子の集まりには参加してないみたいだし」
「そんな集まりがあったことすら知らなかったよ」
どんなクラスにも仲の良い者同士が集まって作るグループがあるものだ。
まりあは、良くも悪くも唯我独尊を地で行くタイプ。自分のことしか頭にないせいで、最初から輪の中に属していなかった。
対して、しぐれはその輪の中から強制的に除外されてしまったらしい。
「でも、それだけでしょう? 仲良しグループから抜けたってだけで、どうしていじめになるの?」
「きっと、それがすべてだから……。みんなの輪の中でみんなと一緒に仲良くしていることが一番いいの。一人だけ輪から外れていると、目をつけられてしまうから」
「そんなことって」
「あるんだよ。……まりあちゃんは強いから分からない知れないけれど……」
しぐれは一度言葉を区切り、無理やり作ったような笑顔で、まりあのことを羨ましそうに見つめた。
「少なくとも、わたしにとってはそうだったみたい」
最初は靴だった。ジャージが破かれ、教科書が汚される。
いつの間にか持ち物が消えていて、そのうち友達もいなくなった。
昨日まで笑い合っていた子が、今日は別人のように無視を決め込む。
交換日記に書いた秘密の相談事は、何倍にも膨れ上がって陰湿な噂の元になる。
しぐれは、皆の嫌われ者になってしまった。




