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後編

 

 「……ん……」


 体を締め付ける重い何かに圧迫感を感じ、私はぼんやりと目を開けた。


 うっすらと広がった視界に映ったのは、見慣れないモダンな家具類と、どこにも修繕のあとなど見られない綺麗な壁紙やフローリングだった。


 少なくとも、ほとんど家具らしい家具を置いていない上に、あちこち痛んでいる私の古アパートの部屋ではない。


 (ここはどこ……?私は何故こんなところにいるの……そう言えば昨日、バルで飲んで……それよりも頭が……)


 頭が上手く回らず、状況が飲み込めない。


 「……っ痛……!」


 ガンガン響く頭に、思わず声が漏れた。


 吸血鬼になってからほとんど病気などしたことないのに、二日酔いにはなるのだから不思議だ。


 「……起きたのかい、ダーリン?」


 体の上に乗っかっていた重い何かがさらに私をゆるく締め付け、同時に耳元で甘く囁かれた声音に、私の思考は一瞬停止した。


 そして次の瞬間、全力で後ろを振り返った。


 「エドモンド・カーティス!?あなたが、なぜここにいるの!?」


 振り返った先、ほとんど息もかかるくらいの間近で微笑む男性を見て、私は素っ頓狂な声を上げた。頭痛も一瞬で吹き飛んでしまった。


 「ここは僕の部屋だよ。覚えてないのかい?」


 私の耳元の髪を優しく掻き上げながら、エドモンドは少し寂しそうにはにかんだ。


 「覚えて……るわ」


 思い出した。


 昨夜私達の間にあった出来事を。


 そして仮に覚えていなくても、この状況では否定しようもない。お互いに生まれたままの姿で、一つのシーツにくるまっているのだから。


 泥酔していたから、とは言い訳がつかない。確かにそれも理由の一つにあったけど、それ以上に生身の人肌の温かさに不覚にも絆されてしまったのも事実。


 意識がはっきりしてくると、どんな風に触れられ、どんな風に自分が反応を返してしまったかも生々しく思い出されてくる。


 (じゃあ、私はエドモンドに抱かれながら、他の男の夢を見ていたのか……)


 まるで寂しさを埋めるためのスケープゴートのように。


 自己嫌悪と、申し訳なさが胸に滲んだ。


 「……ごめんなさい、昨日のことは忘れて。こんなつもりじゃなかったの。一夜の過ちと割り切って、元の同僚の関係に戻りましょう」


 体を起こし服を拾うためにベッドから出ようとした。しかし―――、


 「嫌だ」


 唐突に腕を後ろから引っ張られ、叶わなかった。体勢を崩し背中から倒れ込んだ私を広い胸が受け止める。力強い両腕が私を拘束するように、胸の前でクロスする。


 「……それは昔の男に操を立てているから?でもその男は君を遺して、逝ってしまったんだろう?果てしなく続く孤独に放り込むと分かっていながら」


 かすかな怒りが、低い落ち着いた声音から感じられた。


 何かを知った風な彼の物言いに、私は愕然となる。


 「エドモンド……!?……あなた、何を……」


 エドモンドは私の顎を引き上げ、一度くちづけを落すと、苦しそうに表情を歪ませた。


 「君は何十年、何百年耐え続けているんだ?過去の恋人が去ってから、自分だけが時を止めたまま、誰にも頼ることも出来ず、一体何万回の夜を一人で迎えたんだ?」

 「………!!!」


 エドモンドの言葉に、頭が真っ白になった。


 ほとんど無意識に全力で彼を突き飛ばし、その腕から逃れる。


 とっさに近くにあったシャツで裸の体を隠し、彼に対峙する。私に突き飛ばされたエドモンドは、壁に背を預けながらも私の視線を真っ直ぐに受け止めた。


 「……あなたは何者……?どうして、私の正体を知っているの?まさか、はじめから、それを分かっていて私に近づいたの……!?」


 信じがたいことだった。


 私のような吸血鬼はこの地球上にごく少数ながら存在している。だが、そのほとんどが人間社会に溶け込んでひっそりと生きている。おおよその人間がその存在をフィクションの中にしかいない架空のものと信じているのに。


 ただのミステリーマニア?頭のおかしい、虚言癖のある妄想家?一体いつから、どんな風に知られてしまったの?


 ドクドクと早鐘を打つ心臓、うすら寒さを感じる背筋、震える指先。


 ピリピリと張りつめる空気の中、少し視線を落としたエドモンドが微かに微笑んだ。


 「ごめん、怖がらせるつもりはなかったんだ。……僕の家業のことは昨日少し話しただろう?僕の家は代々、バチカンに仕え、カトリック教会のある秘密部門に属しているんだ。……『聖なる刑の執行人』、俗にヴァンパイアハンターとも呼ばれる。教会の中でもトップシークレット中のトップシークレット。選ばれた家柄が、一家相伝でその役目と技術を伝えているんだ」

 「ヴァンパイアハンター!?」


 私は悲鳴を上げた。取り乱しても、仕方ないだろう。だって、彼は唯一不老不死の私を殺すことが出来る存在なのだ。そして、実際に私の恋人を殺したのも……。


 「怯えないでくれ、リーザ。君を傷つけるつもりはない。ただ、僕がどうして君のことを知っていたのか、気に掛けていたのかを……」

 「同僚のふりして、私を処刑するタイミングを狙っていたってわけ!しかも、気があるかのように見せかけて私が心を許したのを好機に、職務遂行しようなんて随分手が込んでいるのね!!」


 弾かれたように叫び、彼の言葉を遮った私に、エドモンドは驚いて駆け寄って来た。


 「違う、そんなつもりはない!リーザ、聞いてくれ、そんな俗称に惑わされないでくれ。僕の目的は君を始末することじゃない、むしろその逆の……!!」

 「放してっ、信じられると思うの、私の彼の……セシルの仇なのよ!私が生涯唯一愛した人は、120年前にヴァンパイアハンターに殺されたの!!何の罪も犯していない、ただひっそりと息を潜めて暮らしていただけの彼を私から永遠に奪って、絶望と孤独の海に私を突き落としたんだわ!!」

 「リーザ!!」


 混乱が極まり、伸ばされた腕を拒んで滅茶苦茶に暴れ泣き叫んだ私を、エドモンドは無理矢理に抱きすくめた。


 「僕を信じてくれ……!決して君を傷つけるつもりはない、昨日君に告げた愛の言葉も本当だ。僕は君をだまし討ちにするために抱いたんじゃない。君を傷つけたりしない……僕を、信じて……!」


 エドモンドは幼子をあやすように、大きく震えている私の背中を優しくさする。何度も何度も繰り返し、信じてくれ、と告げる彼に、私は次第に落ち着きを取り戻す。


 触れ合うお互いの肌越しに、心臓の脈打つ音が聞こえ、それが次第に同じリズムで刻まれて行くのが分かった。


 「……君たちにとって僕らがただの死神だったのは、前時代までのことだ。かつては、僕らが君達吸血鬼にとって、命を終わらせる最後にして唯一の手段だったことは確かだ。でも時代は変わって来た、人権を尊ぶ時代になった今、ただの処刑人ではいられない。公にされていない存在とは言え、君達も守られるべき、この世に生きとし生けるものに違いない。君達がこの世界で少しでも生きやすいようにサポートをする支援団体、それが現代の『聖なる刑の執行人』の存在意義なんだ」


 エドモンドの鼓動に耳を澄ませながら、私は彼の言葉を頭の中でかみ砕いていた。


 「……そう、ボランティア活動……それで、伴侶に先立たれ枯れ切った可哀そうな女を、ベッドで慰めてくれたってわけ」


 彼の言葉が沁み込んでいくと同時に、苦い感情が私を満たしていく。


 彼の説明は嘘ではないのだろう。嘘を吐く人間なら、もっと心音が乱れているはずだもの。


 でも、それは私が求めていたものじゃない。情けなんて、冗談じゃない。私はとっくに一人で生きる諦めも、孤独をやり過ごす鈍感さも身に着けていたのに、彼のしたことは私が長い時間かけて培ってきた処世術を、最後の心の砦を、打ち砕く残酷な仕打ちだ。


 「……リーザ、それは違う!……ああっ、くそっ!僕は本当に言葉選びが上手くない、どうしたら君に伝わる……愛していると、どう伝えたら僕の想いが真実だと信じてもらえるんだ……?」


 エドモンドは吐き出すように思いを告げると、弱々しく私の頬に右手の甲で触れた。じん、と伝わって来る温もりが再び私の胸をかき乱す。


 ああ―――いろんなことがいっぺんに重なって、頭を整理出来ない。


 全く理解出来ない。


 この滅茶苦茶な状況も、彼に正体を最初から知られていた事実も、彼の『本業』の変遷も。……そして何より、この期に及んで温もりに抗えない私自身を。


 「……リーザ……すぐに僕を信頼してくれ、なんて無茶なのは分かってる。最初は職務として、吸血鬼である君の生活をサポートしなければいけないとコンタクトをとろうとしていたのは事実だ。でも同時にただの同僚として君と接している内に、君がパートナーも持たず誰の助けも借りずに永遠の孤独に耐えていることに気付いた。職責を超えて、ただ一人の男として君を守りたいと思ったんだ」


 愛おしそうに私の頭を掻き抱く手のひら、優しく肩に、頬にキスを落とす唇。低く響く、耳朶を打つ真摯な言葉、熱い吐息。


 私の混乱はますます深まって行く。


 (……やめて、どうしてそんな言葉で、仕草で私を惑わすの?)


 逃れたいのに、逃れられない。全ての感覚が麻痺したみたいに、甘く痺れている。


 ふと瞬きをして視線を上に向けると、剥き出しの彼の逞しい首筋が見えた。それは、あまりに無防備で―――。


 ぞくり、と背筋が震えた。


 触れたい。吸い付いて、牙を立てたい。


 体中を貫くように湧き上がった衝動が、私を原始的な欲望に駆り立てる。それは、もう100年以上も感じたことのない野生動物にでもなったような感覚―――。


 (……いけない!!)


 「放して!!」


 私は今度こそ渾身の力でエドモンドを振り払った。


 私に突き飛ばされ、エドモンドは勢いよくベッドに尻もちを着く。拒絶され、彼の瞳が傷ついたように揺れた。


 「……あ……ごめ、んなさい。私、頭が混乱して……」

 

 全身が嫌な脂汗で、冷えて来ている。


 早く、服を着なくては。


 「ごめんなさい、私、帰るわ。今日はもう、何も考えられそうにないから、帰って寝るわ」


 手早く服を身につけながら、早く、早く、と心の中で繰り返す。


 彼の目の前から、早く去らなくては。衝動のままに、彼を手に掛ける前に。


 「―――……それじゃ、また週明けに会社で」


 身支度を整えた私は、黙ったままベッドで項垂れている彼に、もう一度声をかけた。


 「……エリザベス」

 

 彼の部屋を出ようとした瞬間、名を呼ばれびくりと反射的に立ち止まる。恐る恐る振り返る。


 「……いや、気を付けて。良い週末を」


 何かを言いかけたエドモンドは、少し躊躇った後、力なく微笑んだ。何だかその目が、泣きそうに見えて、また私の胸は締め付けられた。


 私は永遠に変わらない愛をセシルに捧げたはずなのに、どうして……?

 

 どうして、彼のこの表情に、心を揺さぶられてしまうの?


 痛みを振り切るように、今度こそ返事もせずに彼の部屋を後にした。


 



 

 ―――それは、何十年もきつく蓋を閉めていた、身の毛がよだつ記憶だった。


 いつもと変わらない朝だった。


 完全に日が昇ってしまうと、吸血鬼の身である私達に太陽光は強すぎてすぐに火傷のようになってしまう。何か買い物をするために出掛ける時は、決まって午前中か夕方だった。


 この日も、朝市に向かう途中の町はずれの小道を歩いていたのだった。


 突然、一人の人影が行く手を塞いだ。全身を黒いスーツに身を包んだ、ひと昔前の騎士を思わせるようないでたちをした男だった。深く被った帽子からのぞく髪は、癖のある明るい金色だ。


 『だっ、誰!?』


 物々しいその男の様相に私は思わず悲鳴を上げた。


 『セシル・ユーハイムか?』


 初対面にも関わらず、セシルのフルネームを呼んだ彼に、私は全身が粟立った。何か恐ろしいことが起こると、本能的な何かが大音量で警鐘を鳴らしている。


 『……来たか。思ったよりも早かったな』


 動揺する私に反して、セシルは冷静だった。


 『バチカンの命により、貴殿の命を頂きに参った。何か申し開きはあるか?』


 どこかイタリア訛りのある英語で、彼は身も凍るような冷酷な言葉を告げた。


 『な、何ですって!?何の権利があってそんな非道なことを言うの!?私達が、彼が何をしたって言うの!!』

 『エルザ、大丈夫だ、落ち着いて』

 

 全身の毛を逆立て、目の前に立ち塞がる正体不明の男に敵意をむき出しにする私を、何故かひどく落ち着き払った声でセシルは窘めた。


 『……出来れば君の見ていないところで、ひっそりと姿を消したかったが』


 私は彼のその言葉に驚愕し、振り返った。まるで、この不審な男が来ることを予見していたかのようではないか。


 『……エルザ、君には本当にひどいことをした。どんな言葉を尽くして謝っても、許されないのは分かってる。僕は卑怯者だ。だから、君には僕のことは忘れて、幸せになって欲しい。新しいパートナーを見つけて、僕と一緒じゃ歩めない残りの生を進んで欲しい。……僕はもう疲れた、もう、限界なんだ』

 『な、なにを……なにを言っているの?セシル?……あなたを忘れるなんて、出来る訳ないじゃない、疲れたってどういうこと?私に愛想を尽かしたの?』


 暗殺者が目の前にいると言うのに急に別れ話をし出した恋人の言葉に、私の頭はひどく混乱し、物事を理解する術を失う。

 

 縋りついた私に、セシルは力なく首を振った。


 『違う……君のせいじゃない……僕は、君と出逢う、ずっと前から……もう……』

 

 そう呟きながら、彼は私を抱き寄せた。その両腕は、驚くほど震えていた。声も悲しみに満ち、私の胸に透明な雫がぽたぽたっと落ちて来た。


 『……君は僕にとって、長い長い苦しみの果ての、最後の安らぎだった。君の無垢な愛情に、どれだけ僕が癒されていたか言葉では言い表すことが出来ない……。エルザ、愛してる……この気持ちは本当だ。……でも、満たされることのない喪失感は、何をもってしても埋められなかった。僕には死と言う救いが必要なんだ』

 『セシ……ル……?』


 彼が、何を言っているのか分からない。彼の言葉がなぜか遠くに聞こえ、私の耳にすんなりと入って来ない。ただただ、無力な涙だけがひとりでに溢れて来る。


 『……エルザ、愛してる。僕の最愛の天使、最後の恋人』


 そう言うと、彼は私の首筋に、鋭い牙を立てた。これまでにない強い力で私を羽交い絞め、まるで全身の血を吸い取るかのような勢いで貪りながら、滂沱の涙を流していた。


 抵抗も出来ず、されるがまま私は身を仰け反らせる。背中に回された腕にさらに力を込められ、苦しみに歪む唇は切れ切れに恋人の名を叫ぶ。やがて―――ぷつりと糸が切れたように拘束は解かれた。


 唐突手を離され、地面に倒れ込んだ私。急速に薄れゆく意識の中、涙が視界を歪ませるのを必死に堪え、彼の姿を見失うまいと気力を振り絞っていた。


 暗殺者に振り返ったセシルは、ひどく優雅な仕草で、男にお辞儀をした。


 男は一つ、小さく頷くと懐から銀色の鋭利な刃物を取り出した。それが、聖別された杭であることは、吸血鬼の本能で分かった。あれが、あれだけがこの世で私達を唯一絶命させることが出来る武器。


 そしてその先の光景はやけにスローモーションに見えた。


 暗殺者がセシルの胸にその杭を突き立てる、彼は避けるでも抵抗するでもなく、直立したままそれを受け入れる。


 ぐぐっと彼の胸を杭が貫いて飛び出した時、彼はもう一度私を振り返り、これ以上ないくらい美しい微笑みを浮かべたのだ。


 私は声を出すことさえ出来なかった。最愛の人の最期を目の前にしているのに、意識はもうろうとして、指一本動かせず、泣き叫ぶことも出来ない。ただ、穏やかな微笑みだけが目に焼き付いて―――。


 「さよなら……」


 もう、声にならない彼の唇が、そう動いたのが分かった。


 静かに灰になって、地面にはらはらと真っ白な雪のように落ちる彼の姿、それが最後の光景だった。






 ―――自宅アパートに戻り、シャワーを浴びて服を着替えた後、ようやく心が落ち着いて来た。


 鎮静作用のあるというカモミールティーを淹れ、厚くカーテンで日光を遮った室内で簡素なチェアに腰掛けながら、頭を整理してみる。


 いろんな情報が同時に錯綜して、その上あんな想定外の情事の後だったことも災いして、すっかり取り乱してしまっていた。


 起こった出来事の中で、私に一番衝撃を与えていたことは、吸血衝動に駆られてしまったことだった。


 一般的なフィクションの中では、吸血鬼にとっては吸血衝動というのは食欲に分類されているように思うが、実際はより動物的な性欲に近い。私達にとって食事なんて、とってもとらなくても変わらないし、血を飲んでも飲まなくても生命維持には何ら関わらない。だから通常の生活をしていて、吸血衝動に駆られることはほとんど全くと言っていいほどなかった。


 むしろセシル以外の相手に、セックスよりももっと原始的な求愛行動に直結するその行為をしたいと感じたことが、私にとってははるかに衝撃的だった。そしてそれは強い羞恥心を刺激した。


 血を吸うこと、吸われることは、強烈な麻薬のような快楽を引き起こす。


 いくら体を重ねた相手とはいえ、そんな淫らな欲望を抱いた自分を許せなかった。


 だから、決めた。全てをリセットすると。


 ―――そうだ、考えてみれば、シンプルなことだ。


 もう、あの職場にはいられないし、このロンドンにも住み続けられない。


 正体が知られてしまった。必要以上に他者と関わりを持ってしまった。理由はそれだけで十分だ。


 エドモンドと一線を越えてしまったことや、彼がヴァンパイアハンターであったこと、ましてや自分に愛を告げてくれたことなんて、考える必要すらもない。


 なぜなら、私が永遠に年も取らず、死ぬことも出来ない化け物であることに変わりはないからだ。


 化け物は人間とは相容れない。そのことは、長い年月をかけて理解していたはずだ。


 私が人と関わっても、果てしなく続く生のほんのひと時を掠めただけのこと。その一つ一つに思い入れていては心が壊れてしまう。


 この無限牢獄で生き続けるためには、何も感じず、何にも執着せず、全てをやり過ごして行くしかない。セシルを喪ってただ一人で生きて来た私にとって、それだけが唯一の真実であり、生きる術だった。

 

 誰に愛されても、愛しても無意味だ。よしんば、彼がヴァンパイアハンターとして本当は私の命を奪うつもりで近づいて来たのだとしても、それならそれで構わない。今の私は、ただ無気力に日々を過ごしているだけだ。生きているのか、死んでいるのか、そこにどれほどの違いがあるのか―――。


 私を救えるものなんて、何もない。でも、どうしてだろう。セシル……今、無性にあなたに会いたい……。




 

 ―――週明け、誰よりも早く出社した私は早くも自分の机を片付け始めていた。


 すでにアパートは引き払って、不要なものは処分した。荷物はスーツケース一つだけ、愛車にくくりつけている。


 そして、あらかたのものを整理したタイミングで出社したボスに、辞職の意志を告げた。故郷の親が事故に遭い、介護が必要になった。一刻も早く駆け付けなければならない、と噓を吐いた。


 可愛いアマンダには、手紙を残した。彼女にだけは、謝らなくてはならない。彼女の結婚式に参加すると約束していたのに。でも、直接言う勇気は持てなかった。面と向かって別れを告げたら―――泣いてしまいそうだったから。


 そして出社して来た何人かが、いやにすっきり片付いている私の机に首を傾げる。私はそれを横目に、ふ、と口の端を上げる。


 一つのショルダーバッグにまとめた荷物を抱えて、私は3年働いた事務所を出る。密かに気に入っていたクラシカルなタイルの廊下を進み、エントランスで樫の木の扉を開けようとして、入って来た人物とぶつかりそうになる。


 「……おっと!」

 「……きゃっ!」


 相手を見て、一瞬言葉を失った。


 (エドモンド……)


 2日前に触れ合った相手だ。ある程度心の整理はつけていたとしても、動揺は隠しきれない。それは彼自身も同様だったようで、言葉に詰まっているのは私だけではなかった。


 「おはよう、エドモンド」


 どうやら先に開き直ったのは、私の方だったらしい。年の功とでも言えばいいのだろうか。


 「おはよう、リーザ」


 私につられて、彼もようやく挨拶を返す。ぎこちないその声に、私は思わず、ふふ、と笑った。


 「そんな襟の開いたシャツを着ていると、吸血鬼に襲われるわよ、色男さん」


 いつもボタンを上から二つ開けている彼のワイシャツの襟を引っ張り、わざと首筋に軽くキスをする。えっ、と慌てたように顔を赤らめた彼に笑いを堪えながら、私は彼の横を通り過ぎた。


 上出来だわ。彼に気取られることなく、上手くやり過ごすことが出来た。伊達に年は重ねてないのよ。


 ―――さようなら、エドモンド。私が人ならざる者と知っていて、愛を告げてくれた人。そして凍てついた私の心を溶かした人。きっともう二度と会うことは無いけど、元気で。


 そして私はあっけに取られている彼を残し、その場を後にした。




 ―――数ヶ月後、私はもう何度目になるのか分からないが、慣れた手順で素性を変え、イライザ、と名乗って新しい環境に身を落ち着けていた。


 現在私が住んでいる街は、ロンドンより北東に行った地方都市だ。……実は元々の私の故郷があった場所であり、セシルと過ごした土地でもある。


 彼の残された遺灰を集めて密かに埋葬したのも、この街の外れだ。定期的に訪れてはいたけれど、しばらくまたここに住みたくなったのだ。


 この街の小さな設計事務所で事務員をしながら、私は相変わらずの細々とした生活を続けている。給料はロンドンの時よりずっと低いけれど、元々家賃と光熱費くらい稼げれば十分な私だ。


 相変わらずただ穏やかで、静かな時間だけが私の友達だった。


 ―――今日はセシルの命日だった。


 今の職場のボスに有給休暇の許可を取り、セシルの好きだった紫と白のライラックの花束を持って、彼の墓に向かっているところだ。


 修繕のされていない、少し朽ちかけの石畳の道を歩きながら、私はぼんやりと思いを巡らせていた。


 夕暮れの弱くなった日差しが、地面に木々の影を落としている。


 『―――……どれくらい君は一人なの?心を許せる相手はいないの?寂しいと思う時は無いのかい?』


 何故かふいに、エドモンドの声が脳裏に響いた。


 ―――本当は寂しい。もう何十年も、たった一人で気が狂いそうになる意味のない時間を過ごしているの。


 『全てを一人で耐えることは無いんだ、愛する人。僕にも、君の苦しみを分かち合わせて欲しい。君を孤独から救いたいんだ』


 記憶の中のエドモンドが再び私に話しかける。


 ―――本当に?あなたは私を一人、遺して逝ったりしない?私に苦しみだけを残して、孤独の海に放り出したりしない?


 なおも幻は私に言葉を続ける。


 『……ああっ、くそっ!僕は本当に言葉選びが上手くない、どうしたら君に伝わる……愛していると、どう伝えたら僕の想いが真実だと信じてもらえるんだ……?』


 ―――信じたい、あなたの言葉が心からの真実だと………だって、私も……


 「あなたを、愛しているから……?」


 無意識に口を突いて出た言葉に、私は愕然とする。


 今更、こんなタイミングで、自覚するなんて……。


 思わず、歩く足を止めてしまう。突然湧き上がった涙が、視界を歪ませた。


 愛している。

 

 自ら差し伸べられた手を振り払い、跳ねのけた相手を。もう、二度と会うことは無いと別れの言葉も告げず一方的にその前から姿を消した男性を。


 なんて愚かで、浅はかな女だろうか。一生気付く必要もない想いに、今さら胸を痛めるなんて。


 もうセシルの墓の目前に来ているのに、こんな気持ちで墓参りなんて、セシルにも失礼だ。申し訳が立たない。


 それでも花だけでも、と何とか気力を振り絞り墓地を進んでいくと、その端、そこに墓があることは誰も知らないはずなのに、一人の男性が祈りを捧げている姿が見えた。


 (だれ……?)


 妙なことだ、誰にも管理を頼んでいない、自分が勝手に墓地の隅にセシルの遺灰を埋めさせてもらい、それらしい石片を墓石代わりに置いただけの代物だ。自分以外に参る人なんているはずもないのに。


 なのに、どうして、『彼』が―――。


 数メートルほどの距離まで近づくと、嫌でもその人物が誰か分かってしまった。


 明るい金色の、少し長めの癖のある髪。優男然としているのに、その甘いマスクに意外なほどがっしりとした体格をしていること。後ろを向いていても、彼が澄んだアイスブルーの瞳を持っていることさえ想像がついた。


 もう、二度と会うことは無いと思っていた人。


 「……どうして……」


 私の震える声に、その男性は熱心に祈っていた姿勢をゆっくりと戻した。


 「……アマンダがずっとヘコんでいたよ。親友の君が結婚式に参列してくれないなんて、って。それに僕も、優秀なアシスタントに逃げられて、B・S社の所長の機嫌を宥めるのに手を焼く羽目になった」


 ああ、彼がどんな顔をしているのか見たい。でも、振り返ったその表情を見るのは、少し怖い……。


 男性がすっと立ち上がった。


 「……こう見えて、結構本業の方では、情報通で通っているんだ。英国中の君達の所在は、僕達のネットワークでおおよそ掴んでいる」

 

 振り返った、久しぶりに会う元同僚の顔は、心なしか精悍さが増した気がした。


 「それに、君の恋人を手に掛けたのは、教皇の命令で英国に赴任したばかりの曾祖父だったから」

 「……そう、だったの……」


 想像通りのアイスブルーの瞳に射抜かれて、私は身動きも取れない。


 「……君の言う通りだ、僕は君の恋人の仇の子孫だ。……僕のことが憎い?」


 エドモンドの言葉を反芻してみる。私は彼を憎んでいるの?


 「……いいえ」


 思ったより冷静に言葉を返せたと思った。そうだ、私はエドモンドを恨んでいる訳ではない。実際に手を下したと言う彼の曾祖父も。


 「セシルが君に、どれだけ吸血鬼と言う存在について教えていたか分からないけど、僕達が君らを一方的に殺戮することは滅多にない。そんなケースがあるとすれば無差別に人を襲い、暴力的に血を吸った場合だけど、そんなのはフィクションの中で勝手に作り上げられたイメージで、実在する吸血鬼のほとんどが人間社会に害をなすような攻撃的な人物じゃない」

 「……ええ、セシルは誰よりも控えめで、穏やかな人だったわ」


 私はゆっくり墓に歩み寄り、エドモンドの隣で膝を着いて花を墓石の上に手向けた。そして目を閉じ数秒手を合わせ、祈った。


 「ほとんどの吸血鬼はその生涯を自ら閉じる。僕らに『依頼』する形で」

 「―――!」


 その言葉に私は思わず目を瞠り、彼に振り向いた。


 「永遠に続く生は、いつしか呪いに変わる。いつまでも若いままの容姿は人間社会で生きる足かせになり、死なないことは死にゆく人間との断絶を生む。多くの吸血鬼が、不老不死性を疎み、終わりなき生に倦むんだ。孤独に耐え切れず、『死』という安息を望む。セシルもそんな吸血鬼の一人だったんだ……彼は自ら、ヴァンパイアハンターを派遣してくれとバチカンに手紙を書いた」

 「……」


 私はエドモンドから目を逸らし、セシルの眠る墓石に再び視線を移す。


 「きっと、彼にとってもどうしようもなかったんだ。君に出逢う前に、もう彼はその精神の病に罹っていた。君の存在は彼にひと時の安らぎを与えたに違いない、でもすでに彼は手遅れの状態だったんだろう」

 

 身動きもせず、ただじっと堪えてエドモンドの言葉を聞いていた。そんな私を心配したのか、エドモンドは言葉を一度区切り、私に視線を合わせるようにしゃがんで顔を覗き込んだ。


 「……リーザ。僕はまた君を傷つけてしまっている?」

 

 私は静かに首を振った。

 

 「……いいえ、平気よ。……セシルのことは、薄々そうではないかと気付いていたから……。私が彼の心を癒す拠り所になれなかったのは悲しいけれど、きっと私は彼の長い長い生の最後のほんの数年を共有出来ただけで、それまでに彼は想像も出来ないほどの苦しみを味わって来たのね。もう、『死』だけしか彼を救えない……それは吸血鬼として100年以上の時を生きて来た今の私なら理解出来るわ……」

 

 私の言葉に、エドモンドは息を鋭く呑み、顔を青ざめさせた。またも私は首を横に振る。

 

 「……安心して、私はまだ大丈夫よ。例え、神に忌み嫌われた化け物でも、まだ自ら命を絶つほど絶望はしていないわ」

 「それは違う、リーザ!君達ほど、神に愛された存在はいない!」


 自嘲気味に呟くと、エドモンドのはっきりとした声が、それを否定した。


 「……どういうこと?」


 訝しむ私に、エドモンドは神妙な顔で私の手を恭しい仕草で手に取った。


 「バチカンに残る歴史書には、我らが主、神の子はこの世の行く末を見守る役目を授かって降り立ち給うたと記されているんだ。彼は永遠の命を持っていた。だが、地上はあまりに欺瞞や穢れに満ちていて、その罪を贖う為に彼はその命を捧げなければいけなかった。だから彼はその使命を最も愛する者に託したんだ。血を取り交わすという儀式でもって。……その使命がどれだけの苦難に満ちた、茨の道であるかを分かっていながら。だから主は僕らのような存在を、彼らのために残した。彼らが永遠の生の苦しみに耐えられなくなった時に、神の楽園に迎え入れるために」

 「……そんな」


 絶句する私に、エドモンドは言葉を続けた。


 「本来、子孫という形で命を繋がない吸血鬼達が、新たな眷属を生む時に血の授受という儀式があることは実際にそれを経て吸血鬼になった君ならわかるはずだ。だがそれは、『互いの血を交わす』という行為だけでは条件を満たさないんだ。これが数千年経っても吸血鬼が人類の何万分の1しか存在しない理由だ……何のことか分かるかい?」

 「……いいえ。セシルは、吸血鬼がどんな者なのか、ほとんど私に語ることなく逝ってしまったわ。……その条件って、一体何?」


 エドモンドは、しばらく躊躇うように言葉を区切り、ため息とともに吐き出した。


 「……真実の愛だ」

 「真実の……愛?」


 私は一瞬、その言葉の意味が分からなかった。


 「一方的な暴力や搾取でも、女性が身籠ってしまう人間とは違う。主が最愛の者を後継者に選んだように、血の授受による命の伝達は真の愛情が存在しないと成しえない。吸血鬼は愛によって継承されて行く種族だ、それと同時に必ず伴侶を失う運命にある悲しい生き物だ。なぜなら親となる吸血鬼と子となる吸血鬼の生きて来た年数の長さが違う故に、親たる吸血鬼が必ず子よりも先に死を望むから。だから僕は、君と初めて出会った時、当然君には伴侶がいて共に生活してるものだと思った。ほとんどの吸血鬼が、伴侶と生活をしているからだ。……そうでないと永遠の生を生きるのはとても辛いからね、古い伴侶を喪えば新しい伴侶を求めるのも吸血鬼の自然な習性だ。なのに、君はどう見てもたった一人だけで長いこと生きているように見えた。だから僕には君が保護すべき対象だと思ったんだ。……それが、愛情に変わったことは僕としても予想外だったけど」


 エドモンドは、少し恥ずかしそうに言葉を切った。


 私は墓石に視線を落とし、自嘲気味に笑った。


 「……あなたの言葉が真実なら、吸血鬼とはこの上なくエゴに満ちた生き物だわ」


 私の独白に、エドモンドは戸惑い、私の表情を探るように瞬きを繰り返した。


 「……リーザ?」


 私は墓石をゆっくりと撫でた。かつて、その墓の持ち主にそうしていたように。


 「だって、先立つことを分かっていて、独りで遺して逝くことを分かっていて、それでも自らの孤独を埋めるためにまた新たな犠牲者を生むのでしょう?愛という一見美しい包み紙にくるんで、永遠に続く痛みをプレゼントするんだわ。あなたはまるで私達を神聖なもののように言ってくれるけど、やっぱり私達は浅ましい化け物だわ。この地上という牢獄に閉じ込められた、許されぬ生き物よ」

 「リーザ、そんな風に自分を責めるのはやめてくれ!」


 耐えきれず両肩を抱いた私を、それよりも大きな腕がすっぽりと包み込んだ。


 「……でも分かるわ。それでも誰かの温もりを求めずにはいられない……じゃないと生きていくことは、出来ないわ。誰かを愛し、愛されたい。それがこの世に生きとし生けるものが逃れられない性なんだもの!」


 ほとんど無意識に、私を抱きしめる腕にしがみついていた。それは応えるかのように、力が込められた。


 「……リーザ。僕なら、君の新しい伴侶になる覚悟がある。君をもう、一人で孤独と戦わせるなんてことはしない。君が生涯を終えたいと願う最期の日まで、僕が君を愛し続ける……!」


 力強く背に回された両腕、私をしっかりと受け止める広く厚い胸に、私は込み上げる涙を抑えることが出来ない。


 (エドモンド……!なんて、愛情に溢れた誠実な人。でも……!)


 次の答えを出すのに、多大な勇気と労力を要した。……本当なら、差し伸べられた彼の手をすぐさま取ってしまいたいくらい、100年という時が知らぬ間に私の心をすり減らしていたのだ。


 でも、私の信念が、これまで歩んで来た道のりがそれを許さなかった。


 「……ありがとう、エドモンド。でも、私はいつかあなたを置いて逝くと分かっていて、あなたの申し出を受けることなんて出来ないわ。……私ね、白状するけど、セシルを喪ってから何度も孤独に負けそうになって、若い時の私の選択を後悔したの。セシルを心から愛していたけれど、彼に置いて逝かれて、どうして自分だけが永遠に彷徨っているのか分からなくなったのよ。そして、あの愛を誓った日に戻って、もう一度やり直したい『やっぱり永遠の命なんて私には重すぎる、あなたが最期に過ごしたいあと数年だけ傍にいるわ』って。……ね?打算的で酷い女でしょ?こんな女だから、いつ気が変わって死にたくなるか分からないわ。それに、あなたも心変わりをするかも」


 私の言葉に、エドモンドがカッと肩を怒らせたのが分かった。


 「……リーザ!君が運命の選択をした時、君はまだうら若い娘で、吸血鬼が何たるかも知らなかった!故人を侮辱する気はないが、セシルは半ばだまし討ちのような形で君を伴侶に迎えたんだ。でも僕は違う、誰よりも吸血鬼がどんな存在かも分かってるし、もう十分に自分の選択の意味が分かる分別のある大人だ。自分で決めたことを、後悔するはずがない!」


 互いの息もかかるほどの距離で、真っ直ぐに迷いなく告げてくれる彼に、気持ちがひどく揺さぶられる。全てをこの力強い温もりに委ねてしまえ、彼を果てなき旅路に引き込んでしまえ、と悪魔が囁く。


 私は己の中の魔物に対峙するように、ぐっと腹に力を入れた。


 「……いいえ、それでも、それでも一時の感情で今答えを出すべきではないわ。例えば、あなたが人間として誰かと結婚して子供を授かって、それからでも考えるのは遅くないわ。あなたが私ではない誰かと結ばれても、あなたの子孫がいつか私をこの永遠の牢獄から出してくれるのだと思えば、それだけで私には希望になるもの」


 私の言葉に、エドモンドは信じられないものを見るように、アイスブルーの瞳を大きく見開いた。


 「リーザ……僕が、君というものがありながら、別の女に心を移すような、薄情な男に見えるのかい!?」


 耳心地の良い低音の声が、怒りで震えている。


 (ああ、違う、本当は言いたいことはそうじゃなくて……!)

 

 私は動揺して、思わず大きく首を左右に振った。もどかしくて、悔しくて、涙が溢れて来る。


 俯いて、唇を噛みしめる。胸の前で両手をギュッと握り込める。


 「いいえ、いいえ……!ごめんなさい、上手い言葉が見つからないの、どうしたらあなたに伝わるのかしら……愛しているのエドモンド。あなたのことを心から……!」

 「……っ!」


 エドモンドが鋭く息を呑み、瞳を大きく見開いた。


 握り込めた手の甲に、涙が落ちる。


 (ああ……いつの間に、私はこんなに弱くなってしまったの?)


 ふいに温かい指先が私の頬に触れ、涙を拭った。反射的に顔を上げると心底心配そうな表情をしたエドモンドが、優しい瞳で私を見つめていた。


 「リーザ……続けて。……聞くから」


 その温もりに、勇気が湧き上がって来る。私は何度か瞬きをして涙を払い、再び口を開いた。


 「……でも、選択肢はただ一つなんて思い込んでは駄目なのよ。私、あなたの子供を見てみたいと思ったの。私は子供を産むことが出来ないから……でも、そうね、あなたが他の女性を抱くのは、正直やっぱり嫌だわ。触れるのは私だけにして欲しいわ。でも、今よりも年齢を重ねたあなたを見てみたいわ。30代、40代になったあなたはどんなにか素敵かしら、ううん、きっと50代になっても私はあなたに恋すると思うわ。……ね?どれもが正解で、どれもが間違いになり得るわ。だから、まずは二人でゆっくり時間をかけて私達にとって何が一番いいか考えて行きましょう」

 

 いろんな可能性に頭を巡らせている内に、いつの間にか涙は引っ込んでしまっていた。ただ目の前に広がるいくつもの将来への希望にいつしか胸が高鳴って来ている。


 エドモンドが傍にいてくれると言ってくれた。これから―――それがたとえ一時のことになったとしても彼に傍にいることを許されるのだと、そのことだけでこんなにも満たされる自分がいることに驚いていた。


 エドモンド私はが挙げたアイディアを一つ一つ頭で整理するように、自分の顎に指をかけ思案していた。


 ほんの少しの間、夕暮れの墓地に沈黙が満ちた。


 もしかして、提案が却下されるのかと、私が不安になり始めた時。


 ぽつりと口を開いたのは、エドモンドだった。


 「リーザ……僕が50代になるまでとは、君は随分気が長いんだな」


 エドモンドが呆れた表情で、私を見つめる。そのアイスブルーの瞳はまるで私の全てをそのまま受け入れる、と言いたげな慈愛に満ちた色をしていた。


 その表情だけで、張り詰めていた緊張が解け、また涙が込み上げそうになった。だからそれを誤魔化すように、少し顔を横に逸らして、口を尖らせた。まるで、うら若い娘が恋人に拗ねるかのように。


 「エルザ、よ」

 「……え?」

 「エルザ・アーネット。私の本当の名前。両親から貰った人としての名前よ」


 エドモンドは一瞬鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたが、やがて噴き出したように笑った。羞恥で私の顔は耳まで赤くなってしまう。空が映す茜色がそれを誤魔化してくれているといいけど。


 ひとしきり笑った後、エドモンドは立ち上がり、晴れやかな笑顔を浮かべた。


 「了解、エルザ。じゃあこうしよう、まずは僕が人間式の愛し方で、僕がどれだけ君に本気かということを嫌というほど分からせてあげる。きっとそんなに長くはかからないはずだ、僕は言葉選びは不得手だけど、身体で示す愛情表現はとても得意だから。きっと君もすぐメロメロになって、僕を永遠の伴侶に選びたいと思うはずだよ」

 

 いたずらっ子のようにおどけて語る彼に、私もつられて笑ってしまう。エドモンドが私に手を差し伸べる。


 挑戦するように、彼を見つめ返しその手を取って私も立ち上がる。


 「まぁ、それはとても楽しみだわ。まずは何を教えてくれるのかしら」


 背の高い彼を見上げる私に一歩間合いを詰めたエドモンドは、実に自然な仕草で私の顎に指を添えた。


 「……そうだな、まずは君の心を芯から蕩かすキスからかな?」


 優しく近づいて来るアイスブルーの瞳に胸をときめかせながら、私は静かに瞳を閉じる。


 墓石の上で、ライラックの花がまるで笑ったかのように、風にそよいだ。


 (完)


個人的には分かりやすいハッピーエンドが好きなのですが、この作品においては落としどころに悩みました。彼らがどういう選択をこの後の生でしていくのか、読んで下さった方に想像して頂ければ幸いです。お読み頂きまして、誠に有難う御座いました。

※10/29一部加筆修正しました。

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