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前編

ハーレクイン風味を目指したところ、ちょっと展開がご都合主義な部分もありますが、少しでもお楽しみ頂ければ幸いです。


 主は告げた。


『私はすべての地上の罪を引き受けるでしょう。しかし、それと同時に一つの罪を犯すでしょう。私はあなたを愛します。しかし、私はあなたに苦しみを残します。あなたは永遠の命を得るでしょう。しかし、すべての生きとし生けるものがあなたを置き去りにするでしょう』


 さらに主は続けて言い給うた。


『私を赦さないで下さい。私はそれでもあなたを愛しているのです。しかし、ただ一つだけあなたに救いを残しましょう。それが私の愛の証です』


 




 「リーザ、聞いて、私ついに来年結婚するのよ」


 終業時間を少し過ぎた頃、私の隣の席のアマンダは周囲の目を気にしながらこそっと話しかけて来た。


 「……まぁ、本当!?アマンダ、それはなんて素敵なの!ようやくスティーブンがプロポーズしてくれたってわけね?」

 

 驚いた私がいつになく声を張り上げてリアクションすると、オフィス内の他の同僚達が反射的に私達に視線を向けた。


 「……しっ!ボスにも報告をしてないから、まだ皆には秘密にして!……そうなの、この前の休みに、ついにスティーブンが私の欲しい言葉をくれたのよ!ああ、10年も待った甲斐があったわ!」


 声のボリュームは気にしつつも、興奮を抑えられない様子のアマンダは、その薄くそばかすの浮いた頬をいつになく薔薇色に染めながら瞳を輝かせた。


 来年29歳になるアマンダはティーンエイジャーの時から付き合っている幼馴染の男性がいて、彼がなかなかプロポーズしてくれないという悩みを、私がこの会社に入社した3年前から度々私に話してくれていた。傍から見ている分には、二人がお互い以上の相手なんて考えられないほど深く愛し合っているのは明らかだったけれど、確かな言葉が欲しいというのが女心だろう。


 「それでリーザあなたに、結婚式のブライドメイドの一人になって欲しいのよ」

 「アマンダ……もちろん、光栄だわ。それで、式はいつにするの?」

 

 アマンダは少し恥ずかしそうに、くりくりの赤いカーリーヘアを撫でながら言った。


 「……6月。準備期間はあまりないけど、ジューンブライドが小さい頃からの夢だったのよ。子供っぽいって笑われるかもしれないけど……」

 「……そんなことないわ、素敵じゃない!」


 私は斜め下を見ながら何度も瞬きを繰り返す同僚に微笑んだ。アマンダはおっとりとして、どこか童話に出て来る妖精のような純粋さと可愛らしさを持っている女性だ。私とは真逆のそんな彼女の性質が好きだった。


 彼女の長年の夢が叶うことは、私にも喜ばしいことだ。


 「……幸せなのね、アマンダ」

 「心からね。彼と永遠の愛を誓うの。最愛の人と、生涯をずっと共に歩んで行くのよ。これ以上に幸せなことってあって?」


 はにかんで笑う彼女は、私には眩しすぎた。それと同時に、かすかな鋭い痛みが胸を刺す。


 「……そうね」


 ……私の声に、ほろ苦さが滲んでいたことは気付かれずに済んだだろうか。 


 「……ねぇ、だからリーザも私の結婚式にエスコートしてくれる、素敵な男性を見つけておいてね」

 

 にこにこと無邪気な笑顔を浮かべて、アマンダは私に耳打ちした。少しぼうっとしていた私は一瞬反応が遅れてしまう。


 「……え?」

 「……もう、リーザあなたって本当に自分のことには淡泊なんだから!私は恋愛には興味ない、って言いたいんでしょうけど勿体ないわ。あなたはこんなに若くて綺麗なんだから、もっと人生を楽しむべきよ。パートナーのいる生活ってね、ほんとに身も心も満たされるのよ。一度知ってしまったらそれなしでは生きていけない、ってくらい。どんなに仕事で疲れて帰っても、彼に抱きしめられるだけで全てが報われるの。あなたにもそんな幸せを実感して欲しいわ」


 私の反応にあからさまに呆れた様子の彼女は、恋愛の良さについて持論をまくしたてた。


 (……若い、ね……。ほんとはちっともそんなことないんだけど)


 思うところはあったが、幸せ絶頂の彼女に水を差すのも憚られるので、適当に相槌を打つ。

 

 「そうね……私のような不愛想女を気に入ってくれる人がいればね」

 「また、そんなこと言って……!あなたみたいに素敵な女性なら、どんな男性でも狙えるわ。例えば、エドモンドとか!」

 

 エドモンド・カーティス。アマンダが口にした名は、我が社のトップセールスマンのものだ。仕事が出来、長身でハンサムな上に現在特定の相手がいないらしい彼は、社内外を問わず女性達の憧れの的だった。


 「やめてちょうだい、変な噂が立ったら困るわ」


 あまりにもお気楽なアマンダの言葉に、私は思わず苦笑する。そして帰り支度を終えていた小ぶりのショルダーバッグを手に取った。


もうこれ以上は、長話で職場に留まる気はない。


 「またね、アマンダ」

 

 私は赤毛の同僚にウインクをすると、革の黒いジャケットを羽織った。


 「ええ、リーザ。良い夜を」


 アマンダは少しだけ残念そうな顔をした後、すぐに魅力的なえくぼを作って笑った。


 まだ数人事務作業を続けている室内から廊下に出ようと、私は木製の事務机の間を歩く。この21世紀においても古いタイル張りの床や煉瓦とモルタルに囲まれたこの建物内は、そこかしこに濃いクラシカルな雰囲気が漂っている。

 

 「……おっと!」

 「……きゃっ!?」


 部屋を出て少し肌寒い廊下へと入った時に何者かとぶつかりそうになり、私とその人物は同時に小さく声を上げた。


 「リーザ!」

 「エドモンド!……ごめんなさい、前をよく見ていなかったわ」


 私は一歩後ずさって、目の前の背の高い男性と距離を取った。さっきまで噂をしていた、エドモンドだ。イタリア系の移民を曾祖父に持つ彼は、癖のある長めの明るい金髪と端正な甘い顔立ちに、意外なほどがっしりとした均整のとれた体格をしている。27歳という年齢以上に落ち着いて大人びて見える彼は、外見上は私より随分年上に見える。


 「……リーザ、相変わらず君は仕事の手際が良いな。おかげで今日もディナーに誘うタイミングを逃してしまったようだ」

 「……まぁ、相変わらず女性の扱いがお上手ねエドモンド。私のような不愛想な女にまでわざわざ愛想を振りまかなくても、ディナーの相手には事欠かないでしょうに」


 いつもの軽いジョークと私が受け流すと、エドモンドは大げさに肩をすくめた。


 「とんでもない、リーザ、何か君は誤解しているようだ。僕は気になる女性にしか声をかけないよ」

 「そんないいかげんなことを言って、あなたのファンに睨まれるのは御免だわ。あなたとディナーだなんて私には荷が重いわよ」

 「ひどいな。僕は君が入社して来た当時から君が気になって仕方ないのに。君のことが知りたいんだよ」


 見た目は品行方正な紳士の彼も、やはり血はラテン系ということかしら。随分すらすらと歯の浮く台詞が出て来るものである。


 「残念ね。私はあまり誰かに私のことを知って欲しいとも思わないし、他人のことにも興味がないわ」

 

 そしてこれ以上廊下で立ち話をするつもりはないと、彼の反応も待たずに出口へと向かった。


 ……慣れ合うつもりはない。それが例え、気のいい小太りのボスであっても、えくぼが可愛い同性の同僚でも、ハンサムな職場のヒーローでも。


 どうせここもまた、あと数年で離れなければならない場所だから。


 ひんやりとした年季の入ったレンガに囲まれた廊下を歩いて、エントランスの閉ざされた樫のドアに嵌められたガラスが目に映った時、私はすっと目を細めた。


 ……いけない、さっきの思いがけない小さなハプニングで集中力が途切れていたみたいね。


 私が気を張ると同時に目の前のガラスにぼんやりと人影が写り始める。


 すっかり外が暗くなっているこの時間はガラスでさえ、鏡の性質から免れられない。


 しかし、あえて意識的に集中しないとそこに私の姿は映らない。


 ―――ある想像上の生物の特徴に、日光に弱く、流れる水を渡ることが出来ず、招かれないと家に入れない、といったものがある。……そうそう、他にもニンニク料理が食べられない、と言うのもあったかしら。


 あいにくと半分当たりで半分外れだ。


 確かに先に羅列した全てのものが、私にとって苦手、あるいはハンディキャップと呼んでもいいようなものだろう。だがそのどれも致命的と言えるほどではない。


 いや、逆に言い換えれば、そのどれを以てしても、あるいはそれ以外のありとあらゆる手段を講じても、私は死ぬことが出来ない。ただ唯一、ある特定の能力を持つ存在から銀製の杭で心臓を一突きにされる以外には。


 ―――もうお分かりだろう。私は俗に『吸血鬼』と呼ばれる、人ならざる者だ。……いや、正確には120年ほど前に人でなくなった、と言うのが正しいか。


 ヴィクトリア女王の治世の時代に、イギリスの片田舎の少し裕福な中流家庭の三女に生まれた私は、当時少しばかり夢見がちな考え方の娘だった。


 他の姉妹や周囲の妙齢の女性達と同じように家同士で決められた相手に嫁し、良き妻良き母になるという生き方にはちっとも賛同出来ず、小説のような恋愛に憧れていた。そして実際に流れ者の物書きの男に、頭のてっぺんからつま先まで麻痺するほど熱を上げてしまい、家族も故郷も捨て、衝動に任せた逃避行と言うやつを実行に移してしまったのだ。


 精神的に未熟だった私は、少し色気のある謎めいた大人の男性の魅力にすっかり夢中になってしまっていた。それは今冷静に思い返したら若気の至りの一言では済まない、まったく浅はかな判断だったと思う。


 おかげで、たった数年をその男と過ごした後、私は100年以上も無意味で混沌とした孤独を味わう羽目となった。そしてそれは控えめに見積もっても、この先も果てなく続いて行く予定である。


 21歳という約120年前当時としては嫁き遅れという不名誉な、しかし現代においてはまだまだ大人になり切れていない年齢で時を止められた私は、いつの時代も周囲から微妙な扱いを受けることから逃れられない。さらに不都合なことを挙げれば、年をとらないために周りに奇異に思われる前に数年おきに職場を変えなくてはならず、10年も経たない内に住む場所も移動しなければならない。時には姓名や、経歴も一新しないといけないこともある。


 テクノロジーが発展し、個人個人の詳細なデータまで管理される昨今、偽造IDを作ることがここ一番の面倒ごとと言ってもいい。おかげでIT企業に勤めたことは一回もないにも関わらず、私はそこらのハッカーよりもよほど優れてあらゆる機密情報にアクセスできる自信はある。……やる気もないけど。




 ―――中古で買ったトライアンフ製のオートバイで20分ほど走れば、ロンドンの外れにある私の住むアパートに着く。


 世界中の大都市がそうであるように、この霧の街ロンドンも交通渋滞に悩まされている。独り住まいで普段大荷物を持ち歩くわけでもない私には、車よりよほどこの少し錆付いたオートバイを使う方がよほど理にかなっている。

 

 オフィスの入る建物に文句を言えないくらい古めかしい、幽霊でも出そうな陰気なこのアパートは、今時エレベーターもなく明るさの不十分な電灯が各階段の踊り場に一つあるだけの随分しみったれたものだ。築年数だけを比べたら、もしかしたら私よりも年上かもしれない。


 あまりロンドン市民に人気の地区ではなく、またこのアパート自体いつもどこかに空きがあり入れ替わりも多いため、息を潜めるように生きている私にはむしろ住み心地が良いと言える。元々電気が庶民にはまだ普及していない時代に生まれた私にとっては、電気もガスも使えれば十分上等だ。


 「……ふぅ」


 部屋に入るなり、私は黒の革のジャケットを脱ぐ。襟足で短くカットしている亜麻色の髪を手櫛で整え、ついで着ていた薄手のニットも床に投げ出し、タンクトップ一枚になる。11月になろうとするこの時期、本来なら暖房もつけない室内ではとても薄物一枚じゃ過ごせない。しかし良くも悪くも五感が鈍くなっている私は、服でさえも世間に溶け込むために着ているにすぎず、それがセーターにダウンコートを着ているのでも、半袖のTシャツ一枚でもさして体感としては変わらないのである。


 ……とはいえ、人間だった時と大きく生活様式が変わる訳ではない。


 吸血鬼になった今も、必要かそうでないかに関わらず習慣的に食事はとるし、毎日シャワーを浴びて身は清める。ついでに言えば掃除も洗濯もするし、お金を稼がなければ日用品の買い物も出来ない。


 不老不死であること、一部の感覚が鋭く、逆に一部の感覚が鈍くなっていることを除けば、なんら人間と変わらないのである。まぁ、不老不死、ということだけで大きく違うという反論は受け付けるけれども。


 未だに一度ライターかマッチで火をつけてやる必要のあるキッチンのガスストーブに小さな鍋を置いて、カップ一杯分のミルクを沸かす。そしてマグにティースプーン2杯分のピュアココアを淹れて、帰宅後に楽しむのが、ここ数十年の密かな安らぎの時間だった。


 生活に必要なだけの仕事、必要最低限のコミュニケーションしかとらない私は、家に帰ればすべての通信電子機器をOFFにしている。固定電話も置いていない。なぜなら天涯孤独の私には、独身者によくありがちな数ヶ月に一度かかって来る肉親からの結婚をせかす電話すらありえないのだから。


 『……パートナーのいる生活ってね、ほんとに身も心も満たされるのよ。一度知ってしまったらそれなしでは生きていけない、ってくらい。どんなに仕事で疲れて帰っても、彼に抱きしめられるだけで全てが報われるの』


 ふと、先ほどのアマンダの声が脳裏をかすめた。


 (……私は人の温もりを知らない訳じゃない)


 麻薬のような恋の陶酔感も、それがもたらす幸福感も、もうずっと昔のことだけれどかすかに記憶している。そして、それを喪った後の激しい無力感や身を切るような痛みも。


 同時に私は知っている。愛する人がいるだけで、全てが肯定されるのではないことを。―――他人がどうやっても埋められない心の欠陥を、人はそれぞれ抱えているのだということを。 


 リビングの電気もつけないまま、タンクトップに薄手のガウンに細身のジーンズという格好の私は、ココアのマグを抱えて部屋の奥の出窓に腰掛けた。少し霧のましな今日は、月明かりがゆるゆると外を照らしている。


 中心地から離れたこの場所は、いくつかの民家やアパートの向こうに小さな墓地と田園風景が広がっている。その、少し近代化から置いてけぼりになったようなノスタルジックな景色だけが、わずかながら私の心を慰めてくれる。


 この暮らしは限りなくシンプルで波風もなく、ただひたすらの静寂と果てのない孤独に満ちている。そして私は、それらから永遠に逃れることは出来ないのだ。



 

 ―――同僚の、幸せな恋の話を聞いたばかりだからだろうか。随分懐かしい夢を見た。


 最愛の男性が、私の姿を認めるなり、淡く微笑んだ。


 『……エルザ、また屋敷を抜け出して来たのかい?そんなに頻繁に抜け出しては、君のご両親に叱られてしまうだろう?』


 優しい面差しの彼は、横に腰掛けた私に遠慮がちに尋ねる。早朝の、日差しがまだそんなに強くないこの時間帯が、いつも私達の逢引の時間だった。


 『いいのよ、セシル。私にはあなたといる時間がなにより大切なの。……ねぇ、それより、また詩を聞かせてちょうだい』


 木に寄りかかるように背を預けて座る彼に、私は身を乗り出す。私の人生初めての恋人は、ため息の出るような美しい男性だった。色素の薄い銀がかった灰色の瞳に、プラチナブロンドのさらさらの肩まである髪、透き通るような白い肌。当時18歳の私は、儚げで神秘的な彼の魅力に虜になり、盲目的に恋をしていた。


 しかし、あまりにも現実離れした幻想的な容姿はむしろ、人々に畏怖や近寄りがたさを感じさせてしまうらしい。オーストリアとハンガリー国境近くをルーツとする少数民族の出だという彼は、その容姿から度々迫害を受け、各地を転々としながら自作の曲や詩を売ることで細々と生活をしており、去年流浪の果てに英国に逃れて来た。しかし、残念ながら私の故郷である英国の地方都市に来ても、彼は安息を得られなかったようだ。


 彼を匿っていたのは、この国では珍しいカトリック教会の牧師夫婦だった。彼らに古い別邸を借りミサの時にオルガンを弾いたり、畑を手伝ったりしているセシルに牧師夫婦以外の人々は冷たかった。


 牧師夫婦と昔馴染みだった私は、夫婦に頼まれてセシルの生活の手伝いをしている内に彼に惹かれ、いつしか恋仲になっていた。


 当時は今よりももっと保守的で女性には抑圧的な時代だったから、自由恋愛なんてとんでもなかった。私は家族や親戚の目を盗み、いつもこうやって町はずれの川辺で隠れるように彼と逢瀬を重ねていたのだ。


 『可愛いエルザ。君を心から愛しているよ。でも僕は君には相応しくない。僕は君を幸せに出来る男じゃない。もう薄々君も分かっているんだろう、僕が普通じゃないってこと……』

 『やめてちょうだい、セシル。私にとってあなたは特別な男性よ、それは認めるわ。でも自分のことをそんな風に貶めないで。あなたと一緒にこうやって時間を過ごすだけで、私は十分幸せよ』

 

 力強く私がそう言うと、セシルは眩しそうに目を細めた。そして、どこか泣きそうな顔で視線を斜め下に降ろした。


 『……エルザ……その言葉に、どれほど僕が救われているか。……もし、君の気持ちが何年か経っても変わらないのなら、僕は……』

 『変わらないわ。10年でも、20年でも。私がずっとあなたの傍にいるわ』


 彼の華奢な両手を取って、間髪入れず私は誓った。彼の言葉に、膨らんでいく期待と興奮が抑えられなかった。


 この時まだ私は、無垢な乙女のままだった。女性は貞淑であるべき、という時代だ。結婚するまでは穢れ無き操を守るもの、という考えが根強く浸透していた。


 彼の言葉に続くのはきっと、私を生涯の伴侶にする、という意思表示に違いないと思っていた。


 彼以外の男性なんて、考えられない。彼に純潔を捧げ、私の人生全てを賭けて、一生彼を愛して行く。その気持ちに、一点の迷いもなかった。


 それなりの資産のある中流家庭に生まれている私には少なからず求婚者はいたが、ずっと頑なに断り続けていた。家のための結婚なんて、真っ平御免だ。


 愛する人のためなら、何を犠牲にしても構わない。家族に疎まれても、安定した生活を失うことになっても。


 (だって、二人なら、どんな困難にも耐えて行けるじゃない)


 ―――世間知らずの幼い娘だった私は、輝かしい未来を信じて疑わなかった。運命と言うものがいかに無情で残酷であるかの、想像すらも。 







 ―――翌朝、私は分厚い遮光カーテンに遮られ真っ暗なままの部屋で、私と違って永遠には持続してくれない電池の切れたデジタル時計のアラームが時間通りに鳴らなかったことに、十数年ぶりにしまった、と思った。


 

 「おや、ミス・パンクチュアルが珍しいね、寝坊なんて」

 

 昨日私が素っ気ない態度を取ったからか、普段は紳士の模範のように親切でスマートなエドモンドが、いつもは言わない嫌味を言って来た。


 私はそれを黙殺し、返事をしないままその奥のボスの席に急ぐ。目の端に無視されて苦笑する彼が映っても構わずに横を通り過ぎた。


 「グレイトンさん、申し訳ありません。まったくの不注意で、遅刻してしまいました」

 「いやいや、別に謝る必要は無いよ。エリザベス君。いつも仕事にきっちりした君が遅刻なんて、疲れが溜まっているか、体調が悪いに違いない。それに業務の進行に支障があるほどの遅れでもない、気にしないでくれたまえ」

 「……本当に申し訳ありません」


 最低限度とはいえ、こんな時、信頼を失わない程度には人付き合いをして来て良かったと思った。快適な職場環境を作るのは人であれ吸血鬼であれ、やはり人間関係なのだ。


 「……リーザ、本当にあなたが遅刻なんて珍しいわね。大丈夫?いつも私の仕事も手伝ってくれているから、疲れているのね、今日は定時で帰って頂戴ね」

 「アマンダ……本当に疲れとかじゃないのよ、気を遣わないで」


 心配そうに隣の席から顔を傾けて来た同僚に、私は苦笑交じりに手をひらひらと振った。今時スマートフォンのアラームも使わず、20年来使い続けている電池式のデジタル時計の電池切れで起きれなかったなんて、口が裂けても言えない。


 「体調不良とかでないのなら、ぜひ君に手伝って欲しい案件があるんだけど」


 ふいに良く通る低い声が、私とアマンダの間に割り込んだ。


 「……やっぱり頭が痛い気がするわ」

 「……リーザ!僕にだけなんでいつもそんな素っ気ないんだい?」


 私とアマンダとの会話を遮るように口を挟んで来た男に、私はちらと一度だけ視線を投げかけた。エドモンドは芝居がかった仕草で、さも傷ついた、と言わんばかりに胸を押さえた。


 いつもながらの私の淡泊な応対に、アマンダは苦笑いを隠そうともしない。


 「……リーザ、君の生真面目な性格を見込んで、どうしても力を貸して欲しいんだ」

 「……話だけは聞くわ」


 いつになく熱心に口説いて来るエドモンドに、いつまでも席の横で話しかけられても堪らないので、私はキーボードからいったん手を離し視線を向けた。


 「先月から新規取引先になった、B・S社があるだろう?そこの所長がやたらお堅いやつでさ、何故か僕のことを軽薄扱いしてなかなか信用してくれないんだ。そこで上手く橋渡し役をやれる人物をアシスタントに加えたい。君は仕事も正確だし、礼儀も弁えた人間だ。君のことはあのくそ真面目所長も気に入って、もっと積極的に参加してくれると思うんだ」

 「……私みたいな不愛想な人間じゃ逆効果では?」


 エドモンドは、私の席の正面に回って大きく首を振った。


 「そんなことないよ。君は裏表がない性格だし、いい加減なことは言わない。変に媚を売らない方が、あの手のタイプには却っていいんだ。君が間に入ってくれることで仮に先方から無茶を言われた時にもそのあとの対策を考えるインターバルが出来るだろうし。もちろん、嫌な役回りだけ押し付ける気はない、何かあった時には僕がちゃんと引き受ける」


 そして私の両手を取り、身を乗り出して熱っぽい視線を向けて来た。


 「新しいプロジェクトを進めるためにも、信頼できるパートナーがいると心強い。何より、僕が君と手を組んでこの仕事をしたいんだ。リーザ、僕には君が必要なんだ」

 「……」


 どこの安っぽいロマンス小説の台詞なんだろうか。


 しっかりと掴まれている手を、私はさりげなく外そうと試みたが、残念なことに一ミリの隙間すら作れなかった。ちら、と奥の席のボスに視線をやると、彼は頭の上で右手の親指と人差し指で丸を作り、OKとジェスチャーしている。


 ……すでに根回しも済んでいるってことね。


 私は小さくため息を吐いた。


 「……分かったわ、エドモンド。あなたのためでなく、会社のために協力するわ」

 「……僕はこのプロジェクトを通じてもう少し君から興味を持ってもらうように努力するよ」


 そう言いながらエドモンドは改めて私の左手をとり、中世の騎士宜しく甲にキスを落した。気障ったらしい仕草だが、この男がやると様になってしまうのがまたいっそう癪に障る。


 ……別に取り立てて過去に不快なことをされた訳でも、個人的な恨みがある訳でも決してない。生理的に嫌い、とも違う。だが何故か私は、出逢った時からこの男が苦手だった。


 大抵の人間は私の愛想のない態度に、時間と共によそよそしくなるか、ある程度の距離を保った上で表面的に接して来るようになる。もちろんアマンダや、ここのボスのように例外的に好意的に付き合ってくれる人間も少なからずいるが、異性的な意味で長期間私にアプローチを続けて来るような人間は、少なくとも私が伴侶を喪ってからは彼が初めてだ。


 大昔にただ一人の人と決めた相手と別たれて以来、もう二度と誰かを愛し、愛されるつもりはない。そういう意味でエドモンドは、私が出逢って来た人間の中で一番厄介で、面倒な相手だった。


 もう色恋に気持ちをかき乱されるのも、この逃れられない果てなく続く人生を諦めている心持ちをさらに虚しくさせられるのも御免だ。


 これ以上、何も求めないし、何にも奪われたくない。


 私は無価値で無意味、そんなことは120年の間にとっくに受け入れている。


 


 



 ―――普段は、しても1時間ほどしか時間外労働なんてしない私だが、今日だけは別だった。別に寝坊による遅刻が後を引いていた訳ではない。今日頼まれたばかりのプロジェクト参画の件で、夕方にアポイントをとっていたエドモンドに依頼され、挨拶がてら彼のB・S社訪問に同行したのだ。


 彼の思惑通り、何故か第一印象から例の堅物の所長に気に入られたらしい私は、早速スケジュール進行役と両社の仲介役を頼まれてしまった。


 プロジェクトの概要を両サイドのリーダーから説明を受け、持参したノートパソコンを使って現実的なペースでスケジューリングをして行く。……まるでこれでは、エドモンドの秘書役じゃないの。


 私が潤滑油として間に入ったのが功を奏したのか、話はエドモンドの予想以上に早くまとまったらしい。打ち合わせが終わりB・S社を後にするなり、彼は手放しで私を褒め称えてくれた。


 「リーザ、僕が思った以上に君は良くやってくれた。やはり君以上の適役は考えられなかったよ」


 いつもの少しオーバー過ぎるリップサービスではなく、本心から彼が喜んでいることだけは私でも理解出来た。


 「大げさだわ、まだ一日目よ。そんな台詞は、せめてプロジェクトが終わってから言って頂戴」


  照れ隠しについ、いつもの憎まれ口を叩きつつも私も少し胸が躍るのを誤魔化せない。会社にも貢献できるし、私だって誰かの役に立つことは純粋に嬉しいのだ。


 「……君に残業させてしまったな。……お詫びに、良いバルを知っているんだけど、ご馳走させてもらえないかい?」

 「……お詫びにと言いつつ、結局いつもの誘いじゃない」


 反射的に私がいつも通りのつれない返事をすると、いつも以上にエドモンドはがっくりと肩を落とし、大きなため息をついた。その様子に思わず私は吹き出してしまった。


 「……っははっ……!そこまで気を落さなくてもいいでしょ、大げさね。……いいわ、一回くらいは付き合ってあげる。たまには私もアルコールの気分だし」

 「リーザ!?ほんとかい?」


 思いの外上手く行き過ぎた商談に、私も少しハイになっていたのだろうか。思いがけない私の承諾に、エドモンドは信じられないものを聞いたような表情をするが、実は私自身、自分の発言にびっくりしていた。


 「……やっぱりいつも通り、真っ直ぐ家に帰ろうかしら」

 「いや、待ってくれ、僕がただのナンパ男じゃないと汚名返上の機会をぜひ与えて欲しい」


 何の汚名なのやら、普段私が一方的に邪険にしているだけなのに、私への言われなき罪の弁明をする彼がおかしくて、私はまたも声に出して笑ってしまった。


 ……うん、数十年に一回くらい、いつものパターンと違う行動をしてみるのも、悪くないかもしれない。


 私の気持ちが変わらない内に、とでも言わんばかりにエドモンドは張り切って私をエスコートして歩き出した。何故か今日の私は、警戒心も緩みっぱなしだった。





 「―――リーザ、君はどこ出身だったっけ?」

 「ケンブリッジのもっと北に行った田舎よ」

 「セットフォートあたり?」

 「まぁ、そんなところね」


 ボトルワインと数皿のタパスをオーダーした私達は、やや照明の抑えられた店内の端の小さなテーブルを囲んでいた。


 大柄な体格に見合わず意外に小食なエドモンドは、さっきから食事よりもワイングラスを傾けることに終始している。


 ボリュームをよく調節されたメロウなピアノが流れるこの店はインテリアもセンスが良く、異性を口説くにはもってこいのロケーションだと思った。やっぱりエドモンドは女性の扱いを心得ているのね、と感心する。


 「両親には時々は連絡はとっているのかい?」

 「実はもう長いこと疎遠にしているわ。あなたはどう?」


 さりげなく探りを入れられる身の上を、適当にかわしながら私はピンチョスをつまむ。


 「僕は今でも週に何回かは両親や祖父母と電話で話すよ」

 「仲が良いのね」

 「そうだね。でもそれだけじゃないんだ、本業のこととかね」


 適度に聞き流しながら相槌を打っていた私は、彼の本業、と言う言葉に思いがけなくワインを勢いよくごくりと飲み込んでしまった。


 「……けほっ……本業?どういうこと?たしかあなたは私と同じ老舗の精密機械と服飾時計のデザイン事務所に、フルタイムで働いてたと思うけど?」

 「もちろんそうだとも。生活の基盤という意味じゃまるっきり副業の方がウェイトを占めているさ」

 「それでもこの会社の仕事の方がサブなの?」

 「我が家に代々続く家業でね。ほとんど金にもならないし、ボランティア活動のようなものだが、廃業するわけにもいかなくてね。……どんな仕事か気になるかい?」


 何故か含みのある笑みを浮かべた濃いアイスブルーの瞳に、私は少し苛立ちを覚えた。


 「いいえ、特に。副業をする人なんて珍しくないわ。ただ、あれだけあの事務所で働いて、そのあとはデートやお付き合いに忙しそうなあなたが別の仕事にもスケジュールを割いていたなんて、ちょっとびっくりしただけよ」

 「ここ数年は僕はずっとフリーだし、そんなに気軽に異性を誘ったりはしない」

 「そうね、あなたならお誘いを受ける側でしょうね。仕事の打ち合わせ、という名目であれば、女性達も誘いやすいわね」

 

 私のけんもほろろな態度に、彼は苦笑いを漏らした。


 「君は僕を誤解しているみたいだ。僕の異性関係は君が思うよりもずっと真面目だよ。……そういう君はどうなんだい?休日は誰かと過ごしているの?」

 「プライベートについて答える気はないわ、だいたいあなたに関係な……」


 い、と言いかけて彼が真っ直ぐな瞳で私を見つめていることに気付いた。その思いがけない真剣な様子に、一瞬言葉を失う。


 「……どれくらい君は一人なの?心を許せる相手はいないの?寂しいと思う時は無いのかい?」


 随分ストレートな質問を投げかけられている。エドモンドはこれほど、遠慮のない人間だっただろうか。


 不快になるよりも先に、その勢いに飲まれそうになる。


 「……寂しいのなんて、慣れっこよ。それより、一人が気楽なの」

 「慣れるのと、平気なこととはイコールじゃないだろう。……僕じゃ君の力になれない?」

 

 いつにないエドモンドの熱っぽい物言いに、紛らわすようにワインを一口飲んで、私はふっと視線を逸らした。するとまるで追い打ちをかけるかのように、エドモンドはテーブル側に体を傾け私の顔を覗き込んで来る。


 「……リーザ、君はクールぶっているけど純粋で可愛らしい女性だ。出逢った時から少しも変わらない」

 「まぁ、随分すらすらと甘い台詞が出て来るのね。それで何人のお嬢さんがあなたに絆されたのかしら?」

 

 私ははん、と鼻で一つ笑って奥のナプキンをとろうと手を伸ばした。しかし、その手は目的物に辿り着く前に力強い別の手に捉えられる。


 「……本当に、君は少しも変わっていないように見える。君がこの会社に入って来た時、たしか23歳だと聞いた。あれから3年経ったのに、未だに君は23歳どころか、20代になりたての少女にさえ見える。とても僕の1つ下には思えない」


 締め付けるように私の右手首を大きな手のひらで包み込んだエドモンドは、さっきよりもより近い距離で私の顔を見つめた。アイスブルーの瞳からやけに熱の籠った鋭い視線が私を突き刺すように向けられる。その瞳が何を言わんとしているかは私には分からなかったが、彼がただのいたずらや、アバンチュール目的に口説いて来ているのではないことだけは分かった。


 年齢のことに触れられ、私の心臓は早鐘を打つ。


 思った以上にエドモンドは鋭い。もうあと2、3年はあの事務所で誤魔化し続けられると思っていたのに。


 「……冗談はよして。女性に年齢のことを話題にするなんてマナー違反だわ、例えそれが年齢より若く見えると誉めていてもね」


 私はエドモンドを一睨みして、掴まれている手を引き上げた。それは、動揺を見せないための私なりの強がりだった。


 「……気を悪くさせたなら謝るよ。君が思うほど僕は女性を口説き慣れてないんだ。言葉選びも決して上手くない」

 「あら、うちのトップセールスマンの言葉とは思えない謙虚さね。それも女性の心ををくすぐる手なのかしら?」


 皮肉たっぷりの台詞は、いつもの軽口の応酬に戻すため、だったのだけど。 


 「リーザ。……いや、エリザベス。僕は本当の君を知らないけど、知りたいと思っている。君がどんな名前でも、どんな過去を持ち、どんな傷を抱えていようと、受け止めたい。……最初は職業柄、君を気になっているだけだと思っていた。でも、違うみたいだ。僕は真剣に君に惹かれてる。君を守りたい……こんな気持ちは初めてなんだ」

 「酔ってるのね、エドモンド。すこし、水を飲んだ方がいいわ」


 私が雲行きの怪しくなった話題を切ろうと、ウェイターを探そうと周囲を見回す。


 しかし、再び掴まれた手に、意識がまたエドモンドへと引き戻される。エドモンドは両手で私の右手を恭しく掲げ、まずは手首にキスを落すと、今度は両手のひらで包み込んだ。じわりと広がる温かさに、ふいをつかれた私は息を呑み、動きを止めた。


 私を見つめる澄んだアイスブルーの瞳から、目を逸らすことが出来ない。


 「全てを一人で耐えることは無いんだ、愛する人。僕にも君の苦しみを分かち合わせて欲しい。君を孤独から救いたいんだ」


 その言葉は、あまりにも私を無防備にさせた。


 剥き出しの心の奥底に、やすやすと触れた。


 (もう誰にも心を開くことは無いと思っていたのに……)


 きっと、これは一時の気の迷いだ。アルコールが惑わしているからだ。


 いっときの夢なら、許されるだろうか。一瞬だけ、この常に纏わりつく痛みを忘れることが出来るのだろうか。


 それを検証出来るような冷静な判断能力は、ひとかけらほども残っていなかった。







 ―――まるで無重力の中を浮いたり、沈んだりしているようなぼんやりとした意識の中、私の魂は再び過去に戻っていた。


 『……セシル、何を書いているの?』


 私はいつもの通り木に背を預けながら、難しい表情でペンを走らせている恋人に尋ねた。ホウ、ホウと遠くで梟が鳴いている。私が正式に彼のパートナーになって以来、私達の生活はすっかり昼夜逆転してしまった。


 彼は私の登場に少し肩を跳ねさせ、ぎこちない仕草で下敷きの板ごと紙を自分の体の後ろにやった。しかし、目ざとい私は彼が隠したそれが、便せんであったことに気付いた。


 『……お手紙?』

 『……や、やぁ、エルザ。これは、これからお世話になる人への挨拶状なんだよ』

 

 どこか目の泳いでいる彼に、私はモヤモヤとした気持ちが掠める。だが元々繊細で秘密主義の彼がこういった言動をすることは珍しくないので、いちいち波風を立てない接し方も心得ていた。


 『挨拶状?仕事探しでもするのかしら?』

 『そうだね、いつまでも牧師夫妻に頼っていても悪いから……』


 何となく歯切れの悪い彼の言葉が気になりつつも、私は無理やり自分を納得させた。


 『そうね、私が縁談を全て断ってあなたと正式に恋人になってしまって以来、教会の後援者だった私の父を怒らせてしまったものね。牧師様達には本当に申し訳が立たないわ』


 プロテスタントがほとんどのこの英国において、カトリックの教会は肩身が狭い。地元の有力者であった父が彼らの後ろ盾になっていたおかげで体裁を保たれていた教会だ。そこに匿った流れ者に可愛い娘の一人がかどわかされたような形になり、名誉を傷つけられた父は娘との縁を切った上に、教会への援助も一切打ち切った。


 『……僕は、君の人生を狂わせてしまった罪人だ』


 セシルがぽつりと呟いた。


 『……そんなこと言わないで、セシル。私は幸せなのよ』


 私はセシルの両手をとり、灰色の瞳を見つめて微笑んだ。


 その気持ちに嘘偽りはなかった。


 ずっと相思相愛だったにも関わらず、私達が結ばれるまで3年も要してしまった。それはあまりにも控えめすぎるセシルが、私に何度も僕は君に相応しくない、と繰り返しているのを私が根気よく説得し続けた結果だった。


 初めて彼に純潔を捧げた時、それまで薄々気づいていた彼の正体をはっきりと知ることとなった。そして彼への愛を誓うことが、それまで私を取り巻いていたすべてに決別をすることだと分かっていても、私は彼との人生を選んだ。それが恋する乙女というものだ。分別や思慮なんてものは、恋慕の気持ちの前には無力だ。


 だから私が乙女でなくなった夜、迷わず彼の花嫁になるために互いの血を取り交わす、血の儀式を受けた。


 その時の私の世界には、彼と自分の二人だけが存在していた。その世界で永遠に愛する人と生きていける。それはおとぎ話の幸せな結末のように甘美で、夢のような時間に思えた。


 『エルザ』


 ふいに、セシルが私を背後から抱きしめた。


 『きゃっ!?』


 少し過去を振り返って考えに耽っていた私は驚いて、目をぱちぱちと瞬いた。


 いつになく強く私を抱きしめる彼に、嬉しさと愛しさが広がる。


 愛情表現の不器用な彼がたまに見せる情熱的な仕草が、なおもいっそう私を惹きつけていた。


 『……セシル?』


 甘えるように私の肩に顔を埋める彼に、私ははにかんで声をかける。


 『……僕の傍にいてくれてありがとう。君に僕はとても救われてる……それなのに……』

 『………セシル?』


 彼の声が、いつになく震えている。


 表情を確かめたくて、私は体を傾けようと試みるが、彼の腕がそれを許さなかった。


 『……ごめん、僕は卑怯者だ……でも、どうしようもないんだ……この、気持ちは。僕はもう、耐えることが出来ないんだ』

 

 ―――何に謝っているの?―――何に耐えられないの?―――卑怯者って、どういう意味……?


 それらの問いかけを、あまりにも悲痛な彼の声に圧倒されて、とうとう最期まで聞けなかった―――。



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