ステージ1 ヒーローデビュー③
* * *
目を開けると、僕はアニメのボクシングリングの上に立っていた。ライトが眩しい。どうやら裸ではないようだ。自分のではないが普通の服を着ている。
試合が始まっていないのに、五万人(勝手な印象)の大観衆は盛り上がっていた。
敵はまだいない。
(ボクシングアニメだろうか?)
ふいに会場アナウンスのように相川さんの声が流れてきた。
――気分はどう?
「いや、変わらないよ。にしても、すごいね、本当にアニメの中にいるみたいだよ!」
僕はパンパンと拳を反対の掌に打ちつけてみた。感触も現実そのものだ。
――気分が悪くなったり、出たくなったら無理しないでね。イグジットって言えば、時間が止まって目の前にボタンが現れるから、それを押して。
「うん、イグジットだね……っ!」
その瞬間、会場の動きが僕以外すべて止まり、目の前に赤く光るボタンが現れた。なるほど、闘っている最中でもこれを押せば終了できるんだな。しかし、これどうやって戻すんだろ?
十秒ほど悩んでいると、すぐにボタンが消え、また会場が動き出した。何もせず少しおけば元に戻るということか。
――田中君、この風景で何か心当たり思い浮かぶ?
(何かどころか、ボクシング系はスポーツの中では野球やサッカーに次いで多いからな)
「うーん、まあ、いくつかは……」
――えっ、ホント? すごい!
僕は思わず苦笑した。相川さんは本当に何も知らないんだな。
「相川さん、それでいつ始ま……」
そこまで言ったところで、急に会場の照明が落ちた。一瞬ゲームが終わったのかと錯覚したが、ところどころ光る明かりのおかげで、それが演出だということがすぐに分かった。緊張が高まってきた。なんだか学芸会で自分の番がきたみたいだ。小六の時に演じた、別の村の人Zもすごい緊張したっけな。
いつの間にか現れていたリングアナが大きく息を吸いこみ、声を上げた。
「ぅわかコオナアアア、ろっくじゅうさんプアウンドオオオオオオォォォォォォォォォォォ、キリイシイイイイ、トゥゥゥオォォォルウウウウウウウウウウ――――」
「切石通っ!?」
――知ってるのっ?
「うん、スポーツマンガの超名作、『明日でしょう』の中で、最も人気があるライバルなんだ」
――明日でしょう?
「そう、矢内ショウっていう青年が、という丹元老年の元ボクサーに、敬老の日はいつかと尋ねられたことがきっかけでボクシングを始める物語なんだ」
――…………それってどういうきっかけなの?
「それは深く考えないで。もう四十年以上も前の作品なんだけど、これを超えるボクシングマンガはまだ出ていないと思う。さっきスポーツマンガって言ったけど、実はもうスポーツの域も超えてるんじゃないかとも思う。形はボクシングっていうスポーツ物なんだけど、そこで繰り広げられているのは、男と男の全てを懸けた、文字通り生い立ち、努力、情熱、人生、そして命までも懸けた死闘。その凄まじさは、試合を終わった選手が死んだり、白髪になったり、燃え尽きて灰になったり……」
――燃え尽きて灰!?
「ああ、いや、灰っていうのは象徴としてだけど、とにかく、アニメの試合シーンも、四十年も前の物なのに、その迫力は今見ても、息をするのを忘れちゃうくらいすごいんだ! あれほど魂っていうものを感じる作品は今ちょっと思いつかないな。中高年を中心にいまだに絶大な人気を誇っているよ。あの切石なんか、主人公より人気があるくらいで、毎年彼の誕生日には、ファンが集ってお祝いしているくらいだからね」
――えっ、アニメのキャラなのに? ……すごい。そんなすごい人相手に大丈夫?
「初めてだから分からないけど、秘策はある。相川さん、主人公の矢内丈乃助をお願いします!」
――あ、う、うん……。
相川さんが一生懸命検索をくっている間、僕はふらふらと入場してくる切石を観察した。減量しすぎて六十三パウンドになってしまった体は、まさに骨と皮。実際の人間だったら即入院レベルだ。
だが、あの落ちくぼんで頭蓋骨の奥底に引っ込んだ目を見てみろ。なんて強い光だ。彼は魂補正をたっぷり受けて、信じられないくらいの強さを発揮するんだ。
「おっ!」
体が変化し始めた。青いリングパンツ姿に変わり、手足が細長くなる。手にはグローブが現れた。そしてあと一つ、前髪が長く前方に突き出した時、俺はすっかり矢内丈乃助になっていた。
「へっ、なんだか楽しくなってきたぜ。性格まで変わんのか?」
俺はうすら笑いを浮かべながら乱暴に鼻を擦ると、切石のヤローを睨みつけてやった。ははっ、ヤローもこっちを睨んでやがるぜ。
「減量失敗した割にゃあ、いい面構えをしているじゃあねえか……」
カーン!
――田中君! 頑張って―――!
「美鈴ちゃんよぉ、今の俺は田中じゃねえぜ」
言葉を残し、俺は獲物へと突進した。
ファーストコンタクト。俺の拳が奴に迫る。
――田中君! アップになったら、なんか画面にいっぱいに線が出てきたよ!
シリアスな展開だってのに、美鈴ちゃんのかわいい声が飛び込んできやがる。俺のパンチが切石のヤローに避けられちまったぜ。ま、美鈴ちゃんのせいにはしないけどよ。
「それは効果線って言うんだ。明日でしょうの試合シーンは効果線のオンパレードだ。それくらいで驚いてたら、疲れっちまうぜ?」
俺は切石のパンチを紙一重でかわしながら答えた。すげえ、俺があの切石のパンチを避けてやがるぜ。
――この草笛みたいな音もこの作品独特のもの?
切石のパンチが俺のテンプルをとらえた。おっと、痛みはリアルだ。けど、俺の耐久性も上がっているからそんなにダメージはない。俺は距離を取ってから美鈴ちゃんの質問に答えてやった。
「草笛ときたか、へっ、言い得て妙だな。初めは聞き慣れないだろうけど、この音がなきゃパンチした気になんねえ。美鈴ちゃんもそのうち慣れるさ」
『おい、おしゃべりしながらなんて、ずいぶんと舐めたマネしてくれるな』
「なっ……おまえしゃべれるのか?」
突然発せられた言葉に、俺は思いっきり驚いちまった。
切石が怪しく笑う。
『おいおい、俺をなんだと思ってんだ?』
――実際のマンガやアニメで話すことができるキャラクターは、ちゃんとしゃべるんだよ。
「へえ、そいつはそいつは。臨場感たっぷりだな、このゲーム。気にいったぜ!」
俺は笑いながら奴の懐へ飛び込み、パンチを繰り出した。やった! 動きがスローモーションになった。クリティカル演出だ!
『げふっ』
――やったっ!
切石の体がゆっくり吹っ飛び、ゴムボールのように大きくバウンドした。
レフェリーがカウントを取り始めた。だが俺には、それが意味ないことぐらい分かっているぜ。
「ほらな」
きっかりナインで立ち上がる。目はまったく死んじゃいねえ。
「そうこなくっちゃな!」
それから俺は、ガードなしでヤツとのどつきあいに付き合った。一発殴られたら一発返し、二発殴られたらきっかり二発返し、血を噴き出し、倒れることもあったけど、どこからともなく聞こえてくる単元のおっさんの声援にも助けられ、そのつど俺は不敵な笑みを浮かべて立ち上がってやった。
すっかりのめり込んだのか、いつの間にか美鈴ちゃんの声も聞こえなくなってら。いい傾向だ。
「……次の一発で決まるな」
お互い血だらけとなった展開から、俺は決着の時を悟った。最後はやっぱりあれだろうな。
「今だっ!」
数秒の対峙ののち、俺は切石に突っ込んだ。ピュイーンという張りつめた効果音とともに、これでもかってくらいの集中線がノーガードのヤツの体に向かう。
そしてスローモーションシーンへと突入する。
俺は左ストレートを繰り出した。
だが、切石がそれに右手でカウンターを合わせる。クロスカウンター。
(予定通りだっ)
俺はそれを上体をそらしてかわした。俺の顎のすぐ前を切石のパンチがゆっくり通過していく。そこでっ!
(こいつをはじき返して、右のダブルクロスで仕留める!)
俺は、パンチした左腕で即座に切石のカウンターをはじき上げると、ガラ空きになった奴の顔面めがけて渾身の右ストレートを放った。
しかし、切石は素早く腰を落とし、俺のパンチをかわしてしまった。
そこで一時停止。二人の体から熱気が立ち上る。
見つめ合う俺と切石。
やがて切石の体だけがゆっくりと動き出した。切石が低い位置から充分な溜めを蓄えて、俺にアッパーをぶちかます。トリプルクロスカウンター。
俺の体がゆっくりと上昇していく。
――きゃあああああ――っ
「美鈴ちゃん、叫ぶにはまだはえぜ」
『なに!?』
力石の誇らしげな表情が消えた。切石のアッパーカットに合わせてジャンプしていた俺にダメージはまったくない。話の筋を知っていた俺は、奴の裏をかいてやったんだ。
空中で止まっていた体が降下し始めた。俺は、愕然と見上げる切石の顔に豪快な打ちおろしをくれてやった。元ネタを超える、クアドラプルクロスカウンターだ。
――すごい、田中君、すごいよ!
美鈴ちゃんと大観衆の歓声にかき消されて聞こえなかったけど、俺はテンカウントを確信していた。そしてそれを実証するかのように、時を置かずしてゴングの音が歓声に混じった。
――おめでとう! 田中君!
「おう、ありがとよ、美鈴ちゃん」
美鈴ちゃんの拍手の音も聞こえてきた。結局最後まで矢内と呼んでくれなかったけど、若干主旨を忘れて拍手までしてくれるなんて嬉しいじゃないか。
『完敗だ……』
ふらふらと立ち上がった切石がゆっくり俺に近づき、手を差し出した。そういえばこの試合の日はヤローの誕生日じゃないか。
俺はニッと笑ってその手を取った。
「ああ。おまえも誕生日おめでとう。早くそのガリガリな体にプレゼントしてやりな。死んじまうぜ?」
切石は驚いたように一瞬目を見開いたが、すぐに表情を戻すと、「ああ」と言ってリングを後にした。
* * *
「お疲れさ――っ!」
仮想世界から戻り、カプセルの蓋を開けると、相川さんが駆け寄ってきた。そして僕の生まれたままの姿を見て言葉を失った。
「ご、ごめんっ!」
相川さんが顔を真っ赤にして背を向けた。どこまで見られてしまったのだろうか。僕の一向に成長しないジュニアを見られたとなると、切腹する必要があるからどうしても聞きたい。でも、そんなセクハラまがいのことを聞いたら、なけなしの自我が崩壊して現世との縁が切れてしまうかもしれない。恥を感じなくなるのは好都合だけど、相川さんの家にたちの悪い変態を生み落とすのは避けたいし……。
よって、僕は大人しく、かつ速やかに服を着ることにした。
「本当にありがとう」
「え?」
振り向くと、相川さんはまだ背を向けていた。相川さんがそのまま続ける。
「ステージ1をクリアしたの初めてなんだ」
「あ、そうなんだ……」
「毎回敵のキャラクターが変わるから、わたしはあの切石って人と闘ったことはないんだけど、いっつもコテンパンにやられてた。まあ、そもそもまずちゃんとしたキャラクターを選択できないと勝てないようになってるんだけどね」
そう言う相川さんの背中は、とても寂しそうだった。
「そっか……でも、じゃあキャラさえ覚えられれば相川さんだってきっと……」
「ううん、ダメだと思う。田中君、あの闘い、自分で考えながら闘っていたんでしょ? わたしだったら正しいキャラクターになれても、どう闘っていいか分かんない。本当に、田中君が言ったように、ちゃんとアニメを見ている人じゃないと、あのゲームはクリアできないんだなって実感したよ」
「そっか……じゃあ、本物じゃないけど、実際に見てみてどう…………だった?」
尋ねながら、僕はすごく緊張していた。一瞬で、見事なまでに口がカラカラになってしまった。
「ハラハラした!」
勢いよく振り向いた相川さんの目はとてもキラキラと輝いていた。よかった……。そして分かった、相川さんは天使なんだ。寿命を全うさせまいと何度も天国へ連れて行こうとするやんちゃな天使。また危うく昇天させられるところだった。今日の間に培った耐性がなかったら確実だった。
天地の挾間にいる僕にかまわず、相川さんは興奮気味に続ける。
「最後の方なんて本当に手に汗握ってたもん!」
「そ、それは良かった……」
相川さんの輝く笑顔を直視できなくなり、腰抜けな僕は目をそらしてしまった。
そんな僕を、相川さんは不思議そうにクスッと笑った。
「田中君、また元に戻ったね。さっきはなんか別人みたいな口調だったのに」
僕はハッと顔を上げた。
「えっ……いや、だって矢内丈乃助はああいうキャラだから……」
「変身したからなりきれたってこと?」
相川さんが首を傾げた。
「え? そういう性格になる設定なんでしょ?」
「性格変わる設定なんてないよ?」
「へっ…………嘘?」
相川さんが首を振った。僕の顔から血の気が一気に引いた。
(仮想現実にかこつけて調子に乗ってしまった!)
瞬く間に、矢内丈乃助に扮した僕のセリフが頭の中でエンドレス再生される。ま、まずい……。僕はすぐさま土下座した。
「ご、ごめんなさいっ! 調子に乗ってなれなれしくしてしまいましたっ!」
「や……土下座なんてやめてよ!」相川さんが慌てて近づいて来る。「いいんだよ、全然嫌な気しなかったし! むしろそのおかげでわたしも作品の中に入り込めた気もするし。だから、ね、もう顔上げて!」
おそるおそる顔を上げると、困ったような顔をした相川さんがすぐ目の前にいた。僕は静かにまた頭を下げた。
「え、ちょっと! 何で?」
……顔が近すぎます。
相川さんはバス停まで送ってくれると言ってくれた。行きの記憶がほとんど消失しかかっていた僕にとっては非常にありがたい申し出だった。
「……またお願いしてもいいかな?」
道の途中、相川さんが控え目に尋ねてきた。僕はノータイムで首を九十度回転させた。骨が折れなかったのは神のきまぐれだろう。
「も、もちろんだよ! 最初に言ったじゃん! お兄さん助け出すまで…………な、なんなら…………毎日だって!」
一世一代の提案だった。相川さんに言っていい言葉の許容範囲をまったくつかめないでいた僕は、この提案に対する相川さんの反応で、今後の距離感を測ろうとしたのだ。もし、顔がひきつったり苦笑いをされたりしたら、もうこれからは提案など一切せず、奴隷よりも謙虚な気持ちで臨もう。
「ホントっ?」
その明るい笑顔が僕を惑わせるんだ……。でも、嬉しい。相川さんの笑顔もちゃんと見られるようになってきている。
「うん、僕なんか……いつも暇だからさ。いつでも声かけて」
結局、相川さんは僕の好意に甘えてくれて、とりあえず毎日1ステージずつの七日連続を申し訳なさそうにお願いした。お父さんが後二週間出張で家を空けているから、お父さんに内緒で僕に協力を頼んだ相川さんにとって都合がいいとのことだ。
僕はもちろん快諾した。明日もこの幸せが味わえるのだと思うと、相川さんにとっては、お兄さんの命が懸かっている深刻な問題なのに、ごめんなさい、どうしても笑顔がこぼれてしまう。
でも、絶対に手を抜きません。もし一日で最終ステージまでいけそうなら、僕は全力でそれを目指します。
相川さんと別れるまでにそのことを深く深く、一生消えないくらい心に刻み込んだ僕は、朝取られたマンガを買うことなどすっかり忘れ、とても誇らしい気分で家路についたのだった。




