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ヒーローズ  作者: なかお ゆうき
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ステージ1 ヒーローデビュー

    今日もどこかで敵と闘っているすべてのヒーローに捧ぐ



「少女がみな花嫁に憧れるように、少年はみなヒーローに憧れるのさ」                                  『テロメアからの警告』 アルバート・モリスン






「また新しいマンガを読んでいるのかよ?」

 しまった、いつの間にかそんな時間になっていたか。僕の体がこわばった。それにしても嫌な口調だ。言葉の端々に侮蔑が散りばめられている。顔を上げずとも、イケイケグループの筆頭である高梨(たかなし)のニヤニヤしている顔が脳に投影される。できれば接したくない。

 だが、これ以上の遅延行為はもはやイエローカードではすまなくなる。

(しかたない……)

僕はおそるおそる顔を上げた。セーフ。彼の表情は、まだ僕の脳裏に刷り込まれた物と同じだった。

「あ……ああ、ま……前のは……よ、読み終わっちゃったからね……」

 僕は自分にできる最大限の笑顔を作った。それで事態が好転するわけじゃないけれど、少なくとも手は出されなくなる。言葉のぎこちなさも、半年をかけてイジられない程度には受け入れられていた。

「けっ、おまえは相変わらずオタクだなあ。どれ、貸してみろ」

 高梨が僕の買い立てのマンガを奪い取った。それに対して、僕は余計な行動をとってはならない。ただあははと笑顔を浮かべるのが正解。

「じゃあ、読み終わったら返してやるから」

 パラパラと中身を確認すると、ご機嫌な高梨は僕から離れ、仲間のもとへと行ってしまった。僕の新品のマンガが、彼らの手でどんどん劣化していく。まあ、どうせもう返ってこない物なんだけど。

 もはや溜め息すらつかず、僕が肩を落とすと、後ろの席に座る、学校で唯一の友である後藤(ごとう)が、僕の肩に力強く手を置いた。

「だから田中(たなか)はマンガを持ってくるのをやめとけって言ってるんだよ。何冊取られれば分かるんだよ?」

「そうなんだけど、読んでる本の新刊が出ると、どうしても我慢できないんだよね」

「だからって、同じ日の登校と下校で、同じ本を、同じ本屋で買うなんてバカバカしいじゃないか。きっと本屋でも噂になってるぞ」

「まあ……もう二冊買うのが習慣みたいになってるから……。それで高梨君達が機嫌良くいてくれるなら安いもんだよ」

「パブロフの犬だな」後藤が呆れたように首を振る。「にしても、おまえがヒーロー(ちゅう)だから悪いんだよ。属性変えちまえよ」

 後藤がニヤニヤしだした。自分の属性に引き込みたいのだ。僕は後藤の机に置かれているマンガをちらりと見た。肉欲的な上に、チラリズムの限界に挑戦しようとしている制服少女が、まんざらでもなさそうなしかめ面をした少年に跨っていた。

 僕は小さく息をついた。確かに高梨達は、妹厨である後藤のマンガには一切手を出さない。頭の大半が女で占められているような彼らが、半ばエロ本のような後藤のマンガにまったく興味を持たないわけではないだろう。ただ、彼らの自意識が、学年中から変態というレッテルを貼られた後藤のエロマンガを、学校で手にすることを許さないのだ。カッコつけに命を懸けるナルシスト達の心理を突いた、まったくもって見事な防衛法ではある。

 一方、残念ながら、僕は妹物にはまったく惹かれない。いや、正確に言おう、妹だろうが姉だろうが、女には興味ある。ただ、萌えマンガに興味がないのだ。あんな物はただのエロ本だ。その証拠に、萌えマンガからエロの要素を取ってみろ。ただのF級恋愛マンガもどきじゃないか。物語において女性とは、ヒーローを支えるヒロインなのだ。そのシチュエーションでこそ、女性キャラは輝くのだ。そしてヒロインがいるからこそ、ヒーローもまた存在する意義を与えられ、これでもかってくらいに引き立つのだ。その姿は、現実世界で惨めなほど冴えない僕の胸をいつも熱くしてくれる。

 だから、僕はヒーロー厨なのだ。

 だから、僕は毅然と言ってやった。

「ヒーロー物以外は邪道だ!」

「ちぇ、カッコつけやがって。もっと欲望に素直になれよ。どうせ、俺らなんて妄想の世界でしか女と親しくできないんだから。例えばほら、相川さん……」

 後藤が身を乗り出し、鼻息荒く、顎で黒板近くの席を指し示した。そこには、イケイケ女子グループと並んで、クラスの双璧をなす、秀才華やかグループの集団があった。

そしてその中心に、後光たたえて在らせられていたのは、二年のマドンナ、相川(あいかわ)美鈴(みすず)さんであった。学年男子のご多分に漏れず、僕の密かな想い人である。

 そんな相川さんを持ち出され、はからずも焦ってしまった僕にかまわず、後藤が自説を展開し始める。

「我が中学校全男子の憧れの的、相川美鈴で妄想する時だって……」

「な、なんだよ……」

 後藤がじろりと僕に目を向けた。なんていやらしい目だ。学校でこんな目ができるところも、こいつが変態と蔑まされる所以のひとつなんだろう。そんなねばつくような禍々しいオーラをまとった後藤が、僕の目の前にエロマンガをちらつかせた。

「こういう本で勉強しとかないと、バリエーションをもたせられないだろ?」

「おまえ……将来犯罪なんて起こすなよ……?」

 僕は目の前の本を全力で押し返しながら、後藤の行く末を案じた。

「ふふ、現実と仮想を混同させるような奴は、真の厨じゃねえ」

「そんなんでよく胸張れるな……」

 学年の最下層にいてこの清々しさ。人見知り、緊張しい、臆病、様々なマイナス属性を持つ僕は、たまにこいつがうらやましくなる。ただ、だからといってこいつには絶対なりたくないが。




 放課後、さして変わり映えのない停滞した学校生活を終え、いつもと同じく、不肖の親友後藤と下校の途につこうとした時、僕は宿題に使う教科書を置き勉してしまったことに気がついた。

 僕は後藤を待たせて教室に戻った。校庭ではサッカー部と陸上部が活動し、廊下や他の教室にもちらほらと人の姿があったけれど、うちのクラスは、もうすでに一人だけとなっていた。

 その一人は相川さんだった。

(何してるんだろう……)

 机について誰かと電話している。よっぽど聞かれたくないのか、他に人がいないのに、小声すぎて僕にはまったく聞こえない。机には、開かれたノートが乗っていた。ここで僕が入ったら、教室に二人きりじゃないか! なんという思わせぶりな状況だ。これで何も起こさないようなら、その作者はクビもんだ。でも……、

(んな、バカなことがあるわけない。せいぜいがちらっと見られて逃げられる程度か)

 いや、相川さんは、優秀なお嬢様という属性のほかに、クラス委員にも進んで立候補するなど、気が強いという属性もある節がある。ちらっと見るだけじゃなくて、キッと睨まれるかもしれない。そんなのは、別にMじゃない僕にとってはただただ怖いだけだ。

 僕はゆっくりと教室に足を踏み入れた。どうせいい風にはならないんだから、相川さんには気づかれないようにしよう。

 しかし、僕の体が途中の机に当たってしまう。

 しまった! と思った時には当然ながらもう遅い。相川さんがハッとこっちを向き、そして悲しいかな、予想が見事当たり、キッと睨まれてしまう。わざわざきっかけを作り、悪い予想を的中させるなんて、この世を作り給うた神はなんと慈悲にかけることだろう。相川さんは、僕の中途半端なお辞儀を見ることもなく、スマホを持ったまま教室を飛び出してしまった。

(やってしまった……)

 その姿を呆然と見送った僕は、途中の机に体をぶつけながら、とぼとぼと窓際の自分の席までやって来た。秀才華やかグループの明日の話題は、僕のキショイ話になるんだろうか。しかも、秀才華やかグループは、意外にもイケイケ女子グループとの交流もあるから、下手したら、僕はクラスのツートップから後ろ指を指されるかもしれない。僕には確認する術はないが、田中という名が、およそ人類が考え得る限りの侮蔑の言葉を引き連れ、SNSを駆け巡るかもしれない。

(いや、でも待てよ……)

束の間の絶望を経て、異なる考えが芽生えた。まったく接したことはないから、確実なことはいえないが、遠くから観察する限り、相川さんは、マンガでは腐るほどあるが、実際にはほとんどお目にかかれない特別天然記念属性〝ツンデレ〟を持つ可能性も見て取れる。気の強い一面もあるが、性格自体は決して悪くないっぽいのだ。悲観することはないかも。

そんな根拠の薄い励ましで、なんとか気を取り直した僕は、机の中から教科書を取り、その場を離れた。

「あれ、相川さんがいない……」

 教室を出た僕は、相川さんの姿がないことに少しだけ驚いた。それほど僕に聞かれたくなかったのか……。電話の相手は誰だろう? やっぱり彼氏だろうか。我が存在感の薄さを活用した「立ち聞き情報収集法」には何も引っかかっていないんだが……。でもまあ、相川さんクラスだ、彼氏の千人や二千人はいてもおかしくないだろ。

「はあ……」

 さっさと後藤の所に行こう。悔しいが、今の僕は、相川さんといるより、変態といる方が落ち着く。

 僕は玄関の方に足を向けた。が、その時、どこから湧いたのか、僕は自分の中によからぬ衝動があることに気づいてしまった。慌てて教室をのぞき込む。やっぱりだ。相川さんはノート類をそのままにして教室を出て行った。相川さんは何の勉強をしているのだろう? 相川さんはどんな字を書くのだろう? こんなことを考えるなんて僕は変態だろうか? ならば萌えマンガに鼻の下を伸ばす後藤と、どっちがより変態だろうか? 分からない。しかし、一つだけ言えることがある。

 見つかったら、後藤を超える!

 あの変態より蔑まされたら、僕の精神は転校せずにいられるだろうか? 他の人間は目クソ鼻クソにしか思っていなくても、その一線を越えてしまったら、僕は僕でいられなくなってしまうかもしれない。

 だが、中学生活一年半にして初めて訪れたチャンスが、今後の一年半で再び訪れるとも思えない。さっと見てすぐに逃げればいいんだ! 中二にして、生まれてこの方味わったことのない強烈な葛藤が僕を襲っていた。これは人生の別れ道だ。この先、これ以上の分岐点など訪れようか!

 そして僕は一歩を踏み出した。相川さんの机へと。この一歩は小さな一歩だが、僕の人生を決める大きな一歩なのだ! 頭は真っ白だった。僕は立ちはだかる机と椅子を弾き飛ばしながら、相川さんの机へと突き進んだ。気がはやっていたのか、足が止まる前に首が相川さんの机をのぞき込んだ。

 そして困惑した。

「…………………………戦隊物?」

 机には筆記用具とともに、ノートと厚い手帳が開かれたまま置かれていた。手帳には、特撮戦隊物のタイトルと、その主要登場人物が箇条書きにされていて、登場人物の横にはそれぞれ八桁の英数字が書かれていた。一方、ノートの方は、戦隊物の敵キャラが箇条書きにされ、隣は大きなかっこで中は空白になっていた。手帳とノートで筆跡が違っていた。手帳の方は、えらく年季が入っていて字も男らしい。ノートの方の細い綺麗な字が相川さんのものということか。

 僕はノートにさらなる意識を向けた。一番上のかっこ、オグラマスターという戦隊物の悪役に対応する物だけが埋めてあった。おそらく、オグラマスターが出てくる戦隊物のタイトルを書き込んだのだろう。でも、これは……、

「あっ!」

 女子の驚声に、僕の首はどんな野生動物にも負けない反応を示した。相川さんが目を丸々と見開いていた。

「あ、こ、こ、これこれ、これ、は……その、えっと……」

 終わった。僕は人生最大の選択を間違えてしまったのだ。頭の中で、転校までのシミュレーションが開始される。

 驚いていた相川さんは、恥ずかしさと憤りが混在するような表情に変わると、つかつかとこっちに近づいて来た。

「あ、あの……本当に……」

 僕の本能が体を後退させ、これでもかってくらいに手振りで言葉を繕うことを強要させる。相川さんはそんな僕の手芸に一切目もくれず、僕を睨みながら机まで来ると、荒々しくノートと筆記用具を鞄にしまい始めた。その様子を、僕は先輩力士の食事を見守る後輩力士のように、ただ黙って見続けるしかなかった。

「勝手に見たことについて何も言わないから、あなたも今見たことは誰にも言わないで」

 鞄を持ち上げた相川さんから出たのは、それまで聞いたことのない低い声だった。僕は、メジャーリーグのバブルヘッド人形顔負けのうなずきで応えた。

 僕の必死さが伝わったのか、相変わらず目つきの鋭い相川さんは、何も言わず背を向けた。遠ざかっていく相川さん。おそらく彼女は、僕なら机をのぞき込むことはないと考えて、ノートをそのままにして出て行ったのだろう。そんな唯一ともいえる信頼すらも、僕は裏切ってしまったのだ。この先、仮に連絡事項でも、もう二度と会話してくれないだろう。

 でも、最後に一つだけ……どうしても相川さんに言っておきたいことがある。

「あ……あ、相川さん……」

 幸運にも、相川さんは足を止め、上半身だけで少し振り返ってくれた。なんて見事なくびれ……いやいや、そうじゃない。落ち着け。

「えっと……あ、あの……オ、オグラマスターは、カクレルンジャーじゃないよ……」

 えっ、という顔をして相川さんが完全に振り向いた。

「オ、オグラマスターは……パオレンジャーの敵キャラだよ……。百象戦隊パオレンジャー……」

「それ、本当?」

 意外にも、相川さんは僕の言葉に食いついた。そして、僕の目を見つめながら近づいて来る。血圧急上昇。胸がものすごくドキドキする。

「う、うん……」

「じゃあ、カクレルンジャーは?」

「え? …………あ、ボ、ボスなら……妖怪大忍者かな……」

 相川さんの目が見開かれた。

「何で知ってるの?」

「あ……ぼ、僕、ヒーロー物好きで……いろいろ見ているから……」

 相川さんが目の前にいる。初めて間近で見る相川さんは、遠くで見るより断然美しかった。ストレートパーマをかけているのかというほど真っ直ぐな長い黒髪。パッチリ二重にほどよいカーブを描いた眉。スッと通った形のいい鼻に、ほどよい肉づきの唇。見とれてしまう。いや待て、これはどんな状況なんだ? 

「お願い、ちょっと付き合って」

「え?」

 夢と現実の区別すらつかないほどに混乱している僕の腕を、相川さんが力強く握った。そしてそのまま踵を返し、外へと向かう。困惑の極みにいたが、当然僕は抵抗しない。頭のカメラが自動でフル稼働し、この状況を一生涯常に振り返れるように記録する。

「え? あ、あの、相川さん?」

「わたしに力を貸して」

「ええ?」

 奇跡か壮大なドッキリか。僕が採った人生最大の選択は、何やらとてつもない方向に僕を連れて行こうとしているようだ。

 僕がちゃんとついてくると確信したのか、あるいは僕なんかの腕を握っている姿を人に見られるのが嫌だったのか、相川さんは廊下を出てすぐに僕の手を放していた。

 だから玄関に着いた時、相川さんの少し後ろを僕が歩いていても、後藤は僕らが一緒に来たとは夢にも思わず、通り過ぎる相川さんを横目で盗み見てから、僕を軽く小突いた。

「遅えよ。何してたんだ? 相川さんのストーキングか?」

 くくくと下品に笑う後藤。

 僕はとりあえず足を止めた。さて、どう言おうか? 後藤にとっても僕は唯一の友だ。僕に対してだけ強気の変態だが、普通ならものの二分で戻れるところを、こうして十分近くも大人しく僕のことを待っててくれたのだ。しかし……、

「ごめん、今日は別々に帰ろう」

「え?」

 ぽかんとする後藤の反応に胸が痛んだ。親友を捨てるなんて、僕が敬愛するヒーローのすることではない…………いや、でも近年のヒーローはあながち……いやいや、やはり良くない! ヒロインがヒーローにとって大切なのと同じくらいに、友もまた大切なのだ。

「だが、分かってくれ! おまえにとって青天の霹靂であるように、僕にとっても青天の霹靂なんだ! あ……」

 心の中で勝手に言葉を進めてしまった。恥ずかしい……。非日常的な状況に舞い上がり、僕は自分に酔ってしまったのか?

「おまえ、頭おかしくなったのか……?」

「あ、いや、とにかく! しばらくおまえはここにいてくれ! な! 何も言わず!」

「は……いや、何言って……」

「ごめん!」

 僕は後藤を残して走り出した。校門を出る時に一度振り返ってみたが、なんてことだ、後藤は言われた通り玄関から動いていない。なんて従順なんだ! 僕は泣いた。号泣した。涙を流しながら校門を走り抜けた。心の中で。

 塀の死角で相川さんが待っていた。まさか、この世に僕の出待ちをしてくれる人が存在したなんて! しかも、容姿端麗、スタイル抜群、性格ツンデレ(仮)の相川さんが! やばい、本当に泣けてきそうだ……。

 しかし、喜んでばかりもいられない。早く移動しないと、いつ後藤が来るか分からない。僕らが連れ立って歩いているところなんかを見られた日には、本当に後藤の心は僕から離れてしまうかもしれない。

「あ、あの……わ、悪いんだけど、は、はゆく移動してもらっていいかな? えっと、その、僕、後藤との下校をスッ飛ばしちゃったから…………一緒にいるところ……あまり、見られたくないんだ……」

 言い終わって愕然とした。僕は何様のつもりなんだ? 学年のマドンナをつかまえて、一緒にいるところを見られたくないだと? 何ぬかしてんだこのカスは。パニックのバカ野郎、この僕から冷静な思考を奪いやがって、今度会ったら…………違う違うそうじゃない、落ち着け。

「いいよ、それなら尾久のバス停で待ってて。わたしは少しおいて行くから」

 相川さんがぶっきらぼうに言った。

「……へ?」

「そこまでは後藤君も来ないでしょ……は、早く行ったら?」

「あ、は、はい!」

 僕は再び走った。全力で走った。ペース配分なんか関係ない。むしろWHAT IS PACE HAIBUN? 希望に胸をときめかせ、ドッキリの懸念に心を苛まれ、僕は五十メール八秒八の末広がりな足で走り続けた。




「盲腸は前日に微熱が出る、だから大丈夫……盲腸は前日に微熱が出る、だから大丈夫……」

 どれくらい走っただろう。恐ろしく左脇腹を傷めた僕は、途中で真剣に盲腸を疑うこと数回、しかし母より授かりし魔法の言葉のおかげで、119番をダイヤルすることなく、なんとか生きて尾久の停留所に辿り着くことができた。

 僕はどっさりと停留所のベンチに座った。相川さんはちゃんと来るだろうか。立ち聞き情報収集法によって仕入れた情報によると、確かに相川さんの家の方角はこっちの方みたいだけど。でも、さっきの無礼な発言がある。江戸時代なら、確実に市中引き回しの上に磔、打ち首、生き埋め、コンクリート詰め…………考えただけでも恐ろしい、しかも江戸時代にコンクリートがあったとは……。

「さすが大江戸、何でもござれだ……」

「おまたせ」

 僕が江戸の恐ろしさをぶつぶつと独白していると、相川さんが目の前に立った。相川さんの無表情が、僕に立ち上がることを強要する。

 僕がかわいらしい声の返事とともに慌てて立ち上がると、相川さんはクスリともせずに歩き始めた。

 僕達は一定の距離を置いて黙って歩き続けた。本人公認で相川さんの艶めかしい後ろ姿をずっと見ていられるのは嬉しいが、今後の展開について億兆個もの予想が頭を駆け巡り、全力疾走した疲労も相まって、なんだか気を失ってしまいそうだった。だから、大通りに沿って少し歩いたあと、横道に折れ、しばらく行くと現れた、高い赤茶の塀に沿って歩くことずっと、門を通ってその塀の内側に相川さんが入った時、僕は本当に相川さんが消えてしまったんじゃないかと思ってしまった。

「いいよ、入って」

 相川さんが門を挟んで目の前にいたことを発見した僕は、誘われるがままふらふらと門を通った。

「相川さんて……すごいお金持ちなんだね」

 僕は四つの建物に目を移しながら呟いた。相川さんが前を見つめたまま応える。

「わたしがお金持ちなんじゃない。父は芝浜の社長だから」

「芝浜?」

 聞き間違えじゃなければ、相川さんのお父さんは、世界有数の電子機器メーカーの社長ということになる。まったく知らなかった。いいとこのお嬢さんだろうとは勝手に思い込んでいたが、まさか日本屈指のだったとは。

(それほどの情報が、なぜ僕の耳に届かなかったんだ?)

 やっぱり友達が一人というのが痛いのか。立ち聞き情報収集法の限界が見え、僕は急に切なくなってしまった。

 本邸と思われる建物に入ると、お手伝いさんらしき恰幅のいいおばさんが出迎えてくれた。

「お帰りなさい、美鈴ちゃん。そちらの方は……」

「ヒーローズの手伝いをしてもらおうと思って」

(ヒーローズ?)

「そう…………。(ただし)さん、助かるといいわね」

(正さん?)

「うん」

 相川さんが悲しそうな顔をした。誰なんだ? しかし僕は相川さんの顔を見て、出かかった質問を引っ込めた。相川さんが口を開くまで待とう。

 僕のおあずけは長くは続かなかった。廊下の突き当たりまで来た時、相川さんが重々しく口を開いたからだ。

「強引に連れて来てごめんなさい。訳を話す前にどうしても聞いておきたいんだけど、これから話すことは、うちの恥。誰にも言わないって約束してもらえるかな?」

 さっきから見られる相川さんの落ち込んだような顔が、僕の胸に突き刺さる。僕は即答した。

「う、うん! 絶対言わない! ほら、僕って、友達もあまりいないし、あっ、いや、いてもいなくても言わないよ!」

 絶対に言うもんか! たとえ市中引き回しの上に磔になったって! ここまで言われて信頼を裏切ったら、僕は男をやめる! 今後ヒーロー物も一切見ない!

「……ありがとう。こっちに来て」

 僕の熱意が伝わったのか、はたまた気合の空回りっぷりが滑稽だったからか、初めて相川さんの顔に笑みのようなものが浮かんだ。その笑顔が見られただけでも、僕は今まで生きてきた甲斐があったというものだ。

「正っていうのは、わたしの兄なの」

 曲がったすぐ先の階段を降り始めた相川さんは、説明を始めた。今日……いや、人生で初めて、今度は相川さんが僕の隣にいる。僕は、頭や体のいろいろなものを必死に押さえ込み、彼女の言葉を聞き漏らさぬよう耳をすました。

「兄は優秀だった。父の後を継ぐべく、小さい時から英才教育を施され、公立の学校に通っているわたしと違って、幼小中高と私立。大学にいたっては十六からオックスフォード。周りの誰もが、芝浜は兄の代までは安泰だって言っていた。だけど……」

 相川さんが目を伏せ小さく息をついた。

「芝浜に入って一年が過ぎた頃、兄は突然ある研究がしたいって言い出したの。うちの地下に、それ専用の施設まで造るとも言ったわ。でも、そこまではまあ、家族も驚きはしたけれど、特に反対はしなかった。むしろ何をするんだろうという興味と期待があったくらい」

 相川さんがまた小さく息をついた。表情もより暗くなる。

「でも、半年くらいすると、兄が地下から全然く出てこなくなったの。心配して家族が様子を見に行ったら……これを発見した」 

 そう言って、相川さんは階段を降りきった先のドアを開いた。

「ヒーローズ。兄は自分が造った装置をそう名付けたみたい」

                                    

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