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D・ブレイク ~運命が変わる時~  作者: アイq
1章 始まりの森
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接触

 男は東京の古びたアパートで目を覚ました。見慣れた天井、飾り気のないタンス。社会の歯車として働き、寝に帰るだけのためにある簡素な部屋。


 今向かいあっている机にはノートパソコンと大量の本。どうやら作業の途中で眠ったらしくモニターは閉じられていない。そのときふと違和感を覚えた。


 昨夜どころか昨日の昼から記憶がない。パソコンの前に座ったことは覚えていても何をすべきだったかは思い出せない。思い出そうとするとまるで拒むように頭に鋭い痛みが走る。


 痛みに顔を歪ませ、両手で頭を抑えた。視界の端に映った壁掛け時計は月曜の九時半を示している。


「まずい……!」


 遅刻だと慌てるとカレンダーが今日の日付を赤で表しているのを見つけ、安堵した表情で椅子に座りなおした。もう一度天井を仰ぎ記憶を探ったものの結果は同じだった。


 激しい渇きと空腹に襲われた男はふらふらと冷蔵庫に近づき、中を物色する。あるのは水とカステラだけだった。新品のミネラルウオーターを一口含んだ。カステラで腹を満たすこともできるがこの甘く水気のないものを喉は受け入れなかった。


 しかたなく一番近くのコンビニへ足を運んだ。記憶の件ですっきりしないまま自動ドアをくぐる。住宅街のど真ん中に位置するものの時間が時間なだけに人の影は見当たらない。


「いらっし……」


 カウンターに立っている店員は欠伸(あくび)を噛み殺しながら、はっきりしない小さな声で客を歓迎した。店内のショーケースに並ぶ商品はまばらで、かごも持たずに適当に商品を選ぶ。飲用ゼリーとサラダ、ジュースで片手がいっぱいになると、例の店員がいるレジへ向かった。


 ピッ。


「ゼリー一点」


 その声を聞いたとき、何かが男の記憶を揺らした。小さく見落としてしまいそうでも確実に。


「お惣菜一点――」


 男は途中から水の中で声を聞いているように感じた。


 ――この声、どこかで……どこで?


「袋は必要ですか?」


 ――必要なのはこれかな?


 突然深い海のそこから泡が上がってきたかのように男の脳内で記憶がはじけた。


「……モトナフ」


「は?」


 店員の声が初めて人間らしい感情を含んだ。唐突に誰も知らないはずの『もう一つの名前』を呼ばれ不信感を露わにする。一方で男は芋づる式に戻ってくる記憶と疑問により我を忘れていた。


「お、お前モトナフだろ? セカンド・アースの。俺クロイツだよ。いや、絶対間違えるはずない。うん、絶対。それで俺は負けたのか? グーマーとの戦闘は? そうだ、だから記憶を失いかけてて、それで――」


「落ち着け。わかったから、少し落ち着けって!」


 男は湧き上がる感情に口を任せていたため自分でも何を言っているかわかっていない。顔を真っ赤にして早口にまくしたてる男を店員がなだめていた。


「いいか? よく聞け。お前は帰ったらなるべく早く寝ろ。起きたらいつでもいいからここにかけろ。いいな? 寝ることが重要だ」


 店員は拒否することを許さないかのように確認をとった。そして携帯電話をメモした紙切れを手早くレジ袋に忍ばせる。まだ状況を読み込めていない男はおどけた調子で訊く。


「寝なかったら?」


 すると店員は鬼の形相でにらみ低い声で答えた。


現実世界(リアル)で死ぬ」


 男の顔からさっと血の気が失せる。店員からレジ袋を受け取ると、まるでロボットになってしまったかのようにカクカクとした動きで店をでる。


 ――現実世界で死ぬ、死ぬ、しぬ、シヌ


 さっきの声が男の脳内で飛び回る。やがて上の空だった男に現実感が舞い戻る。最短距離を駆け抜けるように部屋へ飛び込むと強烈な空腹感による吐き気が襲った。まだ生きていることを実感し腹へゼリーを流し込むとすぐに布団を被った。


 *


 目覚めると部屋は薄暗かった。時計に目をやると十七時。頭を掻きながら上体を起こすとレジ袋と飲用ゼリーのごみが寝たときと同じ位置に陣取っていた。


 袋を探りジュースと共に小さな紙切れを取り出す。糖分補給をしながらあの店員へ電話を掛けた。三コールで眠そうな、機嫌の悪そうな声が響く。


「どちらさん?」


「自分でかけろと言っておきながらずいぶんな対応だな。ほら、昼間の――」


「何時間寝た?」


 急に声が緊張感を持ち始めた。男はこの急変に少し驚きながら計算を始めた。


「そうだな……八時間てところか」


「わかった。これから会えるか? ファミレスがいいだろう。三十分以内に行けるファミレスの候補を挙げてくれ」


 いくつか候補を挙げたところで落ち合う場所が決まった。お互いに服装を伝え合うと通話を終了し、必要なものを持ち合わせて男はファミレスへ向かった。


 男はファミレスへ着くとさっと店内に目を通した。ちょうど夕食の時間と重なり席の八割は埋まっているようだ。しかし待ち合わせの人物は見当たらず一番見つかりやすい窓際の席を選んだ。


 男が座るのを待っていたかのように順番待ちの列ができる。最初は見逃すものかと入口を睨みつけていたが、何日も食事していないかのような強烈な空腹に襲われメニューに目を落とした。数分後、ちょうど注文が終わったときコンビニで見た顔が向かいに腰を下ろした。


「クロイツだね? よく眠れたかな?」


「ああ、かなりぐっすりだったよ。一度も目を覚まさなかった。それよりここでもクロイツって呼ぶのか?」


「俺はネットとリアルに明確な区切りをつけたいんでね。SNSなんかで顔写真出すやつなんてアホ以外の何物でもないね。わかってくれ」


 そこで店員を呼ぶとコーヒーを注文した。


「さて、何から話そうか……」


「ボス戦は? 負けたのか?」


「いや勝ったよ。負けてたらこんな風に会わないって」


 まるで昨日の夕飯を答えるかのように答えるモトナフに対し、クロイツは両目を見開き教科書にのるような『驚愕』の顔で見つめていた。


「おいおい、最初に教えなかったか? ちっちゃいカマキリが親を食っちまったんだよ」


「そんなの一言を言わなかったじゃないか!」


「ん? ……あ、そうか。説明も聞かずに飛び出したのはどこのどいつだっけ?」


 一瞬口を開きかけたが、すぐにそのときのことを思い出して沈黙を保った。


「やつらは生まれたばかりで単に餌を求めていたのさ。最初の一分はプレイヤーを追いかける仕様だけどそれ以上は待てない。そしたら一番近いエネルギー源は母親だ。まあ交尾の時も共食いするから親を食ったこところでなんら不思議はねえな。しかし現場は凄惨だったぞ。何度見てもあれだけは慣れねえ。虫食い状態の死体がな、こう……」


 身振り手振りを交えて説明を始めたときであった。店員がパスタの入った皿と穴あきチーズの入った皿が運んできた。


「お待たせしました。カルボナーラでございます。こちらのチーズをお好みでおかけください」


「おう……悪かったな」


 胸の辺りまであげた手を戸惑いながら下した。


「構わないよ、続けて」


「でな、こう……」


「カマキリじゃなくて!」


 再び先ほどの続きを話し始めようとしたモトナフの雰囲気を鋭く察知して止めた。これ以上は食欲にかかわる。


「そうか……ほかに気になってることは?」


 クロイツはチーズを少しすりおろしたパスタを口にしながら訊いた。


「なんで眠るように言ったんだ? 別に疲れは感じてなかったし、別段強い眠気でもなかったぞ」


「そりゃ簡単なことさ。脳みそは寝てないからな」


「脳みそ()? じゃあほかの部分は寝てるのか?」


「そうだよ。ゲームに必要なのは脳波だけだから体は寝ている状態に等しい。しかしゲームの時間中、脳は寝れない。あるとき死亡事故が起きてな。実験の結果、連続プレイ二十六時間がボーダーラインらしい。それを受けて運営側は二十四時間で強制ログアウトという機能を追加したわけだ。それで――」


「その二十四時間を戦闘中に迎えたわけか」


「そういうこと。今度設定で連続ログイン時間を設定しておこう。そうすれば警告されるから」


 カランとコーヒーの中で溶けた氷が音をたてた。冷え切ってしまったカルボナーラを急いで腹に収めるとモトナフもコーヒーを一気に飲み干した。


「明日は早いのか?」


 モトナフが尋ねる。


「そうだな……六時には起きるな」


「じゃあ今夜八時に待ち合わせ。戦利品の確認だけして解散にしよう」


「わかった。じゃあ後で」


「おい、忘れるなよ。あくまでゲームは仮想だ。こっちに影響を与えるほどのめりこむなよ」


「……そんなやつに見えるか? その辺は心得てるよ」


 さっさと背を向け支払いを済ませるクロイツにモトナフは心配そうな視線を送っていた。そのことにクロイツは気づかなかった。


 *


 広い部屋にくぐもったシャワーの音と心地よい鼻歌が響く。男は相変わらず不完全なチェス盤を前に戦略本を熱心に読んでいる。必然的にシャワーを浴びているのはモニターを陣取るあの女だ。


 男は時々本から顔を上げソファに寝そべったままモニターに視線を投げる。やがて床に叩き付ける水の音が止まった。時刻は七時半。それから程なくして部屋のドアが開いた。


 そこに立っていたのはバスローブだけを羽織ったあの女だった。長い黒髪はしっとりと濡れ、頬にはうっすらと赤みがさす。シャンプーの香りが鼻をくすぐった。


 もともとかわいらしい女の子といった印象だが、いまは大人っぽい女性の雰囲気を醸し出している。


 いつの間にか鼻歌が止まり、本は音をたてて閉じられる。男が音もなく立ち上がり女のもとへゆっくりと歩み寄る。


 窓にカーテンはなく闇に包まれた空と下に広がるビルや車の光が幻想的だ。部屋を間接照明がうっすらと照らし出す。


 一つの部屋に若い男と女。女は見上げるような恰好で濡れた瞳を男に向ける。男は肩に手を回し、女を引き寄せた。女は抵抗するように左手を上げるが、空いた右手がそれを止める。流れるような動作だった。男は目を閉じ、唇を近づけた。


 ――そのとき、ゴツンという低い音とともに男が倒れた。


「ったく。その変態症、どうにかならないものかね? ユキよりあんたのほうがよっぽど重症だよ」


「はな……鼻血……」


 見ると顔を抑える指の隙間から赤い液体がいくつも筋をつくっている。ちょうどティッシュで応急処置を施したとき、玄関で物音がした。


「ほら、お帰りだよ」


 折角の二枚目が台無しになる。鼻に詰められたティッシュは半分ほど赤く染まり、服にも真っ赤な華がいくつか開いている。そのまま玄関に向かうとそこには車いすに乗った少女がいた。


 中学三年生くらいだろうか。切れ長の目にふっくらとした唇。頬は陶器のように白く、艶のある黒髪は肩まで伸びている。


 見た目は確かに中学生だけれども、彼女が纏う雰囲気は違っていた。まるで何十年も生活しており、数々の不条理や矛盾を経験してきたように思える。現にその目はきれいだが、どこにも焦点を合わせていないみたいだ。


「お帰り、ユキ。塾はどうだった?」


 男はユキと呼んだ少女の返答を待った。しかしたっぷり十秒取ったところで、ついに少女の唇が動くことはなかった。それでも男は落胆の色を全く見せず続けた。


「今度さ――」


 バタン。


 それを遮るようにドアが大きな音を立てて開き金切り声がそれに続く。


「あんた何考えてんのよ!?」


 それは怒りというより驚きの要素が多かった。さすがに冷静な雰囲気を発するユキも肩を跳ね上がらせ、目を見開いている。


「何って何?」


 男は眉一つ動かさずに問うた。女は一瞬、世界中の人間がこいつの手のひらで躍らせているのではないかという錯覚に陥る。


 この問答さえも彼女の性格を考慮して予測していたのだろうか。その狼狽を顔に出さないよう続けた。


「わかってんだろ、あのブレイカーだよ。今アイテム回収を始めた。あと少しで水を吹き出すところだった」


 ああ、それかと大げさに頷きながらつぶやいた。車いすの後ろに回り玄関から上がるのを手伝った。


「プレゼントだよ。ささやかだけどね」


「ささやかって……あれじゃあゲームの半分が終わったも同然だろ。だ――」


「全然! まだまだ始まったばかりだよ。さあ楽しませてもらおうか、本物のデビュー戦をね」


 リナはまだ納得できない様子で男に詰め寄っていた。気づけば白のクイーンポーンが静かに佇んでいた。


 *


 tips


 健康被害:ゲーム中は脳波のみを使うため体は疲労を感じることはない。しかし脳の使い過ぎにより死亡事故が起きたため運営が防止機能を付けた。他にも長時間運動しないことによる心筋梗塞などがある。

ありがとうございました。

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