森の主
秒単位に大きくなる足下から伝わる振動。剣を握る手はじっとりと湿り、無意識のうちに肩が強張る。まだ見ぬ敵の姿に激しい動悸に襲われていた。
爆音と共に真正面の木々をなぎ倒しながら森の主は姿を表す。画面の端に敵の情報が表示され始めた。名前は『グーマー』。その姿形は日本中の誰が見てもカマキリと答えるだろう。桁違いな大きさではあるが。
地面から脳天までは二メートルを優に超えていて、クロイツでは刃がそこまで届かないのは明白であった。独特な逆三角形の顔に奥行きの長い体。時折羽根を広げては威嚇している。しかし最も目を引くのはその鎌だ。本来なら腹から生える四本の脚は歩くためにあるのだが、このモンスターは違った。真ん中にある脚まで鎌になっている。歩くのは不便らしく四本の鎌を交互に松葉杖のように使いながらこちらへ向かってくるさまは、何とも形容し難い気持ち悪さだ。
その姿を見た瞬間クロイツの震えは止まらなくなった。それは虫嫌いの人間が本能的に逃げ出したがっている様子と酷似している。それでもここを突破しなければ魔王なんて倒せるはずないと自らを鼓舞した。大きく深呼吸をしたところで無機質なシステムメッセージが響く。
『始まりの森ボス、グーマーとの戦闘を開始します』
キギャー。
唸りとも叫びとも判別の付かない鳴き声だ。その一瞬の筋肉の硬直は命取りになった。大きく構えられた前の鎌が彼をめがけて振り下ろされる。クロイツの意識が引き戻された時にはもう手遅れだった。避けたり剣を合わせたりする暇はなかったため、それは寸分の狂いなく腕を滑る。鋭い痛みと共に血がじんわりと滲みでた。力が入らずだらんとした左腕。苦痛に顔を歪めながら傷口を抑えた。
咄嗟にHPゲージを確認する。いつしか癖になっていた習慣だ。傷の痛みとは裏腹に、あまり体力は削られていない。レベルアップの功績か、はたまたあまり強くないボスなのか。どちらにしてもそれは良い兆候であった。
再びグーマーが攻撃態勢を取る。同じ手を二度もくらうほど馬鹿ではない。拙い動きながらも素早く横へステップを踏みながら躱す。案の定先ほどまで体のあった場所へと正確に鎌が振り下ろされた。力が強すぎたのか鎌が三分の一程度埋まり、引き抜けなくなっているため、攻撃するには絶好のチャンスだ。
しかし被害の程度が分からないため随分距離を取っていたクロイツはこのチャンスを活かせなかった。すぐに近づき、相手攻撃圏内に入れたものの時既におそし。剣を振り上げた途端グーマーの鎌が抜けた。その振動でクロイツは尻餅をつき、剣が手から離れた。慌てて剣の元へと駆け出し低い姿勢のままそれを取り戻すと、振り向きながらもう一度切っ先を相手に向ける。
突然走り出したクロイツの姿に刺激されたのか、グーマーも例の不自然な走り方で追いかけてくる。充分に近づくと勢いを付けたまま鎌を振りかぶる。咄嗟の判断で横へと回避行動をとった。回避行動は個人の筋力や技術に関わらず、必須アビリティとして組み込まれている。
二、三メートル離れたところで立ち上がると素早く敵の姿を確認した。すると両方の鎌は半分程埋まり、体もべったりと地面に着けている。さらに頭を前後左右ランダムにふらふらさせていた。
『混乱』している。つまりこのタイミングも攻撃用に『用意』されている。しかし今度は無闇に近づくことはせずに心の中でカウントしていた。さっきはダメージが無かったものの、全ての場合がそうであるとは限らない。とにかく攻撃パターンの解析が必要であり、一発の攻撃でダメージがさほど期待できない今は、情報で勝ちにいくしかない。
――6、7。
その時グーマーは大きく体を震わせながら鎌を引き抜き、クロイツの方へと体を捻る。相も変わらず相手の体力に変化はない。だがクロイツの知識量は確実に増えていった。いつの間にか左腕の痛みも忘れて戦闘に夢中になっている。もう一度両手で剣を構えるとぐっと力を入れた。
相手が左の鎌を静かに擡げる。それでもクロイツは逃げることなく剣を構えていた。端から見れば恐怖の余り硬直してしまったようにも感じる。しかしその目はしっかりと相手の動きを捉えていた。
シュッという空気を切り裂く音共に鎌が振り下ろされた。同時にクロイツは素早く剣を鎌に合わせる。しっかりと鎌を受け止めた剣は甲高い音を響かせ、真っ赤な火花を散らした。その重さに一瞬沈み込むが直ぐに押し返す。錆びの酷い剣では頼りないが何とか持ち堪え、持ち主の意に沿う活躍を見せた。
巨大な地響きを起こしながらその体躯は倒れた。無防備な敵に近づくと一片の迷いもなく、一心不乱に剣を振るった。HPのゲージはみるみるうちに減っていく。三分の一ほど減った時だろか。腹ばかりを攻撃していたはずなのに突然頭が吹き飛んだ。流石に驚き攻撃の手を休めるとさっと距離を取り、事態の行方を見守る。やがてグーマーは頭がないまま立ち上がり、体を小刻みに震わせていた。慎重に剣を構えて次の攻撃に備えたもののそれから起こったことはとても簡単には理解できなかった。
頭のあったあたりから無数の腕が生えてきた。否、よく見れば血管だ。それは互いに絡まり、他の血管を押し退けるかのように先を急いでいる。最初は体系を成さず無造作に伸びているように見えたが、次第に大きく二つに分かれた。やがて眼球も形成し始めるが、それぞれの束に一つしかできない。最後に外殻ができあがっても、もう元の生物が何かは判別もつかない。辛うじて残る四本の鎌で推測できる程度だ。
変態の終わった『それ』には眼球は片方しかなく、そこからは中の血管が覗く双頭の化け物。その穴は全ての光を吞み込んでしまうかのように暗かった。それと同時に名前にも変化があり、『グーマー《改》』と表示される。全ての工程は直視するにはなかなか厳しいほどグロテスクだ。クロイツは吐き気から口を抑えた。それでも《改》は止まりもしなければ、手加減もしない。
直ぐにクロイツを攻撃範囲に入れると鎌で襲い掛かる。ショックから立ち直れない彼はもろに攻撃をくらってしまい、その体はまるで米粒のように軽々と吹き飛ばされた。心なしか相手のスピードが上がった。しかしクロイツにはそんなことに気付くだけの余裕はない。よろめきながら立ち上がるが、軽い脳震盪を起こしたようにくらくらする。
意識を取り戻した時には第二波がやってきていた。咄嗟に刃を合わせようとしても腕は言うことを聞かなかった。やっと腰の高さまで持ち上がったかと思うと、体は重力に逆らい宙を舞っている。全身の切り傷が少しずつ体力を奪っていく。痛みに意識を奪われようかというと、また別の痛みが意識を連れ戻す。
二度目の着地を経験するとようやく鎌の雨が止んだ。静かにHPゲージを確認するとクロイツの顔から血の気が引いていくのが見て取れた。さっきまでは緑で安全を示していたHPも、ものの十数秒で警告の赤へと変貌した。直ぐにバッグへ手を伸ばすと傷薬を取ると全身にかけた。HPの回復と共に痛みもひいていくのが分かった。
腹の底に響く振動を感じると飛び起きて、《改》の姿を見つけた。そして変態前にやったように剣を構えて待った。タイミングは申し分なかった。鎌は予想通りの軌道で剣へと吸いつけられる。しかし鎌が当たった瞬間相手は四本の鎌を交互に、高速で剣に当ててきた。その衝撃に耐えられるはずもなくクロイツの体はまたも宙を舞う。そして《改》は鎌を地面に固定しながら、スリングショットの要領で落ちてきたクロイツに頭突きをくらわす。木が地面に突き刺さった鎌、ゴムが頭、弾がクロイツと言ったところか。
灰色の世界を覆っている壁に当たると、鈍い音がして地面に落ちた。ぼやけた視界の中で敵が鎌を抜こうと悪戦苦闘している姿が見える。HPは残り半分。たった一回で半分も削るとは恐ろしい攻撃だ。直ぐに傷薬で処置をすると作戦をたて始めた。もう傷薬の残りも多くはない。早く決着を付けられるかどうかが勝負になってきた。しかし真正面からでは到底あのスピードには勝てない。視界の端で相手の鎌が抜けるのを確認したところで思考が途切れた。明確な作戦をたてる暇もないまま戦闘が再開する。漠然と逃げることを頭に入れて走り出した。
死の鬼ごっこが幕を開けた――
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tips
グーマー:カマキリの姿をした『始まりの森』ボス。過酷な森を生き抜き巨大化したため生命力に溢れる。
ありがとうございました。