亡霊と泥棒猫
「ちょっとー! ブレイカーが自殺しようとしてるよ! どうすんのよ!」
甲高い声が都内のマンションの一室に響き渡った。南向きの大きな窓からは朝日を浴びて輝くビル群が見渡せる。眼下ではスーツを着た会社員たちが憂鬱な顔で改札口に飲み込まれていく。
そんな天と地が見える部屋の中は異様な雰囲気が漂っていた。部屋に二つあるテーブルのうち一つが十数個のモニターで埋まっている。本体は別の部屋にあるのだろう。大量のコードが別の部屋へと伸びていた。
その前に一人の女が陣取っていた。艶のある黒髪は肩までのショートで、肌は少しやけている。まくり上げた袖から覗く腕はすらっとしているが、確かに筋肉がついているのがわかる。
「ああ、そりゃーたいへんだー」
女の金切り声とは対照的に間延びした声が響いた。違っているのは声だけでなかった。あまり運動をしないらしく肌は青白い。メタルフレームの眼鏡がより知的な雰囲気を強めている。モニターの前で慌てる女とは正反対だ。
男はソファにゆったりと腰掛けてチェスの戦略本を開いている。目の前のテーブルには敵陣が黒、自陣が白だ。黒の駒はそれぞれのマスの中央にきちっと並んでいる。しかし白の駒はキングと二体のポーンだけだ。いわゆるキングポーンとビショップポーンである。
「ねえ! 本当に私の言葉の意味理解してる? こんなに強い《反運命力》の持ち主、二度と現れないかもしれないって言ってたじゃん! それとも私たちの目的忘れたわけじゃないでしょうね?」
女は早口にまくしたてた。それでも男には一向に焦る気配はない。やがて大げさにため息をつくと煩わしそうに短く言った。
「C16」
「はあ? C16が何よ……」
女は不服そうにもう一度モニターに目を移す。先ほどまでの漠然とした感じではなく、ある一か所を重点的に見ている。そこにはセカンドアースのクロイツ付近の映像が映し出されていた。どうやらアルファベットと数字は座標を表しているらしい。
そこにはただ木が写っているだけで、人の姿もなければモンスターの姿さえ見当たらない。
「何にもうつ――」
その時青銅の剣を持った人影が動き出した。
「プ、プレイヤー!? でもIDは? 彼のはちゃんと出てるのに!」
確かに別のモニターに映し出されているクロイツの頭には、矢印と6桁程度の数字が表示されている。驚きで立ち上がる女。勢い余って椅子が倒れると、その姿に男は声をあげて笑った。
「リナ、僕ら運営が手出ししなくてもいいなら《亡霊》だって使う。まあゆっくり見物しようじゃないの」
そう言うと白のビショップを手に取り、暫く弄んでから盤上へ並べると満足そうに笑みを浮かべた。どうやらこの男は全てを理解しているらしい。リナはまだ茫然とした様子で画面を見つめていた。
*
そこでは時間が止まっているかの如く、クロイツもウルフも動かない。唯一、時の流れを感じさせてくれるのは雨だった。このプレイヤーの未来を暗示するかのように突然現れた雲から大粒の雨が地面を、生物を濡らしていく。
プレイヤーの動きに合わせて行動するようにプログラムされているのだろうか。クロイツが一歩も動かなければ、敵も動かない。彼の思いに反して中々終わりはやって来ず、時間が経つごとに恐怖心は増していく。
しかしもう逃げることはできない。戦闘の終わり方は三種類。勝つ、負ける、そして敵の逃走。自分の意思で逃げ出せないことは何度も経験済みだ。
長いこと膠着状態が続いたが、先に集中力を切らしたのはクロイツだった。半歩遅れてウルフも動きだす。半ばやけになっていたが痛みを抑えるために自然と腕が体の前で交わる。
ウルフはその勢いを活かし鋭い爪で腕を引き裂いた。傷口から血飛沫が高く舞い上がる。灰色が支配する空間で赤は映えた。腕が二つになることはないが、それでも鋭い痛みは脳天を貫く。
相手の勢いと痛みとで体が横に回転した。そのとき打ち付けた頭とえぐられた腕が同時に痛む。無意識のうちに叫び声を上げていた。今まで戦闘中に負うかすり傷程度で、ここまでの痛みはなかった。少しの誤算が余計な不安感をあおる。
しかし敵にブレーキはない。プログラムされた殺意だけを持ち合わせて再びクロイツに襲いかかる。今度は口を大きく開け、鋭い牙がむき出しになっている。恐怖心に支配されたクロイツは甲高い声で叫んだ。
「やめろー! 止まってくれ!」
その程度で止まるはずがない。分かっていても体は動いた。痛みの少ない左腕を反射的に前へ突き出すと、ウルフはそこに噛みつき放そうとしなかった。長時間の噛み方が先ほどとは違った痛みをもたらす。ようやく引きはがせたものの、HPは0にならない。あと一回……いやあと二回この痛みに耐えなければならない。
まだ爪の痛みも牙の痛みも消えない。回復薬を使えば痛みと傷はひく。しかしその分耐えなければいけない痛みも増えてしまう。一度死ぬことを決めたら薬もただの毒でしかない。逃げ出したい衝動と痛みを必死に押し殺しながら立ちあがった。
続いて狼は腹の辺りに狙いを定める。ふらふらになりながら立っている彼にそんなことまで気付く余裕はない。ただ終わればいい。それだけで十分なのだ。
三度目の加速。これから襲い来る痛みを思うと自然と息が荒くなる。ウルフは狙いを外すことなく腹へ噛みついた。鋭い歯が内蔵を貫くような感覚に陥る。彼はただ痛みに悶えるだけだ。残るHPはわずかに1。次さえ乗り越えれば――しかし体は痛みに従順だった。震える手でバックの中から傷薬を取り出すと全身に振りまくと痛みはひいていく。
恐怖と後悔で膝から力が抜け、前のめりに倒れこむ。なんとか両手で体を支えると自嘲的に笑った。
「電脳世界で死ぬのも怖がるのか……情けねえ」
そうつぶやくと目を閉じ、最後の一撃を待った。そのとき明らかに敵ではない異質な雰囲気を感じた。この戦闘にプレイヤーはおろかこの世界の住人であるモンスターさえ乱入は不可能なはずだ。
――おかしい……ついに発狂しちまったか?
そんな彼の空想を否定するようにその《物体》は声をかけた。
「必要なのはこれかな?」
そう声が聞こえた後、何か重いものがクロイツの前へ落ちた。ゆっくり目を開けるとそこにあったものは、捨てたはずの青銅の剣であった。どうやって? 二度と彼の元へ帰ってこないはずだった……その時、狼の遠吠えが脳内に響いた。現実に引き戻された彼を本能が突き動かす。
――死にたくない!
咄嗟に剣に手を伸ばし構えると、雄叫びをあげながら敵へと突っ込む。先ほどとは違う勇者の殺気を敏感に感じ取ると、それに応えるかの如く走りだす。
空間の真ん中で二つの影が交わった。どちらが生き残ってもおかしくない状況下で、お互いに全ての力をこの一手に懸ける。クロイツは敵の首に正確な狙いを付けた筈だった。
しかしこのままでは急所をわずかに逸れ致命傷には至らない。その時不思議なことが起こった。まるで剣に意志があるかのように重力に逆らう方へと腕が引っ張られる。そして狼の体は二つに分かれた。
頭と体が地面に着くか否か、それらは小さなポリゴンとなり消滅した。と同時に隔離されていた空間と世界が交わる。一気に緊張感の抜けた足は体重を支える役目も果たせず、ただただ座り込む。先ほどの雨が嘘だったかのように晴れ渡り静かな温かさがクロイツを包み込んでいた。
一体何が起こったのかクロイツには分からなかった。彼はあそこで朽ち果てる予定だった。だからこそ、この剣を捨てたのだ。気が変わってもその道が一本であるようにするため。
しかし今彼はこうして剣を握り、生きている。頭の中を整理しようにもうまくいかない。その時近くで拍手が鳴り響いた。
「華麗だったじゃないか。やはり見込んだ通りだ」
反射的に声のした方へと剣を構えた。そこに立っていたのは奇妙な一人の男だ。まず目に付くのは服装。クロイツも他の勇者もゲーム内の特別な服を着ている。それなのにこの男はパーカーに、ジーパンと言うラフな服装だ。その上、頭の上に身分を示す表示もなければ、武器もバッグも見当たらない。嫌な予感がしたクロイツは隙をみて剣を振りかざす。
スッ――。
一瞬何が起こったのか分からなかった。確実にヒットした。しかしまるで影を切ったかのように手ごたえがなかった。ここにいるのにここにいない。先の戦闘といい、実態のない男といい不思議なことが多すぎて彼の脳では既に処理しきれない領域に達していた。
「お前……何者だ?」
剣を構えたまま敵意を隠さず問いかける。男は少しも気にした様子もなく涼し気に応える。
「俺はモトナフ、この世界で『亡霊』やってる物好きさ」
「亡霊だと? ……それで俺に何の用だ?」
「簡単なことさ、俺をお前の仲間に加えてくれ。ああ、別に特別どうこうって訳じゃない。後ろからあんたの跡つけていくだけさ」
「なんじゃそら。気でも触れたか?」
*
二人の姿を遠くから観察する一つの影があった。十分に警戒し距離を取っている為、所々の会話が聞き取れる程度だ。しかし一部始終を目撃していた彼女にはこの男が普通でないことは、既にわかっている。
女は不気味な笑みを浮かべると舌なめずりをした。その舌は異常な長さだった。
*
「いや、本当だったら俺も自分でクリアしたいんだけど全然チャンスがなくてな。で、誰かについていけばクリアした感じでるだろ。だからイベントがある度にこうして現れてるのさ」
「そんなこと言って騙そうとしてんじゃないのか?」
「騙して何が楽しいんだ。それに殺す気ならわざわざ助けないだろ。傷痛まないか?」
その指摘で思い出したかのように痛みの感覚が戻り、ふらりと倒れる。
「すまん、支えることもできなくてな」
モトナフは近くにあった巨石に腰かけた。クロイツは回復薬で手当する。
「とにかく、そんな怪しい奴の助けなんて必要ない。じゃあな」
そういうとクロイツは歩きだした。
「ええっと、一つ訊いていいか? どこへ向かうんだい?」
「出口だよ」
「ああ、そうか。ならこっちだな」
モトナフはクロイツの向かった方向と逆を指さす。
「はあ? 俺はこっちから歩いて来たんだ、それに円形状の森なんだからまっすぐ歩けばいずれ出れる」
クロイツはモトナフを無視し進み始めた。五分程歩くと、見覚えのある景色が広がる。モトナフは石の上で座禅を組んでいた。
「お帰り、出口は見つかったかい?」
「おかしい、迷ったみたいだ」
「いや、何もおかしくねえよ。ダンジョンにはボスが付き物だろ?」
モトナフは立ち上がり自分が指さした方向へと歩いて行く。クロイツは仕方なく彼の跡を追っていった。時々木の傷や折れた草を確認しながら方向を変えていく。
「本当は森中探し回ってヒント見つけながら探すんだけどな、知ってりゃ簡単なのさ」
「何度も来てるのか?」
「いや、ここから始めるプレイヤーは滅多にいない。けど攻略サイトにはなんでも載ってるからな。大抵はアリスタ遺跡とかテラスワールドとかだな。たまたま入ってくの見て、こいつ大丈夫かなあとか思いつつ付いていったら面白いことしてるからよ。あ、因みに夜は寝ていいぞ。寝てる間に倒されるようなシステムじゃねえ。そんなの運営も望んでねえみたいだしな」
「……なんか運営の望みがあるみたいな言い方だな」
「うーん、まあ噂程度ではっきりしたところは分からねえ。だけど、ログアウト中の仕様だけアップデートが多くてな。それにどうやら運営はお前らのプレイを監視しているらしい。プレイヤーを使った人体実験説や人探し説なんてものもある……そうは言っても結局プレイヤーはゲームをクリアするしか方法はないけどな」
「そうだったのか……つうか、なんでもっと早く教えてくれなかったんだ」
「だってあの時声かけてたらもっと受け入れられなかっただろ。本当に発狂しちまったらさすがに手に負えないからな。過ぎたことをどうこう言っても仕方ないだろ。ところでこのゲームについてどれだけ知ってる?」
「いや、ほとんど何も。そもそもこんなことになるなんて思ってもいなかったし」
「だろうな。まあその辺も俺がカバーしてやるからよ」
三十分も歩いていると急にモトナフの足が止まり、手でクロイツの動きを制した。動きを止めた瞬間額や脇から汗が吹き出し、肌にまとわりつく服が気持ち悪い。
「あそこが不自然に開けて日が降り注いでいるのが分かるか?」
モトナフが手で示した場所は盆地のように少し地面が低くなっていた。周りは鬱蒼とした森林が広がっているため視界に入る光の矢は一本か二本だ。それに比べてそこは木のない野原で、太陽が燦燦と降りそそぐ。質問に対し無言で一つ頷くとモトナフは説明を続けた。
「あそこにボスが出現する。名前――」
「よし分かった。すぐ倒してくるからよ」
そう言うと彼の説明が終わらない内に野原へと駆け出す。しまったと思った時には既に手遅れ。腕を掴み損ねたモトナフの掌は空をつかむ。
盆地の真ん中までクロイツは駆けた。しかし先ほどから別段変わったところはない。ボスと思われるようなモンスターもいないし、景色や音、全てが同じだ。情報が間違っていたのか?
その時足の先から僅かだが振動を感じ取ったクロイツ。やがて世界は当然の如く色を失う。BGMも今までに聞いたことのない低くて重厚感のあるものへと変わっていた。激しく打ち付ける心臓を意識しながら、静かに剣を抜いた。
*
tips
トーボー:こびとに似たモンスター。体の小ささ故にすばしこく、攻撃が当たりづらい。しかし一撃でも当たれば大ダメージが期待できる。
ナイフィー:背中の羽を常に動かし空中に浮遊している。高いHP、防御力、魔法力を持つ。単体ではさほど苦労はしないが、他の種類のモンスターと一緒のときは注意。
ウォンウルフ:鋭い爪と牙が特徴。基本は単体で行動する。個体差は激しいがそれなりの知性を持ち、作戦を立てて行動することが可能。
ありがとうございました。