不可視の襲撃者
男は一人で暗闇の中を歩いていた。地面との境界線も見えず平衡感覚を失い、よろめきながら必死に前へと進んでいく。
『おい、あいつじゃねえか?』
突然声がかけられ立ち止まる。声のした方向を振り返ってもそこに人の姿はない。
『ええ、その人よ。私は出発式で見たもの』
『雑魚の分際で出しゃばりやがって』
四方から言葉のナイフが容赦なく投げられる。しかしどこを見回してもその人物を捉えることはできない。次第にざわめきは大きくなっていく。
『あなたがやったの?』
弱い力で袖が引っ張られる。見るとまだ中学生くらいだろうか。下を向いたままか細い声で問いかける。
『ねえ、どうして? 返してよ、俺の日常』
顔を上げるとその双眸は深い闇に染まっていた。
『お前がやった、お前がやった! お前さえ居なければ! お前が死んでいれば!』
見えない声が重なり頭がわれんばかりに痛む。たまらずしゃがみ込み耳を塞ぐ。それでも収まることのない毒は徐々に心を蝕んでいく。
――そうか、俺が悪いんだ。俺が変な気さえ起こさなければ、俺が居なければ。もう一層のこと――
「本当にそうかい?」
はっと目を開くと机に突っ伏していた。作業途中のファイルが開きっぱなしになっている。額から汗が流れ落ち、濡れた衣服は体から体温を奪っていく。
手元のスマートフォンが着信を告げる。表示は『モトナフ』となっていた。出るか迷っているうちに着信は切れた。間をおかず再びなり始める。深呼吸をし自分を落ち着かせると、動揺を悟られないよう電話に出た。
「なんだ?」
「もう分かってんだろ、イベントは? 諦めたのか?」
「いや、ただ仕事が忙しいだけだ」
「そうか、じゃあ次の予定はいつだ?」
一瞬、言葉に詰まる。
「そんなの仕事の進み具合で変わってくるだろ」
「嘘だな。あれだけ状況分析のできるお前がいつ終わるか分からないだと? 一週間程度だとでも言われた方がまだ信じられた」
返す言葉もなく沈黙が降りる。
「あの事件、気にしてんのか?」
「そうだよ……俺がゲームをしてなければ、あの時選択していなければ、もっと強かったら。全部俺が悪かったんだ……」
「いや、悪口書いてる奴らが悪いだろ」
おびえるクロイツを一蹴するように高らかに笑う。
「なんでいじめはだめなのに、炎上はよくなるんだろうな。この世界は狂ってんだよ。お前がゲームをしちゃいけない理由なんてないし、選択を他人に強制されることもない。それにお前弱いかあ? ダンジョン二つ突破して、一人打ち負かしたお前が? 少しはイベントについて調べた方がいいぞ。もう半分のプレイヤーを上回ったところにお前はいる」
モトナフは言葉を切ったが、クロイツは何も応えなかった。
「まあここまで言っても最後に決めるのはお前だ。これはお前のゲームだからな。だが俺の問題もある。今日の八時までに来なかったら俺は降りる。そのまま引きこもってもいいし、俺抜きでやってもいい。それだけだ、じゃあな」
通話の終了を告げる電子音とともに、部屋には再び静寂が戻る。クロイツはまだ揺れる心を抱えたままベッドに身を預けた。
*
月明りが照らす湿地。毒々しい紫の池が点在し、カエルのような鳴き声が響き渡る。青白く光るキノコは周囲に胞子をまき散らしている。一週間前、クロイツがログアウトした場所だ。岩陰に隠れ木にもたれかかる体勢のクロイツのアバターは、眠ったように穏やかだ。モトナフはひとり静かに覚醒を待つ。
八時二分前。クロイツはゆっくりと目を開けた。
「おう、じゃあ行くか。まだ先はなげえからな」
モトナフは何もいわず先導する。クロイツたちは静かに次の目的地を目指し歩みを進めた。湿地では赤い目のネズミやすばしこいサソリとの戦闘が繰り広げられる。攻撃自体は弱いものの毒により徐々に体力が奪われていく。三十分も歩くと洞窟の入口へ到着した。山肌にぽっかりと開いた穴で深い闇が奥まで続いている。
所々にかがり火が焚かれているものの、光源としては十分ではなく手元の松明が頼りだ。気温は外より下がったが、じとっとまとわりつく空気が不快感を助長する。壁に掘られたような穴からはこちらへ向けられる視線とわずかな息遣いが聞こえてくる。洞窟内は入り組んだ迷路のようになっており、各フロア毎に下へ続く階段で最下層を目指していく。
「おかしい」
地下二階に着いたとき唐突にモトナフが違和感を口にする。
「敵の気配はするのに圧倒的に接敵が少ない。どいつもこいつも見てるだけで全く仕掛けてこない。気持ち悪すぎる」
「そう言われればそうだな。他と比べて張り合いがないというか。先制攻撃できる場面も多いし」
「まるで『何か』に怯えてるみたいだ」
モトナフの案内もあり順調に最下層へと近づく二人。そのうちキイキイという鳴くような音と、ダムダムという打ち付けるような振動が足元を伝う。それは階層を下がる度に次第に大きくなっていく。
「そういえばここのボスってどんな奴なんだ?」
明らかな異変から目をそむけるようにクロイツが口を開く。
「ああ、デピサーだったな。大した敵じゃねえよ。でっけえ光るキノコみてえなもんだ。主な攻撃は物理攻撃のスタンプ。飛び上がってお前を下敷きにしようとする。直撃しなくても軽い拘束があるから気を抜くなよ。あと厄介なのは胞子だな当たればダメージあるし、壁とかに付けば時限爆弾になる。安全に倒すなら遠距離攻撃と大技前の予備行動がかなめだな。まあ新しい攻略法見つけてもらってもいいぞ。なんせ二年ぶりに攻略サイトが更新されて界隈はお祭り騒ぎだからな」
「はあ? ひとが憔悴してるときに」
「なんでもひとりで抱え込んでるからだろ」
そうこうしている内に最下層へと降り立つ。聞こえていた音はいつの間にか止み、大きな扉がそびえ立つ。クロイツが押すと悲鳴のような軋みをあげて二人の通過を許す。
そこは今までとは異なり青白い光に包まれており部屋の全貌は簡単に把握できた。壁からは水が湧き出て、所々に水溜りを作っている。天井からは鍾乳石がぶら下がり、幾本もの石柱が障害物のように配置されている。
そしてその最奥。その場に似つかわしくない『何か』が居た。少し高い部分にある窪みに腰かけ頬杖をつきながら地面を見つめている。視線の先には山のように重なった黒いキノコとゆっくり発色を失いつつある二つの巨大キノコ。頭には大きな赤い三角コーンのような帽子を乗せている。人の形をしているがその目に生気は感じられない。
「待て、なんでこんなところに」
モトナフは焦りと驚きを含んだ声で呟く。それはこちらに気づいた。一瞬大きく目を見開いたが、すべてを察したようにニヤリと笑う。
「全く、事前に教えて頂ければもっと準備しておいたものを……こんばんは、ブレイカー」
*
tips
ベートル:長い胴体を持ち四足歩行する。バランスを取るために発達したしっぽが武器。
スポウルン:全身を短い毛で覆われ、八本の足を器用に使いこなす。粘着性の網と強力な毒で狩りをする。
どんな人相手でも炎上は嫌いです。
ありがとうございました。