序章 「俺の常識が変わった日」
序章 「俺の常識が変わった日」
「……結局、今日もこんな時間になってしまったわけだが」
駅の改札口を出て、自転車置き場へ歩く俺の足取りは今日も重い。
のろのろと歩いているが、俺を追い抜いていく人は誰もいない。
それもそのはず。今日はまだ水曜日だ。まだまだ仕事が続く週の半ばに深酒する人はそんなに多くない。
それに、最近はフレックスタイム制で朝早くに出勤しようとか、残業時間の制限とか労働の仕方にも健康さが求められる時代だ。
そんなご時世に、決まって終電で帰り続けている自分は何なのだろう。
特に意識もしていないのに独り言が口をつくのも、誰もそれを聞く人間がいないとわかっているからだ。
「深夜のコンビニ弁当を続けていれば、腹もこうなって当然か」
大学時代には空手道部で鍛えてそれなりに引き締まっていた体も、今となっては見る影もない。筋力自体はそれほど落ちていないが、その上にたっぷりとついてしまったぜい肉が悲しみを倍加させる。
そう思ったところで、今から健康的な料理を自炊するような元気は残っていない。
結局、いつものコンビニで弁当を買う。朝から働いて夕方には会社を出る知人・友人よりも、深夜帯のコンビニバイトの人達に親近感がわきさえする今日この頃だ。
塾講師。働きながら執筆活動するには、両立しやすい仕事だと思ってたんだけどな。
弁当を温めてもらう間にぼんやりと考える。
そう、俺は高校生の頃から、ずっとライトノベル作家を目指してきた。
いくつもの賞に応募したが、結果は出ず……第二の選択肢として、大手出版社の編集者を目指した。
書類審査を突破した志望者数だけでも千人を超えるような超難関、それを残り十人までたどり着いた時は運命的なものを感じたが……それも気のせいだった。
結局、興味のない業界で働いて一生を終える気にもなれず、執筆活動を続けることにした。
とはいえ、バイトで生計を立てながら執筆活動をする度胸はなかった。
大学四年間やってみてダメだったのだ。社会人になったら急に賞が取れる保証なんてどこにもない。
というか、おそらく無理だろう。要するに未練がましく夢にしがみついてみたかっただけなのだ。
悩んだ末に俺は、持っていた唯一の仕事につかえそうな資格、教員免許を活用して中学受験対策の学習塾に就職できた。
素直に教員にならなかったのは、部活の顧問などになろうものなら、拘束時間がとんでもないことになり、執筆時間がとれないと思ったからだ。
おまけに塾の営業時間は学校が終わってから。採用の際に提示された勤務条件は、十四時~二十二時。大学生の時と同じような生活サイクルを送れることは魅力的だった。
あの時は、そう思ってたんだよなぁ。
温め終わったコンビニ弁当を受け取りながら、ふと現実へと意識を戻す。
そう、働き出す前は思っていたのだ。
これで、まだ夢を追いかけられる、と。
「働きだしてみれば、次の日のイベント準備にクレーム対応。終電で帰れれば御の字ときたもんだ」
社会に出てなかった俺は、何もわかっていなかったのだ。
企業の中には、ブラックなものもあること。
会社で働き、さらにその後や出社前に執筆活動までするのは、決して簡単なことではないこと。
そんな環境でも夢を失わずにあり続けることは、それだけで大変なことなのだということ。
そうして気づいてみれば、会社と家との間を往復するのが精いっぱいになってしまっている。
「ただいま、っと……」
誰も待っていない部屋の扉を開けるのも慣れたものだ。
ただし、この日は見慣れないものが郵便受けに入っていた。
「っ! 届いたのか!」
折れそうになる心を必死に奮い立たせて、ようやく書き上げた新作。その第一次審査の結果が届くのが今日だったのだ。
正直言って、一次審査すら突破は難しい。
世の中うまくいかないことは、学生の時以上にわかっている。
それでも、久々に書き上げた作品だ。焦る気持ちを落ち着かせることすら忘れて、封筒を開ける。
「……どうだっ!?」
封筒の中から勢いよく紙を引き抜く。
そこに書かれていたのは――
≪選ばれたんで、よろしくね♪≫
「はい?」
一行目からありえない文面があった。
選ばれた、はわかる。しかし、言葉遣いがありえないことになっている。とりあえず、続きを読んでいくと、
≪とりあえず、選んでいただけますか?≫
「いや、一体何をだ?」
ますますわからない。しかも、言葉遣いが明らかに違う。
≪じゃ、どっちか選んでね。天使にしとく?≫
≪それとも悪魔にいたしますか?≫
気づいてみれば、怪しげな紙から目が離せなくなっていた。
(どう考えても普通じゃない。体が動かない……)
とりあえずその紙をしまおうと思うのだが、指一本動かない。
≪早く選んでね♪≫
≪選んでくださいませ≫
ハイテンションな文面と、落ち着いた文面が白紙だった部分ににじみでてくる。
精神的疲労がピークに達して幻覚でも見始めたのだろうか。
とにかく体が動かないので、直感で決めた答えを頭の中で思い浮かべる。
その途端、部屋は光で包まれた。