3.悪寒
真っ黒なカーテンで覆いつくされた冬の空に浮かぶ月が、いつの間にか湧いてきた雲を黄色く映し出していた。
東京に比べれば地上の灯りの量は圧倒的に少ないだろうに、ターゲットであった小林家の屋根越しに見える夜空には、まばらにしか星が見えなかった。といっても、オリオンぐらいしかわからない俺では星空など眺めていても何も発見できないし、今はそんな場合じゃない。
「店長……中に居るのか?」
「え~!?」
「シッ! 静かにしろ!」
ハルカが素っ頓狂な声を出したので、小さく叱責した。
「むぅ……なんでよう」
「店長は、ターゲットの家に上がり込んだりすることは絶対にない。だけど、着信音は家の中から聞こえたみたいだっただろ?」
ハルカを叱責したのは、着信音が聞こえる程度の距離にいるかもしれない誰か――正規の連絡手段を行使できない状況の安藤や日高さん、あるいはその状況を創り出した人物に聞かれないためだ。
さんざ車の周辺で話をしていたのだから、自分でも何を今更と思ったとき、右手の携帯が振動した。
「…………だれ?」
声を潜めて問うハルカに、黙って画面を見せた。それを見たハルカはハッと息を吸って目を丸くし、自ら口を両手で覆った。
液晶画面に表示されていたのは「日高さん」の四文字と電話番号だった。着信は十回で切れた。
日高さんからの着信が切れてから一瞬の間を空けて、すぐに携帯が振動した。俺たちは無言で「店長」と表示された画面を凝視していた。
着信は八回で切れた。
安藤と日高さんは、何より事件の発覚と自身の逮捕を恐れていた。最初の頃に連絡関係の決まりを無視したり忘れたりすると、顔を真っ赤にして怒っていたものだ。
安藤はバイト先で何をやらかしても――控室でハルカとセックスしていても――眉ひとつ動かさなかった男だ。
その安藤が、二度もルールをたがえるとは考えられない。
かかってくるごとに、コールの継続回数が減っていることも、俺の心をざわつかせた。いくらかけ直しても出ない相手に苛立っているかのようだった。
「マコトさん……」
俺の緊張が伝わったのか、ハルカが後部座席から立ち上がって腕を取り、不安そうに声をかけてきた。さすがに「マコピー」などと呼ばわってじゃれている場合ではないことくらい察したようだった。
「ちょっと、考えるから待っててくれ」
左手でハルカの手を取って、ブロック塀と通りを油断なく見張りながら、自分のこめかみを右手の親指と人差し指で揉んだ。こうすると、考えがまとまるような気がして昔からやっている。人呼んで「ロダン朽縄」だ。
ひとまず、塀の向こうに安藤の携帯があるという前提で考えを進めることにしよう。
日本人なら誰でも暴れん坊将軍のイントロを愛してやまないとは思うし、偶然にも小林さんと安藤が同じ着信音を選択した可能性は否定できないが、それに加えて俺が安藤に電話をかけたのと同時に、彼女の携帯が鳴るという確率はどのくらいだろうか。
正確なことは分からないが、きっとかなり低い確率に違いない。
安藤の携帯は塀の向こうにあり、その着信に気づいた本人以外の何者かが履歴を辿って俺の携帯に電話をしてきたのだ。
次に考えなければならないのは、当然安藤の――恐らくは日高さんのものも――携帯を所持している者は何者かということだ。
まず、警察ではないだろう。仮に詐欺容疑で安藤が拘束されたとするなら、今は留置所だろう。小林家の電気も付けず、仲間すなわち俺たちからの着信をじっと待っているなんてあり得ない。
だいたい官憲の犬どもが来たなら、五時間以上放置されている軽自動車をそのままにしておかないだろう。俺たちがドアを開けたりトランクを開けて調べ始めた時点で、取り押さえられるに決まっている。
同じような理由で、無法の輩に捉まったということも考えにくい。自分たちのアジトか事務所か知らないが、どこへなりと連れ去っていると考える方が自然だ。なぜ被害者でしかない小林家に居座る必要がある。
かなり無理やり関連付ければ、実は小林家の主人なりキヨ本人が、その筋の大幹部だった――という可能性も否定はできないが。
「いくらなんでも、それはないだろ」
「んー?」
「いや、悪い。独り言」
「ぶーっ。ハルカ、つまんない!」
俺が考える人になっている間、退屈そうにしていたハルカが顔を上げたが、すぐに頬を膨らませてそっぽを向いた。
俺は苦笑して彼女の頭を撫でてやり、再びこめかみに手をやった。
さて、塀の向こうで安藤の携帯を所持しているのは何者か。屋内にいるのか屋外にいるのか。はたまた塀にピッタリと寄り添ってこちらの様子を伺っているのか。
日高さんが乗ってきた軽自動車の存在を相手が知っていれば、共犯者が現れる可能性を考えて車を見張っていようと考えたかもしれない。縁側にでも座って、安藤の携帯を片手にじっと誰かがくるのを待っていた。
だが冬至を間近に控えた夜だ。気温は昼間でも零度近くまで下がっており、朝見たニュースでは、夜間は氷点下まで下がる恐れがあると報道していた。そんな環境で、ひたすら車を見張っている輩などいるだろうか。
まあ、人間は何時間もワカサギ釣りを楽しめるような忍耐強さを持っている生き物だ。見張られていたとしても不思議ではない。ここで、相手が複数人か単独なのかについても考察できる。先の警察かヤー公かの考察でも触れたが、誰かが車を見張っているなら、俺たちが車を調べ始めたか、安藤の携帯を鳴らすのを確認した時点で何らかのアクションを起こせるはずだ。
それをしてこないということは、相手が単独行動をしている可能性が高いと推測する材料になるのではないか。安藤と日高さんを拘束している奴が複数なら、虜囚の見張りと俺たちを攻撃する者とに分かれて行動することが可能なはずだ。
「…………」
俺は再び塀を見上げた。
その向こう側がどういう構造になっているのかは今のところわからない。しかし、暴れん坊将軍はそこまではっきりと聞こえたわけではなく、もう少し離れた位置――屋内から聞こえたように思えた。
塀の向こうに誰かがいて、そのポケットから聞こえたというほど大きな音ではなかった。観察する限り、ブロック塀と家屋は大きく離れておらず、背伸びしてみればガラス戸の上端がわずかに見えた。暗くてよくわからないが、カーテンのようなものはなく、窓自体少し開いているようにも見える。
飛び上がるか、塀をよじ登れば、あるいは車のボンネットか屋根にでも上れば中が見渡せるだろう。
だが塀の上から顔を出した途端、家屋内もしくは塀と家屋の間の敷地に立つ何者かと目が合った――なんて状況は避けたいところだ。
「ねー、誰も居ないみたいだよ」
「んなっ!?」
いつの間に離れたのか、ハルカが軽自動車のボンネットに上がり、塀の向こうを除いていた。
「真っ暗だしぃ、窓ちょっと空いてるし……あれ?」
「おいっ! いいから降りろって! 中に誰がいるかもわからないのに!」
「え~? でも、今なんか、あっ! ちょっと何々!?」
「いいから! つーか危ないから! もうあれだ、パンツ見えてるから!」
「んも~」
牛のような声を出しながら、渋々とハルカが降りてきた。それを支えてやりながら、俺は大きく嘆息した。
「ったく。何のために俺があれこれ考えてるっつーのに」
「だってぇ。退屈だったんだもん……つか、聞いて!」ハルカは口を尖らせたが、すぐさま声を弾ませた。
「すごいもん見たよ! なんかね、白い手が、ズズズ~って!」
「はあ?」
「窓の向こうは畳だったわけ。で、そこにこう、白~い手があって! それをハルカが見つけたとたん、奥の暗がりへ……」
「……見間違いだろ」
いつの間にか起動したスマフォのライトを顎の下から当てて、百物語を始めようとするハルカであったが、俺はそれをばっさりと否定した。
「むーっ! 絶対見たもん! あれは、日高さんの手だった!」
「テレビの見すぎなんだよ……。お前の言い様じゃ、引きずられていったみたいじゃないか」
「そうだよ? そう見えたもん」
「あのなあ――」夜八時からの二時間ドラマの様な展開に持っていきたがる女子高生を窘めようとすると、思ったよりも大きい怒声が帰ってきた。
「もー怒った! マコピーなんて、さっきからブツブツ言ってるだけで何にも進んでないじゃん!? ハルカが行って見てきたげる!」
「なっ!? おいハルカ! 待てよ!」
言葉による制止などまったく意に介していない様子で、ハルカは小林家の正面へ向かって走っていった。
「マジかよ――――っっ!!」
俺は慌ててその背中を追おうと足に力を込めた瞬間、背筋を襲った悪寒に身震いした。
その感触は、久しく忘れていた、恐ろしくも懐かしいものだった。




