おばあさん
「...よいしょ。...よいしょ。」
毎日の日課。
朝夕同じ時刻のバスに乗り、おじいさんに会いに病院へ行く。
歩くことは好きだけど、こう寒くなると膝と腰に堪える。
今朝起きた時には、すでに雨は降り始めていた。
外に出てみると、それは随分つぶの細かい雨だった。
室内からは霧がかかっているだけのようにも見えたが、
着ている雨合羽の袖を見てみると、
細かな雨つぶが重なり合った雫は、袖のあちらこちらで流れ落ちていた。
うちのおじいさんは、腰の骨を折って先月から入院している。
もう80過ぎだというのに、周りの制止を無視し、自慢のカブを乗り回していた。
そして案の定、転んでしまったのだ。
転んだ現場は、でこぼこの田んぼ道。
その日、おじいさんの運転を見かけた近所の人からの話によると
かなりのスピードを出していたらしい。
その時、対向車も後続車もなかったことは不幸中の幸いだった。
車体から引き離された身体の着地先が
やわらかい土だったことも幸運だったと思う。
(どっこいしょっと)
ちょっと遅れ気味にやって来たバスのいつもの席。
雨合羽を脱いで、やっとこ腰をかけた。
(ふぅー...。相変わらず、今日も誰も乗ってないわね)
外の景色に目をやると、何かが目にとまった。
(おや?)
ここ最近、ぐっと目も悪くなった。
目にとまったのは、車窓からの景色にではなく目の前の窓にだった。
何かが付いている。
(はて、もう一度よーく見てみるかね)
目を凝らし、
顔も窓に近づけた。
(やっぱりおかしいわ...)
走るバスの窓に付いた水滴が真上に動いている。
一際大きな一粒だけが、まるで生きてるような動きで。
それ以外の水滴は、後方に自然と流れているのに。
良いことなのか悪いことなのか、年を取ると、めったに驚かなくなる。
だけど、これは一体…
この旧型のバスは、窓の両サイドにつまみがあり、そこで窓の開閉が出来る。
私はそのつまみを掴み、少しだけ窓を引き上げた。
ひんやりとした風が気持ちいい。
すると、そう思ったと同時にその水滴までもがスルスルと車内に入り込んできた。
「...こんにちは」
それは言った。
上目づかいのお辞儀と共に。
私の耳でなんとか聞き取れる声。
それは、なんとも自信のないような、警戒しているような声だった。
(あらら、しゃべったわ…)
「あんたは...えぇっと...、雨つぶかい?」
「そうだけど...。おばあさん、よく僕のこと、見えたね」
「私もこんなことは初めてだよ。でも、しっかり見えてるわ。」
「へぇ〜。おばあさん、変わってるね。
じゃさ、バスに乗ってる人いないし、少しお話してもいい?」
「ええ、もちろんよ」
とたんに、その雨つぶの声は大きくなった。
目もキラキラとし出す。
「僕さ、チョコレートって食べ物が大好きなんだ。そんで、一番好きなものは
ベルギー産のcote'dor。黒い包装のビター味のやつだよ。」
「そうね、cote'dorが一番よね。
私はベルギー生まれだから、よーくわかってるよ。
他のものは味も香りもそっけないから、どうも好きになれなくてね。」
「だろ? こりゃ嬉しいな!僕と同じ味覚の人間がいるなんてさ。
こんな話が出来るなんて最高だよ!
ここをちょっと行ったところの森にいる友達なんかさ、あっコアラって名前なんだけど、
葉っぱばかり食べてて、チョコなんか知らないって言うんだ。
いいヤツなのは確かなんだけどさっ。」
(可愛らしい子...)
その子への初印象はそれだった。
心がほっこりする。
視線を外の景色に向けると、バスはちょうど「病院前」停留所に着くところだった。
「私はいつもこのバスに乗っているからまた来るといいよ。また会った時、話そうかね。」
「うん、わかった!」
(よっこいしょっと)
バスが停車したのを確認し、ゆっくりと前方へ向かう。
料金を払い、慎重にステップを降りた。
バスはいつものようにのろのろと発車し、小さくなっていく。
私がはっと気付いた時には、バスは消えていた。
どのくらいの時間、こうしていたのか。
バスが見えなくなるまで見送っていたことになる。
あの雨つぶは、これからどうするのだろう。
どう暮らしていくのだろう。
また会えるのかしら。
いろいろな想いが湧きあがる。
世の中の親はこんな心配をするものなのかしら。
私には子供がいないから、わからない。
だけど、急にあの子のことが心配になっていた。
しゃべる雨つぶに出逢えるなんて、年寄りだって驚く。
でも今日は、更に驚くことが起きたのだった。
いつも二人きりの車内。
今まで目を合わせたことも声を聞いたこともない
あのロボットのようなバスの運転手さんから降り際に声をかけられるなんて。
「おばあさん、そこの病院に通ってるようだけど良く診てもらってるのかい?
なんだか誰かとしゃべってたみたいだけど、今日の乗客も
おばあさん独りだけだったからさ。」
私の予想とは違い、穏やかな優しい声だった。
(本当に私はあの子としゃべっていたのね)
あの子との出逢いに半信半疑だった私は、微笑んで会釈だけを彼に返した。
たったそれだけのやりとりだったが、彼の心配は私に良く伝わってきた。
(ありがとう。私はまだ大丈夫だよ)
一瞬、心臓が小さく飛び跳ねて、くすぐったい気持になる。
しばらくなかった感覚。
(もしかして、今日のおじいさんは、
看護師さんたちの制止を無視して病室を歩き回っているんじゃないかしら...
彼ならそれも楽しみそう)
そんな気がしてきた。
今日はどうもびっくりすることが起こる日みたいだから。
私は体の向きを変え、おじいさんの待つ病棟へゆっくりと歩き出した。
バスを降りた後の足取りが、朝と比べ驚くほど軽くなっている。
空を見上げると、
細かい雨は、相変わらず降り続いていた。