彼女
ある雨の日の朝、僕は何かにぶつかった。
それは、歩いていた男性が抱える透明ファイルにだった。
そのまま僕が何かの建物の中に入っていった時のことだ。
「学科試験・面接会場」
僕は字が読めない。
偶然僕が入った建屋の入口にはこんな字が書かれた紙が張られていた。
建屋の中にはいくつも部屋があり、そのひとつに僕らは入った。
やけに静かだ。
みんな、かしこまっている。
僕は目の前の机に、ぶつかったその透明ファイルごとそっと置かれた。
ワクワクする気持ちを抑え、透明ファイルから机の端に移動した。
何かで拭かれたら一巻の終わりだ。
何も見えなくなってしまう。
さっきから目の前の男性はしきりに腰の辺りをさすっている。
改めてその男性を見てみると、
確かに健康そうにはとても見えない。
(ここは病院?)
ふと振り返る。
(...はっ)
息が止まった。
転んで胸を打った時と同じ感覚。
一人の男性と一人の女性が入ってきたところだった。
(何者?!)
病院で良く見かける白い服は、二人とも着ていない。
女性の方が何かを配りだした。
一人ひとりに、紙を一枚づつ。
僕が驚いたのは、この何者かたちによる
これから始まろうとしていることにではない。
あの女性にだ。
彼女からは明らかに、周りの人間からは見られないオーラみたいな
光が出ている。
(人間...だよね?)
彼女が人間じゃないのなら話は早いだろう。
彼女から出るその光は、とにかくきれいだった。
どのくらいそれに見惚れていただろう。
ふと我に返ると周りは席を立ち始めていた。
僕はここへ一緒に来た男性に置いて行かれないように
急いで透明ファイルに飛び乗った。
(良かった、間に合った)
どうやら誰にも気付かれずに外へ出られそうだ。
と思いきや、また透明ファイルごとすぐに持ち上げられた僕は、
それほど移動することなく別の小さな机に置かれた。
今度はバサッと。
さっきよりピンと張りつめた空気ではない。僕は冷静だった。
まだこの時までは。
(今が帰り時か・・・)
と思った瞬間、透明ファイルの持ち主は僕をファイルごとカバンへ
押し込めた。
こんなことはよくあること。不安も驚きもない。
逆に胸が高鳴った。
男性の息遣いから早足で移動しているのが分かる。
止まった。
まだそれほど移動していないはず。
場所を変えおしゃべりでも始めるのだろうか。
彼はゆっくりと椅子に腰かけた。見るからに痛々しそうに。
(どこか骨でも折れているのかな? まさかねっ)
すっかり人ごとに思いながら
僕はカバンの外の様子を伺おうと、そっと頭を出した。
(...あっ)
全身が固まる。
なんと、さっきの女性が目の前にいるではないかっ!
ほんとすぐそこに!
普段なら何も気にすることはない。
僕の存在に気付く人間なんていないのだから。
でも今は違う。動けば気付かれる。
確信した。
(いや、もう気付かれている?)
馬鹿な考えで頭がいっぱいになる。
全身が熱くなり、おでこから何かが伝った。手も足も背中も脇の下も
冷や汗でびっしょりだ。
(どうしよう・・・)
彼女とはかろうじて目は合っていない。
とにかく今はファイルに隠れよう。
深く息を吸って慎重に吐きながらゆっくりと頭を下げた。
ギリギリ僕の目が隠れないところまで。
彼女から目を離すとなんだか負けるような気がした。
彼女はすんだ瞳で透明ファイルの持ち主を見つめ、穏やかに
話している。彼女はすでに話相手の何かを見抜いているように。
なるほど、あのオーラはそういうことなんだ・・・
僕は彼女に見惚れてドジを踏まないように、自分自身の心に監視役を
置いた。けど、そいつはそいつで俺の瞳は彼女しか写さないし、
ってな態度。
しかしながら僕は運が良かった。
この状況で何事もなく外に出ることが出来たのだから。
(この感覚、どこかであったよな・・・)
僕は自分のとんがった頭を揉んだり叩いたり振ったりした。
(そうだっ)
あの時と同じ感覚。心は覚えているのだ。
ある女性に話しかけられた時と同じだ。
人間にしても、見知らぬ人にいきなり声をかけられれば驚くだろう。
僕はそんな驚きじゃ済まない。
だって、僕は雨つぶなんだから。
そうだ、あの時が初めて冷や汗というものをかいた時だった。
あの女性は今、コスタリカにいる。もう16年も前のこと。
僕はふと昔の出来事が気懸りになったが、今さっきの出来事で
まだドキドキしている心臓がそのことをすっかり忘れさせた。