祠
25歳の時、
私は黒猫を段ボールに入れ、車のトランクに乗せた。
その黒猫を見たのは、その時が最後になった。
「またセコヌの警報が鳴ったようだね。一体どうしたんだ?
警備会社は機器の故障じゃないと言うし。」
「所長、警報が鳴るのは夜中ばかりだそうです。
もしかして、倉庫内に住みついているハトのせいじゃないですか?」
「いや、夜中では鳥目のハトが飛び回れるはずはない。」
「確かに...そうですね。」
私はその会話を聞く度にドキリとする。
私が勤める運送会社の倉庫では、
夜中に警報が鳴る事態が、最近頻繁に起こっていた。
それが昼間だったら倉庫に住み着いているハトたちのせいにもできただろう。
でも夜中では無理がある。
私はその原因を知っていた。
なぜかと言うと、その原因を会社の軒下で飼っているのが私だからだった。
独り暮らしの私は、築うん十年の木造2階建ての文化住宅に住んでいる。
4.5畳と6畳の2K(お風呂・トイレ付)で、家賃3万3000円のところを3万円に値切った。
当初は激安物件との出会いにすっかり舞い上がり、
部屋の内側から閉める謎の鍵の存在や激薄の壁など、どうでも良かった。
でも、あっさりと値切れた理由を入居した翌日知ることとなる。
忘れもしない。
隣の部屋のおばさんの唱える念仏で目覚めた朝を。
随分信仰深いんだな~くらいにしか思わなかったのは一瞬のことで
次の瞬間、私はこれからの新生活にドス黒い絶大な不安を抱えることになった。
「ひゃーーーっ!!! えらいこっちゃ、えらいこっちゃ!」
薄い壁を挟んだ隣から聞こえた念仏の途中で発せられた叫び。
ダダダツ バタンッ
ササッ
ドンドンドンッ
(ヒィーーーィッ ...うち?!)
私はあまりの恐怖でパニックに陥る。
真冬だというのに全身から冷や汗が吹き出た。
そんな状況下でも私の脳は瞬時に寝たふりをするよう身体に指令を出す。
人は何らかの状況で「死ぬ」と察した時、案外
冷静になれることが初めてわかった瞬間だった。
あんな完璧な狸寝入りはもうこの先私の人生において出来ないだろう。
そうだと自信を持って言えるくらいの完璧さだった。
息はもちろん心臓も止めていたと思う。
冗談ではなく、本当に。
そんな初日を迎えて早半年。
今の私はもう慣れたもので、その悲鳴を聞いても動じなくなっていた。
念仏を唱えている時以外のおばさんは至って普通で、
この前は名古屋に行ったとかで、ういろう丸々1本(抹茶味)を届けてくれた。
私は朝のあれ意外ならドアを開けるまでに成長していたのだ。
悲鳴を上げて部屋のドアを叩かれても、未だに開けるつもりはないのは変わらないけど。
この文化住宅はペットはもちろん禁止で、
そう、私が言いたかったのは、激薄の壁とこんな騒がしい隣人がいたのでは
内緒で動物を飼うことも不可能ということ。
バレた時を想像すると身の危険を感じ、諦めたのだ。
あの謎の鍵を出勤時に毎朝見続け、再度引っ越ししたい想いは募ったが、
この移住で貯金を使い果たした安月給の私の頭からは完全に消滅していた。
「ロー、ロトーっ」
( ...ミャー)
微かに聞こえる猫の声。
「ロー、こっちー」
私は缶詰のエサを、向こうから走ってくる黒猫に向かって高く上げて見せた。
サササッ
「ミャー」
その黒猫はあっと言う間に私の足元まで来てまとわりつく。
「今日は奮発したよ~これ。シャンパングラスみたいのに入れて、グラスを
フォークでチチーンと鳴らすと、高級そうな猫が来るシーンのCMのやつなんだよ。
今度やってみる?」
(って聞いてる間に食べ終わりそうだね、お前)
私は満面の笑み。
(お前には無理だね~)
「ミャー」
「だね。じゃ、見つかるから帰りな。私も帰るから」
周りを見渡し、そそくさと車に歩み寄りロックを解除する。
「ちょ、ちょっと、ダメだって、ロト。ホントごめん」
車に乗り込んだ私の膝の上に毎回飛び乗るロト。
そして毎回ロトの脇に手を入れて下ろす私。
毎回繰り返される光景。
そして毎回思うこと。
(こんなことしてて、ロトは幸せなんだろうか)
「ロト」という名前も「ロト6」を毎週買い続け一向に当たる気配のない私が
「4億円当たりますように」との大願を込め勝手に付けた名前。
会社の軒下で産まれたてのロトたちを見かけた時が懐かしい。
目も開いていない状態の子猫たちは、
母猫のおっぱいをすする為だけに生きている懸命さだった。
私が近づくと母猫は異常に警戒した。
だから私はしばらく様子を見に行くことを自制したのだ。
そして久々に見た子猫たちは、目も見えるようになり危なげながら歩き始めていた。
(動物ってすごいな)
人間ほど手間暇のかかる生き物はいないと思う。
その母猫が産んだのは5匹で、そのうち黒猫だったのはロトだけだった。
母猫も黒猫だったから、その子猫は特に印象に残っていた。
それからまたしばらくして、子猫たちの住処に行ってみた時。
そこはもう、もぬけの殻だった。
だれか拾っていったのかな?
家族で移住したのかな?
猫の生態にそれほど詳しくない私は、脳天気に安心したのだった。
しかしその翌日、黒い影が道路を横切るのを見た時、
その影の大きさから私は直感的にあの子猫だとわかった。
案の定、かつての住処を覗くといたのだ。
そこにいたのは、黒猫が一匹。
近づく前に逃げてしまったが、
それから毎日様子を見に通うようになって、
残ったのはその子一匹で他の子猫たちや母猫の姿を見ることはなかった。
「ロトは、ノラ猫の方がいい?
私の自己満足なのかな...でもさ...ここに来ちゃうんだよね...
ペットOKのアパート物件見つけたから、ちょっとここで我慢してて。
家賃が少し高いけど、がんばるから。一緒に住もう」
私はエンジンをかけ、ギアをバックに入れ車を後退させた。
車のヘッドライトに反射するロトの白い目。
(今日は倉庫の中に隠れてなくて良かった...)
夜中に警備会社の警報がなる原因はロトしか考えられない。
最近、会社帰りに倉庫の軒下にあるロトの住処周辺で呼びかけても
出てこないことが多くなっていたから。
きっと倉庫内にいい隠れ家を見つけたのだろう。
うちの会社の倉庫はフォークリフトが数台で走り回っても
ぶつかることがないくらい広い。
それに、ごちゃごちゃと物がたくさん置いてあるから、
猫一匹が入り込んでもわからないだろう。
ただ、倉庫内で子供を産むようなことになっては困る。
ロトの性別はまだ分からない。
だけど、動物が大嫌いな所長のことだ。
何をするかわからないから、それだけは阻止しないと。
そんなこともあって、私はここ最近、
会社に居る間はロトの行方に目を光らせているのだ。
「ローっ」
「ミャー」
「今日は珍しく住処にいたんだね。今日も奮発したよ~、チチーンってやつ。」
私は缶詰を開け、お皿代わりにしている段ボール紙の切れ端上に
パカッと缶詰を勢いよくひっくり返した。
ロトも勢いよく食べ始める。
ロトの必死な息遣いが聞こえてきた。
(お前も生きるのに必死なんだね...)
仲間が増えたように思えて心が和んだ。
「森口くん」
(?!...)
背後からの突然の呼び掛けに飛び上がりそうになった私は恐る恐る振り返った。
いつか見つかるのではないかという日頃の脅えが手伝い、
見つかった時の恐怖は想像以上だった。
唇と手足の震えは激しくなるばかりで隠しようがない。
日が落ち始めた夕方18時過ぎのうす暗い気候が
背後にいた者を余計不気味に映し出した。
「しょ、所長...
どうかしましたか?」
私は膝をかかえてしゃがんでいた体勢からとっさに立ちあがった。
何事もなかったよう平常心を保ち、身体全体でロトを隠し、一歩前に出る。
ところが、タイミングが悪く、丁度餌を食べ終えたロトがおかわりをねだる様に
私の足にまとわりついてきたのだった。
「随分懐いてるもんだね、その猫」
「すみません...
会社の敷地内で餌付なんてして...」
「いいんだよ。大したもんだ。
その猫、掴むことも出来るのかい?」
「掴むって...抱っこ出来るかってことですか...?」
「そうそう、私は犬猫、動物が大嫌いだから触れないんだよ。
見るのも気持ち悪くてね」
「そんなにダメですか...」
「そうだ、すっかり懐いている森口くんにだから言おう。
今、抱っこしてくれるかい?」
所長は顎でロトを指した。
「... 」
なぜ今抱く必要があるのか全く理解出来ない。
考える時間が出来るだけ欲しかったが、この場を穏便にやり過ごしたい気持ちが
先立ち、私は時間をかけてロトを優しく抱きあげた。
ロトはなんの警戒もなく身体を私に委ねる。
ロトの喉を鳴らす振動や温かさが手や腕から伝わってきた。
「... 」
私はなんの言葉も出ない。
なじられてもおかしくない状況なのだから。
「ほぉ。
そのままちょっとこっちに来てくれるかな?」
所長は私用車に大股で近づき、運転席のドアを開けた。
そしてトランクを開けるレバーを引く。
私は今から何が始まるのかさっぱりわからず、ロトを抱いたまま立ちつくしていた。
「この段ボールの中にそれを入れてくれ」
(はぃ?)
所長の言うことがあまりにも唐突で私は閉口した。言葉の意味もわからない。
でも私の頭の中では警報が鳴り始めていた。
「早くしてくれ」
「...そ、そこに入れてどうするんですか?」
「最近、倉庫の警報が鳴るのはこいつが原因だよね?
だから遠くに捨ててくるんだよ」
私は遠くに捨ててくるの意味まで分からなくなる。
そして首を横に振っていた。
「...私には出来ません...」
「倉庫の警報が鳴り続くと困るんだよ。夜中でも私の携帯に連絡が入るから。
すっかりノイローゼ気味になってしまってるんだよ、本当に。」
所長の声はさっきまでのものとは全くの別物になっていた。
強い憎しみが響きから伝わってくる。
「森口くんも困ることになるよね?この猫がいたんじゃ。
私の倉庫の軒下で、偽善者気取りかい?
さぁ、この段ボールに入れなさい」
所長の車のトランク内には、子猫が入るには
丁度良い大きさのダンボールが乗せられていた。
それを見た時、所長はこうすることを普段から予測し
準備をしていたのだと確信した。
そして全身に鳥肌がたった。
「 ...イヤ」
「入れろ!」
私は所長の私用車CHASERのテールランプを茫然と見送っていた。
段ボールにロトを入れた感触を再び思い出した時、
同時に全身の力が抜け私はその場に座り込んでいた。
名前を呼べばどこからともなく飛んでくるロト。
今ではそれが当たり前になっていて、忘れていた過去。
あの住処で1匹になったロトの私を見る目は警戒心の塊だった。
近寄ることはもちろん、目を合わせることさえ難しかった。
人の気配を感じると、振り返りもせず全速力で逃げるロトの後ろ姿を見る度、
私の疑念が確信に変わった。ロトやその家族は人間に酷いことをされたのだと。
そうじゃなきゃ、子猫がこんなに人間を警戒するはずがない。
毛並みもボロボロでガリガリに痩せ、
目ヤニだらけのロトに見兼ねた私は猫用の餌を用意した。
食べた様子が全くない日が続き、ロトと私の根気比べが始まる。
ロトがそれを私がいないところで食べるようになるまで、約2ヶ月を要した。
ダンボール皿の餌がきれいに無くっなっていたあの日の想いが今、
胸にグサリグサリと何度も刺さる。
私を信用してくれたロトを私はダンボールへ入れた。
段ボールに入れた時のロトはきょろきょろと落ち着きはなかったものの
おとなしく納まっていた。
でも所長が乱暴にふたを閉めた瞬間からロトは中で暴れ出した。
爪で箱の内側を引っ掻く音が今でも鮮明に耳に残っている。
手早くガムテープで閉じる所長の横顔は夕刻の闇ではっきり見えなかったが
思い出すと吐き気が込み上げてきた。
それでも聞かずにはいられなかった。
「どこまで...連れて行くのですか?」
「河原かな、隣町の。動物は川を挟むと家に戻ってこれないというだろ。」
「その河原に着いたら、逃がすんですよね?
所長、猫嫌いだから段ボール開けるのも嫌でしょうから私付いて行きます」
「いや、大丈夫。すぐそこだから」
バタンッ
どうして私はその時、付いていかなかったのだろう。
脳裏に一瞬だけ川を流れる小さな段ボールの光景が過る。
私はすごく怖かったのだ。
その光景をこの目で見るような気がして。
人間に一度では済まず、二度も裏切られたロトの心の傷はどんなに深いだろう。
しかも信用した人間に裏切られたのだ。一度目の傷を抱えたまま。
きっと、もう修復の出来ない深さまで私はロトを傷付けてしまった。
「ロト...ごめん。 ごめんね...」
私は今、ある祠の前であの時と同じ言葉を発していた。
聞いたこともない名前の古ぼけた小さなコンビニの隣に
その祠はひっそりと佇んでいる。
この祠に気付いたのは先月で、日が短くなったなとふと感じた夏の終わり頃。
そこには前足を器用に折り畳み、じっと動かない黒猫がいた。
その猫は、そこにいる時はいつも遠くを見つめたまま、しゃんとした姿勢でいた。
道行く人々は誰一人としてその黒猫に気を止める様子はない。
私にはその黒猫がかつて私に深い傷を負わされた猫だということが一目でわかった。
その黒猫もロト同様、眼球が一つしかない。しかも同じ側。
それだけではなく、付いている左目の色がロトと全く同じ色だった。
そして何より、そこにいるのはロトだと私にはわかったのだ。
生きていて欲しいと願い、信じてきた。
ロトと再会出来た今、私は何をすれば良いのだろう。
償いだけがロトにとって良いことなのだろうか。
私の今出来ることは、ロトの邪魔にならぬよう存在すること。
心の中で語りかけるだけならいいよね...
「ねぇ、ロト。あのね、私、あれからペットOKのアパートに引っ越したんだ。
もう何年前になるかな...牧野駅近くのあそこだよ。
側面の壁に大きく「ペットOK」と手書きで書いてあるアパート。
ロトが子猫だった頃、よく話していたよね。覚えてる?
私、これからもずっとあそこに住むことにしたから、
ロトがもう一度私にチャンスをくれるなら、
私のこと信じてくれるなら、一緒に住もう。
ずっと待ってるから、慌てないでいいから、考えて欲しい。
あの時、私を信じてくれたロトの気持ち、すごく嬉しかった。
ロトがこの祠の方が良いなら、ロトが幸せに生きているなら、
私は幸せだよ。それだけは信じて欲しい...」