怖そうな話 ~海神様の嬉しの儀~
僕が幼いときに住んでいた町は港町だった。
家から外に出ると一本の道路を挟み、目の前に港がある。そこには漁を行うための漁船が数多く並んでいた。漁は昔から、この地域に人が住み始めた頃から盛んだったらしい。そして今でも盛んに行われているそうだ。
僕の父親もその父親も、ずっと漁で生計を立てている。幼い頃は、当然自分も海に出ることで家族を養って生きていくのだと思っていたのだが、どういうわけかその道は母にひどく反対され、今では海とはまったく関わりのない場所で仕事をしている。
そんなある日、僕はずいぶん久しぶりにこの場所へ帰ってきた。
懐かしくもあり、しかしやはり早くこの場所から離れたい。
その想いが強く僕に沸き立つ、そんな場所だ。
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僕が幼い日を過ごした土地を離れ、数年経った日のことである。
僕はある話を母親から聞いた。
しばらく実家には帰っておらず、孝行不足であった自分にとって、母親と会うのは数年来である。
場所は見慣れないところだった。独特の匂い、色を持った空間でありながら、しかし既視感を覚える場所だ。
そんなところまで、母親は自分を訪ねてくれたのである。
母の話は今まで聞いたこともない話だった。
けれど確かに自分が体験した話でもあった。
つまり自分で体験し、真実を誤魔化されていた話というわけだ。
そのすべてを知ったとき、僕は大した怒りを覚えることもなく、悲しみに暮れることもなく、ただ単に「あぁ、だから僕はこんな生き方をしているのか」。そう納得でき、涙を流すのだった。
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そのとき母が僕に語ってくれた内容。僕と母との会話の内容は以下の通りである。
「お前は幼いときに自動車事故にあったのを覚えているかい?」
始まりはそんな昔話からであった。仰向けに寝転がり、ぼんやりとした時間の流れを感じていた僕に、唐突に母がそう尋ねてきたのである。
「自動車事故……。懐かしいな」
それには覚えがあった。というよりも、あのときの一連の出来事は印象的すぎて忘れるに忘れられないものなのだ。
「もちろん覚えてるけど、それがどうしたのさ?」
なにを今さら、という思いがある。けれどそうか、今だからこそ、ということでもあるのだろう。
すると母は何とも言えない表情となっていた。できることなら忘れていて欲しかった。そう読み取れもする顔だ。
そして母はじっと僕の顔を見つめ、また別の質問を投げかけてくる。
「じゃあ、お前は○○(僕の生まれ育った地名だ)にある、伝承のようなものを知らないよね?」
伝承。それは初耳であった。
「へえ、そんなものがあったのか?」
「……うん。それをお前にも教えておかないと、いけないと思ってね」
母は抑揚のない話し方である。目を伏せ、できるだけ僕と目を合わせないようにしよう。そんな思いを、なぜだか僕は感じ取ってしまった。
それにしても母は何を僕に伝えたいのだろうか。幼い頃の自動車事故。そして今まで知りもしなかった○○にある伝承のこと。それがどう繋がるというのだろうか。
「伝承ねえ。時間つぶしにはちょうどいいや。話てくれよ」
「ええ。それじゃあ……」
しかし母はそれっきり黙ってしまった。まだ踏ん切りがつかない。恐らく彼女の今の心情はそんなところだろう。
今の僕にはとりあえず時間は余っている。だからこのとき僕は母をせかしたりしなかった。
流れる時間の中、僕は過去に起こった自動車事故について思い返すことにした。
事故自体はある日曜の早朝、土砂降りの雨の中起きたものだ。その内容を端的に説明するなら、当時小学一年生だった僕が、一人家の前の道路に飛び出し自動車とぶつかった。それだけである。
しかしその事故の前後の出来事は異常であったに違いない。
僕がなぜ雨の日の早朝に家から出ていたのかと言うと、それは知らない女の子から「海へ行こう」と誘われたからである。
ちなみに僕には姉も妹もいない。年の離れた弟が二人いるだけで、本当に知りもしない女の子から誘われたのである。
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雨の音とは異なる音が聞こえる。
これは……波の音だろうか。
そんな音が耳元でなっている気がして、僕は目を覚ました。
まだ部屋に陽の光は射し込んでおらず、辺りは暗い。それでも何が聞こえているのかと見回したところ、部屋の隅に見知らぬ女の子が座っていたのである。
一瞬驚きはした。けれど声を上げたり、隣で寝ていた両親を起こしたりはしなかった。暗がりの中、その女の子は青白く浮かび上がっているようにそこに居たのだ。
近寄ってその子を見てみると、その子は青色の和服を着て、歳は自分より一つか二つ上に見えた。そしてぼんやりとした笑顔をずっと僕に向けている。
少し気味悪く思うものの、恐怖や怯えの対象でない。その子の様子からそう思ってしまったのは、幼さゆえのことだろう。
「ねえ、君は誰? なんで僕の家にいるの?」
僕は彼女にそう尋ねた。すると女の子はすぅと視線を僕に合わし答える。
「よばれたから、きたの」
まるで海の静けさの奥にある潮の音のような、囁くような可愛らしい声だった。
「呼ばれたって、だれに?」
呼んだにしてもこんな時間に来るなんておかしいよな。そう思いながら僕はまた尋ねた。
すると彼女は僕の質問に答えることなく、ニッコリと微笑み僕の手を握ってきた。変に冷たい感触が僕の手に触れる。
「ねえ、うみにいきましょう」
脈絡なく、その青の和服の女の子は僕を海に誘うのだった。
「え、でもまだ暗いよ?」
「うん、だからうみにいきましょう」
「あ、雨だってふってるよ? こんな天気じゃ船だって出さないし、危険だよ」
「ううん。だいじょうぶ」
「だい、じょうぶ……」
どうしてだろう。このときの僕は、彼女のだいじょうぶと言うと言葉に従ったのだ。
雨の日の海に近づきたくないと頭では思うのに、彼女の囁きでその思考が麻痺してしまった。そんな感じだと思う。
そして握られた手を引かれ、僕はその子と玄関に向かった。女の子が扉を開けると、やはり雨が降っている。まだ黒に染まり抜け出していない世界では、雨が地面に当たる音が異様にハッキリと聞こえた。
女の子は僕の手を引き家の外に導く。
「あ、傘――」
「そんなのいらないよ」
傘をとろうとした僕をなだめるように、女の子が僕の手を優しく引っ張った。
「う、うん」
また彼女は微笑んでいる。
そうして僕ら二人は雨の中に出た。すぐに髪の毛や服が濡れ始め、身体に張り付く。それが気持ち悪くてもぞもぞしていた僕であったが、あることに気がついた。
……あれ?
僕の手を引く女の子は、僕の家にいたときと姿が変わっていない。薄い膜で覆われているかのように、肩まで伸びた綺麗な髪も、目を奪うほど鮮やかな青の着物も濡れていない。
「ねえ、どうして君は――」
濡れていないの? そう聞こうとしたとき、女の子が歩き出した。そして言う。
「ほら、うみがまってるよ」
海が待ってる。それはどう言う意味だろう。そう思いながら、しかし僕は引っ張る彼女の手を拒めずについて行った。
ゆっくりとした歩みだ。けれど陸に上がった波が引き返すようにその動きに無駄はなく、ただすうっと僕らは海に向かった。
そして目の前の道路を横断しかけたところで、僕の身体は横に吹き飛んだ。
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僕の身体が吹き飛んだのは、道路を走っていた自動車にぶつかったからだ。
それまでの静寂すら吹き飛び、辺りが騒がしくなった。
運転手が慌てて駆け寄ってくる。土砂降りの雨の中だというのに、傘もささずに僕に近寄ってくる。
出てきたのは中年の男性二人だった。なにか言っていたが、それはもう覚えていない。たぶん僕の意識があるかなどを確認していたのだろう。
心配する大人の目の中、僕は自分の身体よりもあの女の子を心配した。僕の隣を歩いていた彼女もまた、自動車にひかれたはずだ。そう思い彼女を探すものの、しかし彼女の姿はどこにもない。
まさかと思い、自分を見る大人たちに尋ねた。
あの女の子は?
そう言ったつもりだったが、大人たちには聞き取れなかったようだった。僕が死んでいないことに喜び、欠片のような余裕が生まれたのだろう。携帯電話を取り出し、どこかに電話をし始めた。
騒々しさに周りの住人も気づいたのだろう。その頃には多くの目が僕に集まっていた。
そして僕の家族が駆け寄ってくる。みんな寝巻きのまま、見たこともないような顔をしていた。
あの子は大丈夫なの?
自分の話を聞いてくれる者たちにも僕は尋ねた。
僕は大丈夫。でもあの子は? あの子はどうなったの?
必死にそう伝えようとしたが上手く喋れない。と、唐突に身体に痛みを感じ始めた。それと同時に意識が遠くなる。
これが気を失うってことなのかな。そのときの僕は事故の怪我よりも、気絶の初体験の方に興味を惹かれていたのだから面白い。
そんな中、普通ではありえないことを、僕は目の当たりにしたのだ。
僕をひいた中年の男二人に、僕の家族が頭を下げている。どうみてもお礼を言っているようにしか見えないのだ。涙を流しながら、何度も何度も頭を下げている。祖父母も、父も。
これはどういうことだ。
疑問を解消しようとしても、脳が働かなかった。もう眠ってしまいたいとしか思えないのだ。
しかしそんな中、一人だけ、僕の母だけは普通だった。
じっと二人の中年を睨んでいる。恨めしそうに、悔しそうに、ただ黙って睨んでいる。
あぁ、お母さんだけは僕のことを思ってくれてるんだ。
そう思い、僕の意識はそこで途切れた。
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そう、今の状況はあのときとさほど変わりない。
僕はまた交通事故にあい、病院のベッドで寝ているのだ。しかし今回はフラフラ道路に飛び出し自動車にひかれたわけではない、ということだけは補足しておきたい。
そして今、母が見舞いに来ている。何かを僕に伝えようとしている。
「……あの交通事故の後のことはどのくらい覚えている?」
ようやく母が口を開いたかと思うと、今度は事故の後日談についてである。いよいよ母が何を自分に伝えたいのか、強い疑問を抱き始めた僕であるが、ここは我慢して母のペースに合わせた。
「あんまり、かな。事故のことはよく覚えているんだけど、そのあとのことはそんなに」
すると母は、「まずはそこから話しましょうか」と呟き、続ける。
「あのあと、あなたが目を覚ましたとき、はじめに言ったのよ。『あの女の子は大丈夫なのか?』って。でもそんな女の子はいなかった。あなたをひいたおじさん二人に聞いてみても、ひいたのは男の子一人だったって言っていたのよ」
それは覚えている。やはりそこだけは確認しておきたかったのだ。
けれど誰もがそんな子はいないと言い、結局今では寝ぼけていてそんな子がいると思い込んでいた。そう思っていた。
「それからおじさん達が話してくれたんだけど、あなたが車にひかれた日、そしてあの場所はすごいもやがかかっていたんですって。おじさんたちもこれは危険だと思ったらしく、車の速度を普段より落としていたんですってね。だからあなたは死ななかったし、でも発見が遅れてぶつかっちゃったって」
そういう話も耳にした気がするが、今きちんと事情を聞くと、なるほどと思ってしまう自分がいた。
「そしてあの日は雨だった。そして日が昇る前の早い時間だった」
「そうだったね、確かに。よくあんなときに、怖がることなく一人で外に出て行ったものだよ、まったく」
僕は笑ってそう言った。今となっては、あの出来事は僕にとって笑い話に過ぎないのだ。
が、母にとっては違うようだった。その顔にはいろんな感情が見え隠れしている。その中でも顕著だったのは『申し訳なさ』ではないだろうか。
「……だからね。……私も、お父さんも、あのときいた誰かの親に当たる人はみんなわかっていたわ。あのときあなたは女の子に海に連れて行かれそうになっただってね」
「――は?」
「わかっていたのよ。あなたは女の子に手を引かれて、海に行こうとしてたんでしょ?」
「そ……そうだけど、あれは僕が寝ぼけれただけだろ?」
「……いいえ。あなたは連れて行かれそうになってたのよ、海神様に」
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「あの地域には『海神様の嬉しの儀』っていう伝承があるの。あなたはそれに逢ったのよ」
そう言って母は話し始める。未だ聞いたことのない、ずっと住んでいた場所にまつわる伝承。それは思った以上に残酷なものであった。
「漁が盛んなあの地域ではね、あるとき子供が海で溺れ死ぬっていうことが度々あったの。それを『海神様に連れて行かれた』だとか『海神様の嬉しの儀に逢った』なんていうのよ」
僕は黙ってその話を聞く。
「それは決まって、幼い子に起こるの。漁に出れない激しい雨が降る早朝に、おそらく一人で家から抜け出し海で溺死している。そのときひどいもやが海や町に掛かるとも言われているわ」
母が作り話をして自分を怖がらせようとしているのでは。そう思ってしまうほど、その『海神様の嬉しの儀』の条件に自分が当てはまっていた。
「そしてもう一つ、運良く助かった子は皆揃っていうの。『青い和服の女の子に一緒に海に行こうと誘われて、手をひかれた』のだってね」
そこでゾクリと身体が震えた。そこまで一緒だったのだ。
母が真実を話しているか、その真偽を今すぐには確かめられない。けれど僕は、今母が話している伝承をホラ話だと決め付けて聞けるはずがなかった。
もしかしたら、あのとき僕は死んでいたのかもしれない。
自動車事故ではなく、溺死で。そう考えると、全身に鳥肌が立った。
「どうして……どうしてそのことを今まで黙っていたのさ!」
僕の声は思いのほか大きな声だったらしい。母がビクリと身体を縮めた。咄嗟に「ごめん」と呟き、僕は母の言葉を待った。
「……言い出し……づらかったのよ。『海神様の嬉しの儀』はひどい過去の風習からできたものだと考えられているから」
「過去の風習? それはどんな?」
ここまで聞けば、もうすべてを僕は知りたかった。母もすべてを話すつもりなのだろう。少し言いよどんだが、それでも話を続けてくれた。
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「むかし、あの地域が出来た頃は、やっぱり貧しい家が多くてね。……それも漁ができない日が続いたり、不漁が続けば食べるものに困った時期も多かったそうなの」
おそらくそれはどの地域でもそうだったのだろう。今ほど食べ物をどうにでも都合できる、そんな時代ではなかったことは容易に想像できる。
「だからね、やっぱりあったのよ……」
そこまで聞けば、何があったか、その答えは簡単だった。
「……口減らしか?」
母はひと呼吸おき、「そうね」と肯定した。
昔の事とは言え、僕はうなだれることしかできなかった。自分よりどのくらい昔の人なのかはわからない。しかし自分が引く血のどこかで、子供を殺していたのだと思うと、やはり心にくるものがあった。
「でも世間体というものは昔からあるわけで、単に子供を殺してしまうことはできなかった。……そこで体のいい言い訳を考えたわけね」
「……それが『海神様の嬉しの儀』なんだな」
「そう。……漁に出れない日。誰もいない海へ、子供を連れて行ったのね。雨の降る、早朝に」
そうやって今に残る伝承ができていくのか。僕はそう感じながら母の話を聞く。
「あなたが会ったっていう子は、あなたより少し年上の女の子だったのよね? それも当時の口減らしの通りよ。その『海神様の嬉しの儀』っていうのは、子供がやってたのよ」
「……それ、どういうことだよ」
「つまりね、子供を減らす行為を子供が行っていたの。親のいいつけでね。その家族で一番小さい子を、その姉なり兄なりが海へ連れて行き溺死させる。そういうやり方だったの」
母は「それが成人するための一種の儀式だともきいたことがあるわ」と辛そうに付け加えた。
そんなひどいことがあるだろうか。僕はそう思った。
こういうことがあったとしても、普通は親が子にするものだと勝手に思っていた。人を殺すということは大人が背負うものだと決め付けていた。
これでは口減らしをしたいと考えた親はなんの罪をかぶってもいないじゃないか。
過去の風習とはいえ、僕はひどく腹を立てていた。たしかに子供は食うだけの存在かもしれない。しかしたとえ食べ物に困ったからといっても、最低限の幸せを親は子に与えてやるべきではないのか。
『海神様の嬉しの儀』では子供を道具か何かのように扱っているように思えてならない。
挙句、海の神様を喜ばすために仕方なく行っている儀式だ。そんなことを『海神様の嬉しの儀』という名前から読み取れてしまう。当時の大人がどんな気分でその風習を行っていたかは知らないが、僕は彼らを侮蔑してしまう。
「……なんで『海神様の嬉しの儀』っていうか、私はよく知らないの。だけれど想像はできる。大声で口減らしをするなんて間違っても言えないでしょ。だから合言葉のようなものを必要としたんじゃないかな」
母は次に言葉の所以について話し始めた。
「たぶんだけど、始まりは『飢えしのぎ』だったんじゃないかなって、私は思ってる」
「……飢えしのぎ?」
『嬉しの儀』と『飢えしのぎ』。たしかに似ている。
「そう。……それは単に人が飢えをしのぐって意味もあったと思うのだけれど、でもそれなら海神様なんて付けないでしょ」
確かにそうかもしれない。そのまま口減らしをすることを『嬉しの儀』としてもいいだろう。
「……人を海に捧げることで大漁を願った。つまり海の飢えも同時に解消しようとした。だから『海神様の飢えしのぎ』とした。……私はそう考えてる」
母の考えを聞くと、なぜだか納得してしまった自分がいた。
昔の人の考えなんて、現在を生きる自分からしたら理解できないが、人身御供という考え方もあったのだ。母の考えは的を射ている気がする。
口減らしのために人を海に落とす。海に捧げるために人を海に落とす。
あぁ、あの地域はそんなことを行い、今に至るのか。
そう考えると、僕はあの幼きを日を過ごした場所を好きでいられる自信がなかった。
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そこで母の昔話は終わりであり、その『海神様の嬉しの儀』が残る現在の話である。
「そんな風習がなくなった今、それでもその名残は残るのね。どういった経緯だろうと、神様を奉り人を捧げてきた。風習がなくなったとしても、神様は残り子供を海へ招く。……風習は見えない形となって残るのね」
見えない形となって残る。
ここで僕は、神様なんて言葉をここで使ってその風習を正当化してはいけない。そう思った。
これは過去から現代へ受け継がれた呪いなのだ。知らずに海に落とされ命を落とした子供たちの呪いだ。子供に子供を殺させ、自らは手を汚さない大人たちへ。きっと我が子を失うことの辛さを教えるため、残っているのだ。
僕は『海神様の嬉しの儀』について、そう思うことにした。それがあの地域で過ごした子供としての義務のように思えたからだ。
いつか僕はあの土地へ戻ることだろう。そして子供もできるだろう。そのときこの『海神様の嬉しの儀』を忘れないでおこう。そうすることで、僕は自分の子供を守れるのではないか。そう思うからだ。
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一通りの話を聞き終え、『海神様の嬉しの儀』について自らの考えを持つことができた。それは僕にとって必要なことだったろう。
母が深刻な表情でこの話を自分に聞かせた理由も今となってはよくわかる。
だからこそ僕は笑顔で母に言う。
「だけどよかったね。俺が海に連れて行かれなくて」
「え、えぇ……本当にね」
「それに納得できたよ。あの事故にあったときにさ、どうして母さん達が事故を起こしたおっさん達にお礼を言っていたか。あのとき事故にあわなかったら俺、死んで――」
死んでいた。だからそれを事故という形ならがらも食い止めてくれたおじさんたちには確かに感謝できる。
僕はそう言うつもりだった。しかし思い至る。あのときの家族の表情。
そうだ。あのとき母だけは――。
「あのね――」
その母の切り出し言葉に僕はドキリとした。ふと母の方を見ると、彼女は涙を流していた。
「『海神様の嬉しの儀』が今になって起こるにも、やっぱり条件が、あるの」
僕は母の方を見ていられなかった。今更条件を教えられなくてもわかる。それはきっと、僕にとって良くない条件なのだ。
しかし母は語るのをやめない。
あぁ、そうか。
ここでようやく、僕は母がなぜあんな表情でこの話を始めたかがわかった。
「その、条件って、いうのがね……」
母の声はうわずり、途中に何度も嗚咽がまじる。
「親がその子を殺したいと思ったときなの」
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それから僕は母とは会わなかったし、連絡も取らなかった。
父や祖父母とは何度か連絡くらいはしていたのだが、それでも疎遠であったことに違いはない。
そんな自分であるが、今日は久々に実家に帰ってきている。
祖父母はずいぶんと小さくなり、父もそれに引かれたかのように老け込んでいた。
母はまったくの別人かと思えるほど、変わっていた。
全身が青黒く変色し、色どころか形までも変わっていた。はじめ見たときはこれが自分の母親であるとはわからなかったほどだ。
母は数日前、海で水死体として見つかった。自殺だったという。その日は嵐でひどい雨が降っていたそうだ。
なぜ母が幼少の僕を殺したいと思ったのかは聞いていないし、それは聞きたくもなかった。だからと言って僕は母を恨んでいたわけではない。子供を殺したいと思うことくらい人間ならあるだろうと妙に事実を受け止めていたのである。
だからこそ実家に戻った。
母を供養するため。そして今まで隠されていた事実を父や祖父母はどう思っていたのかを聞くためだ。
そしてその話の中、父の口からあることを聞かされた。『海神様の嬉しの儀』にまつわるもう一つのことだ。
父が言うには『海神様の嬉しの儀』に逢い一度は助かった命だとしても、『海神様の嬉しの儀』に逢った人のほとんどが海で水死しているらしい。
海で働く人が多いのだから、ほかの場所で暮らすよりは水死の可能性は増えるだろうと僕は思った。
けれどあの事実も変わらない。
僕がなぜこの港町を離れることになったのか。なぜ漁師にならなかったのか。
僕はきっと、自分の生き方を一生後悔するのだと呆然と思った。