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ドルチェ・デ・ドゥージェ! 〜王国軍第十二師団麾下製菓中隊〜  作者: 有沢楓
第1章 思い出は宝石のように(パート・ド・フリュイ)
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 蒸気の吹く高い音が耳に届いて、少女はゆっくりと顔を上げた。

 彼女の視界の殆どを占めたのは白い四角い物体。何とか焦点を合わせようとまばたきをすると、それは次第に円柱の姿を取った。暖かいものが上の方にあるな、と感じたとき、視界の上から琥珀色の液体がなみなみと注がれて、円柱の表面が跳ねずに受け止めたのを見て、それでようやく、円柱が磁器のマグカップだと判明した。

 霧がかったような意識と視界を少しでも張らそうとのぞき込む。

「うー……」

 うめくようにこわばった首を伸ばすと、水面に映った顔の、ほっぺたや額にくっきり痕が付いていた。慌てて顔に手をやると、案の定、口からあごにかけて、ぱりぱりとした筋ができている。

 コンスタンツァ・オルランディ、16歳。何という、乙女の端くれとしてあるまじき失態。

 そう、世間で16歳といえば十分、花も恥じらう年齢と言っていい。が、残念ながら彼女は自分を乙女だとは思ったことは一度もなかった。人並みの造作というだけではない。

 境遇もそうだし、頬をなぞる指だって度重なる水仕事と力仕事でガサガサで節くれだったように皮膚が分厚く、乙女を通り越して「母親の手」だ。

 目の前の霧を晴らすためにカフェインを摂取しようと手を出すと、

「飲む前に、顔を洗ってきなさい」

 至極当然な忠告が、頭の上から届いた。

 首筋の痛みをこらえながら見上げると、彼女を見下ろす――逆さまの――丸い目と出会う。

「すぐご飯できるから、さっさと顔を洗ってきなさい」

「うあ、すみません」

 反っていた体を、反動を利用してうんしょと起こし、壁掛け時計を見ると、午前七時。普段の起床時間を二時間も過ぎていた。

 まだぼやける眼をこすりながら、紅茶を湧かした残り湯をたらいにもらい、二階へと向かう。狭い階段をあがってすぐの小さい踊り場の、向かって右の扉が自室として貰っている部屋だ。

 ベッドと机、チェスト、それに本棚を置いただけで部屋の床の殆どが埋まってしまうような小さな部屋だ。

 磁器のシンクにお湯を張った桶をはめて、きゅりきゅり鳴るカランを回して水で割る。何度か顔を洗って目の前の鏡を見ると、やはりばっちり、右頬とおでこに、腕とテーブルの痕が付いていた。

 ヘーゼルナッツ色の瞳の下にはばっちり、黒ゴマ色の隈。

 肩まで伸ばした栗色の髪はぼさぼさであっちこっちはねたりからまったりしている。どこからどう見ても……ひどい、としか言いようがない。

「失敗したモンブランみたい」

 彼女はうんざりしたように呟いた。

 それに体の節々が痛い。うんと伸びをして鎧戸を上げると、外はもう早朝の空気が陽にあたたまり始めたところだった。さっとカーテンを引いて汚れた服をカゴに放り込んで、長いシャツだけかぶる。

 紅茶の冷めないうちに食卓に戻ると、黄身が半熟のベーコンエッグが皿に載せられるところだった。それに、山盛りのサラダとパンが中央に盛られている。普段はカフェオレとクロワッサンくらいで簡単に済ませるのに、珍しい。

「おはよう、コニー」

 先に食卓に着いていた女性が優しく微笑んだ。

 年の頃は30程だろうか、動作の一つ一つがキビキビした女性だった。

「おはようございます、リゼットさん」

「昨日は大分疲れてたみたいだね」

「あははは……そうみたいです」

 誤魔化すように笑ってから、少女はしょんぼりと肩を落とす。指同様こちらも、太ってはいないが年頃にしては筋肉が付いてしなやかに引き締まっていた。

「……済みません。昨日はちょっと新作の研究に夢中に……なって……て……」

 声が語尾に従うに向かって小さくなっていったのは、後ろめたさからだった。

「昨日の『菓子職人パティシエコンクール』、でしょ?」

 リゼットは薄い青の瞳で彼女を見る。まるですべてお見通しといった感じだった。

「うっ」

「まぁた一人で仮想出場してたの? 全く、毎度毎度、寝坊して。本当に出るわけじゃないんだから、全力で取り組むことないんじゃない?」

「……ううっ。だって、テレビごしに素敵なお菓子を見ていたら、創作意欲がむくむくと、その」

「そりゃ、出れたらいいなぁっていうのは分かるわよ。だけど、ああいうのは長年修行を積んだパティシエが出場するものよ。自分で新作を作るのもいいけど、技術を目で見て盗んで再現する方を勧めるわね。っていうか、そのために店を早く閉めたんじゃないの?」

「…………」

 リゼット、と呼ばれた女性のあけすけな言葉に、コンスタンツァはぐっと押し黙った。

 確かにそうなのだ。

 賭け事をしないのに予想するようなもので……勉強だからと材料費を見過ごしてもらっているのに、寝坊までしては申し訳ない。

(勿論、リゼットさんがそれだけで言ってるわけじゃないのは、分かるけど)

 じゃなかったら今日が定休日とはいえ、叩き起こされていただろう。

「……やっぱりねぇ」

 リゼットは小さな溜息をつくと、まだ温かなパンを手に取った。

「何度も言ってるけど、焦りすぎなのよ。今のあんたは、一年前とちっとも変ってないわ。

 田舎から15で、たった一人、鞄一つで王都に来て、手当たり次第に菓子店パスティッチェリアに飛び込んで……」

 経験は勿論、住む場所がないので足元を見られまくり、タダ同然でこき使われそうになった一人の少女を、住み込みの菓子職人パティシエール見習いにしてくれたのが、リゼットとその夫のルベルティ夫妻だった。

 食文化、特に菓子に目がないこのフィオリシェルゴという国にあって、殆どの職人は同国人だったが、リゼットは珍しくフランス人のパティシエールだ。フランスからイタリア、フィオリシェルゴと流れ、この国に居を構えたのは結婚したからだった。

「……会いたいの?」

「はい。……あ、いいえ。……会いたいのは勿論ですけど、私が作りたいのは『魔法のお菓子』なんです」

 コンスタンツァは真面目な顔になって、決して大きくない両手を、ぐっと握りしめる。

「『魔法のお菓子』か。あんたの弟の恩人だったね?」

「弟と、私と、家族みんなの、です」

 きっぱりと言って、彼女は真っ直ぐリゼットの瞳を見つめる。

 コンスタンツァの二倍ほど生きてきた、親代わりであり師でもあり、「近所のお姉さん」でもあるリゼットは、少し気圧されたように頭を後ろに傾げながら、真剣なまなざしを受け止める。

 まだまだ若い、ひよっこの菓子職人見習いである彼女だったが、こういう時は一人前のような表情を見せた。

「私が10歳くらいの時です。私の住んでいた村に、旅の女性がやってきました。繁殖期で、畑を荒らす獣が多かったのを覚えてます。……街道沿いで獣に襲われたって、怪我をしていました。

 私が見つけて、家に運んで。治るまで二、三日泊めることになったんです」

 その時、コンスタンツァの小さな弟が高熱を出した。

 運悪く村の医者は隣村まで診療に行っていて、帰って来るのに時間がかかる……そんな時、その女性がお菓子を作り出したのだ。

 そのお菓子を食べると、弟は落ち着いて眠りにつき、翌朝には元気になった。

「みんな偶然だとか、病は気から、とか、お菓子に栄養があったんだろう、とかそんな風に言いました。だけど、私、横にいたから分かるんです。あの人の作ってくれたお菓子はそういうのじゃなくて……」

 思い出す。

 実家の粉っぽいキッチンで、作業台で、次々にひらめく手。指揮者のような指先。

 小麦粉、バター、卵にお砂糖。

 ありきたりの材料で作っていたはずなのに、出来上がったお菓子は田舎娘が今までに見たこともないくらい美味しそうで、そして、キラキラ輝いて見えた。

「……魔法みたいでした」

 ほうっと呆けたように言ってから、コンスタンツァははっとしたようにてのひらを口に当てて、首をぶんぶん振った。

「……い、いえ! 私、リゼットさんにも旦那さんにもすっごく感謝してるんです! こうやって右も左も分からない私に、基礎から教えてくださってるんですから!」

「何も初めからっていうわけじゃないけどね」

 リゼットは苦笑した。

「そんな『魔法のお菓子』が作れるかどうかは分からないけど……まぁ、素質は悪くない、と思ってる。ほら、これ味見してみて」

「は、はい」

 コンスタンツァは、目をしばたたかせてから、リゼットが押しやった小さな白い皿――の上に乗っかった、室温で戻されたバターを、ナイフに取った。

「あ、これ、いつものと違いますね」

「バルディさんのとこの試作品だよ。出来が良かったらちょっとだけど卸してくれるらしいよ。私はこの国の出じゃないけど、やっとウチも信用を得て来たかな」

「期待します」

 片手に取った焼き立ての自家製パンにナイフを滑らせると、バターがじゅわりと溶けてひまわり色が染みこんでいく。それは幸せの色で、彼女が世界で一番好きな色の一つだった。

 それに、香りもいい。自然発酵させたバターならではの香りだ。

「牛乳と上澄み(バターミルク)も貰ったから、後で味見してみるといい。それでパンを焼けば、もっといいね。これが次代のアンブロシアだそうだよ」

 いつも乳製品を卸してくれる牧場では、その牧場で最高の乳牛の名を、アンブロシアと名付けている。代々母牛から受け継ぐのが慣例だが、どうしても気に入った味にならない場合は他を当たらなくてはいけない。

 つい先日にも、牧場主が牛乳を持ってきた際、選ぶのに難航してるんだよ、とぼやいていたのを聞いて知っていた。

「今のアンブロシアは、もうそろそろ引退だそうですね。最盛期の味は見事でした。芳醇でまったりとしてコクがあって、それでいてしつこくなく……」

 ぼんやりと言いながら、コンスタンツァは視線をどことなくさまよわせる。

 ――乳かぁ。

 リゼットの胸元に目がとまる。大きく開いたカットソーの胸元から、立派な渓谷が覗いている。

 コンスタンツァは、思わず感嘆の息をついてしまった。

「師匠も、その胸見事ですよねぇ」

 まだ絶賛発展途上中の彼女とは大違いだ。とは言っても発展途上とは祈るような希望でしかない、という自覚はあるけど。

「あのね……大人の味覚には合わないから使えないよ」

「美味しかったらいいんですか」

「そういう問題じゃ――」

 リゼットは言いかけて、言葉を切った。

「ちょっといいか?」

 扉から顔を出したのは、のんびりした顔つきの男性。リゼットの夫であり共同経営者兼同僚でもある、ジャンニ・ルベルティだった。シンプルなシャツの上からエプロンをかけた姿が長身に似合っている。

「コニー、食べ終わったらちょっとお使いに行ってきてくれないか?」

 食べかけのパンを慌てて飲み込んで、コンスタンツァは顔を上げて首をひねった。

「は、はい! どこまででしょう?」

「<琥珀通り>まで。……ちょっと遠いけど、夕方までに帰ってきてくれればいいから」

 似合わないウインクをして厨房に戻っていく夫に、リゼットはまた息を吐いた。

「全くもう、ジャンニは甘やかしすぎ」

 と言ってリゼットが視線を食卓に戻した時には、コンスタンツァはぺろりと朝食を平らげていて、重ねたお皿を手に椅子から立ち上がっていた。

「コニー、早食いすると消化に悪いよ」

「はいっ、でも、早く行かないと! ご馳走様でした!」

 お皿をカタカタ鳴らして厨房に飛び込んだコンスタンツァの後ろ姿に、リゼットは肩を落とした。

「あれで、もうちょっと落ち着きがあればいいんだけどね。全く、何でこんな後先考えない子に育ったんだか」

「シェフ・パティシエの教育の賜じゃないか?」

「私の教科担当の腕だけは何とかね。あとは専門外だよ。あいにく、保育士の資格は持ってないんだ。……ところで、いいの? 折角の母校のチケットあげちゃって」

 コンスタンツァと入れ違いに、ジャンニは食後のコーヒーのマグカップを二つ持って入ってくる。椅子を引いて、腰を掛けた。

「何だ、見えてたのか?」

 その顔には苦笑いが浮かんでいた。

「16にしてはよくやってる。俺が16の頃なんてしょっちゅう寝坊してマンマに怒鳴られたもんだ。たまにはご褒美くらいあげたっていいだろう」

 はっはっは、と笑う夫の額を、リゼットは手を伸ばして、軽く小突いた。

「ジャンニみたいにいい加減なのが良くパティシエになれたよね。『学院』に入学できたのも奇跡だわ」

「コンスタンツァはその俺より若いし、情熱もある。もの覚えも悪くない。あと二、三年もしたら、『学院』の奨学金も取れるだろ」

 ジャンニはコーヒーの香りを吸い込んで、一口すすった。リゼットも口を付けて首を傾げる。

「どうした? コニーを出すのが寂しくなったか? スキンシップが減ったのが俺は寂しいけど」

「……そのもの覚えも悪くないのが言う『魔法のお菓子』のレシピに、私にもジャンニにも心当たりがないのがね?」

「そりゃ10歳だったし、弟の看病で焦ってたんだろー? 忘れててもおかしくない」

 ジャンニはのんびりと言って、どこからか取り出したチョコレートを一粒、リゼットのてのひらに載せた。

「そんなことより、お前もたまには休めよ。そうだ、これからショッピングでも行かないか? コニーも夕方まで帰ってこないんだし」

「いいけど、何で急に?」

「たまにはスカートはいたリゼットが見たい」

 リゼットは今度こそ、憚ることなく大きなため息をつきそうになってから――大柄な子犬のような夫の視線に負けて、しぶしぶ首を縦に振った。


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