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一面を埋め尽くすような白い花。
頭上にある昼の太陽に照らされて匂い立つ、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
胸一杯に甘い空気を吸い込むと、お腹まで薄甘い綿菓子を食べたような気分になる。
見渡すばかりの丘陵を埋め尽くすのは、林檎畑だ。夏を過ぎた頃にはみずみずしいペリドットが、秋になれば紅玉が鈴のようになる。
りんごはそのまま、或いはジャムに、或いは林檎酒となって、雪が積もる前にはこの街からほとんど出て行ってしまう。
ただの悪ガキだった頃、一番の「獲物」はりんごだっただけあって味には飽き飽きだったが……甘い香りに反応したせいか。想像しただけでも容赦なく腹が鳴って、胃がきりきり痛み始めた。
今日の早い夕ご飯はもう済んでしまった。育ち盛りの体が必要とする量が満たされることはなかった。お腹いっぱい食べられるのは、誕生日だけだ。
それでもわがままを言うわけにいかない。教母様も小さな弟妹たちも、我慢しているんだから。
一つ頷くと、少年は起きあがり、脇に置いた大きな肩掛け鞄を担ぎ直して、土をならした道を林檎畑に点在する小屋に向かって歩き出した。
鞄の中からは新聞の束が覗いている。家で新聞を取る余裕のない人たちが、仕事場で共同で買っているのだ。
小屋を回って届けるのが毎日の日課。週に一回貰える僅かな賃金は全て教母様に渡して、そのまま自分たちの食費になる。だからお腹いっぱい食べれないのは自分の稼ぎが少ないせいだ。
孤児院のこども達の中で働ける年齢の男は、自分しかいないのだから。
考え事をしていたせいだろう、小屋の前で新聞を取り落としてしまう。そしてその新聞におり込まれたチラシが、風にひらりと舞った。
「あっ」
少年は手を伸ばしてチラシの端をひっつかむ。それは黄色の紙に赤で刷られた色鮮やかなチラシだった。
踊っている飾り文字、歌っている貴族風の男女のシルエット。
「セビリアの理髪師──セント・アンセルモ公演。ええと……オ、ペラ……オペラ?」
口の中で言葉をかみ砕く。
言いなれない言葉だが、教母様から聞いたことがあった。台詞の代わりに歌って進める劇のことだ。それも沢山の楽器が生演奏で盛り上げるという。
暇があればリンゴ畑に向かって歌う位しか気ままな楽しみのない少年にとって、チラシは興味を引かれるものだったが、入場料を払えるわけもなかった。
くしゃくしゃと丸めて捨てようとした時、掌の固い感触に気が付いた。広げてみれば、どうやらチラシには、チケットが張り付いていたようだ。
チケットには、最終日に慈善用の立ち見席が用意されると書いてあった。
一瞬だけ考えると、そのチラシを広げて掌でしわを伸ばし、折りたたんでポケットに入れた。
少年はチラシの抜けた新聞を小屋の郵便受けに放り込み、次の家目指して駆けだしていった。