3 美冬
ピピピピッ。
脳内に電子音が響いた。
「……うるさ」
スッと手を出すとボタンを押し、その音を消した。
一瞬で戻る静寂。
しかしそれもすぐ壊されてしまった。
ばんっ。
「おはよーっ。お姉ちゃん?朝ですよー」
朝から元気な声で部屋に飛び込んできたのは。
「……冬香」
「はい。あー、また。駄目じゃない。目覚まし時計を止めて起きないのは意味が無いわよ。さあ起きて。遅刻するよ」
そして、妹は私から布団を引き剥がしにかかる。
「ん?」
私はたった今鳴っていた目覚ましを見て、仰天する。
「もうこんな時間?」
「だから早くと言ったじゃない」
目覚まし時計に設定していた時間よりも、一時間遅い起床だった。
「……今日、クラス合唱の朝練入ってたのに」
「残念でした。そんなことより学校に遅れちゃうことの方が今は重大な問題でしょ」
私は妹の言葉に、渋々布団から這い出た。
「おはよう」
「……おはよう」
私が低血圧で、寝起きがよくないのはいつものこと。
声を掛けた母はそんな私に苦笑する。
「お姉ちゃん、まだ起きてないでしょ。お姉ちゃんが朝練なんて無理に決まってるじゃない。無謀な挑戦は止めときなよ」
軽口を叩きながら、冬香が私の前を通り過ぎる。
「分かってるよ」
返事をするのさえ煩わしい私は、短く答えた。
冬香は普段は大人しい女の子だ。軽口を叩くなんて普通はしたりしない。私に対してだけだ。それだけ心を開いてくれているのだろうと思う。
父が新聞から顔だけ上げると、言った。
「朝練?美冬が?それは……何とも無謀な」
「もう!父さんまで!」
私はむっとした顔を作る。
母も笑って私の分の朝食を運びながら言った。
「だって、今は学校への遅刻が心配な時間よ。全く、朝練なんて出来るはずもないでしょうに」
家族全員から笑われ益々むっとした私は、剥れながら朝食であるトーストに大きくかぶりついた。
「行ってきます」
私はそう言って、家を出た。
冬香は既に家を出てしまった後だ。徒歩通学だが彼女は走って学校に向かう。冬香は足が速い。前は駅伝部にも冬限定で入っていた。彼女はそれなりに楽しそうだったのに、二年前の冬にもうやめると言い、退部した。
「どうして?」
私はあの時、彼女にそう聞いた。
「嫌なものを見てしまったから」
彼女が言ったのは、それだけだった。
でも、私の中ではまだ疑問の形が残ったままだった。
「おはよう」
挨拶をしながら私は教室に入る。
「おはよう。ね、今日はどうしたの?朝美冬が来なくて、皆不思議がってたよ。真面目な子なのにって」
声を掛けてきたのは、小学生のときからの親友である雪乃だ。長い付き合いだから、どうして朝練に来なかったかなんて分かっているくせにと思う。
「寝坊したの」
気が向かないが、彼女の望み通り自分で理由を口にする。
雪乃は満足そうだ。にやりと笑い、小さく鼻を鳴らした。
そんな二人に、副委員長が近づいてきた。
「美冬さん、今日はどうしたんです?朝、来なかったので、驚きました」
「すみません」
「寝坊だそうですよ」
にやにやしながら、私の代わりに雪乃が告げる。
「……以後、なしにしていただきたいものですね。それと!雪乃さん、あなたも」
「なんですか」
「きちんと委員長としての役目を果たしてくださいね」
はいはーい、という気の無い返事をにこにこと返す親友を見て、私は思わずため息をつく。
このどうしようもない委員長の言葉を信じたのか、仕方なく諦めたのか――私の予想は、後者であるが――副委員長はそれ以上何も言わずにその場を立ち去った。
「……明日は、ちゃんと来るから」
雪乃にそう言うと、彼女は笑った。
「真面目なのはいいけどさ、美冬」
「はい?」
「無理な約束は、しないほうがいいわよ」
私は、彼女の言葉に何も言い返せなかった。
代わりに、彼女の頭を少しだけ強めに殴ってやる。グーで。
その後彼女はいろいろ言ってきたが、気にしないことにした。
……思い返してみても、私は幸せだったと思う。
ううん、勘違いしないで。今だって楽しいし、幸せ。でも今とは違う。あの時の幸せとは、質が違うの。
仲のいい大切な家族が居て、大好きな友達が居て。真実を知らない私が居て。
あの幸せは、絶対に壊れないと思っていた。
でも、そんなものは続くものではなかった。今思えば、元々そんなものは無かった。
それを私は知らなかった。
笑わないで。
永遠というものを、無邪気に信じていた私を。
川辺を私は歩いていた。
夕方になり少しだけ涼しく感じる風を、私は体で受け止める。
「お姉ちゃん?」
後ろから、私を呼ぶ声がした。振り向かなくても分かる。私を「お姉ちゃん」と呼ぶのは一人しかいないから。
「……冬香」
私は、言ってからゆっくりと振り返った。
それはやはり冬香だった。
やはり帰りも走っていた冬香は、スピードを私のところでぐっと落とす。その体は汗でびっしょりなのに、彼女自身は全く息を乱していなかった。
「今帰り?」
私は彼女に聞いた。冬香は中学三年生で、今は夏とはいえ高校受験を控えている身だ。こんな時間まで学校に残っていたことはあまり無かった。
「ええ。まあ、少し皆とおしゃべりしてたのよ」
冬香はふわりと微笑む。姉の私の目から見ても、彼女は可愛いと思う。人気があるのもなんとなく分かる気がした。
「あら、それはまた珍しいわ。」
「お姉ちゃんこそ、こんな時間に帰るなんて。どうかした?」
「何も。朝練に行けなかった代わりに、雪乃にみっちり指導されちゃってね」
案外厳しいのよ、と言うと冬香はふふっと笑った。彼女の笑い方は私を安心させる。爽やかな風が心を吹き抜けていくような、そんな感覚を引き起こす。
「歌えるの?」
彼女は私にそう聞いた。私は頬を少し膨らますと、言った。
「馬鹿にしないでよね。コレでも中学生のときは、ソプラノのパートリーダーだったのよ」
「中三のとき、同学年が一人……だったかしら」
当たっているだけに、何も言えない。
「でもわたしはお姉ちゃんの歌、好きだな」
冬香は、ボソッと呟いた。その顔は少なからず赤い。彼女の照れた顔は、また可愛かった。
嬉しくなって、頭を撫でてやる。
「……何よ」
「別に、何となく」
冬香は不満そうだったが、嫌がらなかった。私の手を振り払いもしない。ただ黙々と帰路を辿る。私と並んで。
私は彼女の頭を撫でながら、思った。
――神様。
私は冬香が大事です。とても、大切です。
私はどうなってもいいから、冬香のことは守ってやってください――
姉の役目は、きっちり果たすから。
いや、冬香のことは私がもし姉でなかったとしても守ってやりたいと思った。
「美冬、冬香。少し降りてきて。話があるから」
そう、ことの終わりはいつも唐突だ。
そしてそれに気付けない人は、とても幸せなのだろう。
私は、そんな「幸せな人」の中の一人だったから格別嫌な予感もせず、母の声で階下のリヴィングに降りていった。冬香も訝しげな顔をしつつ、私の向かいの部屋から顔を覗かせ、階段をとことこと降りてきた。
「どうしたの」
いつもはこんな遅い時間にわざわざ呼んだりしないのに、と私は思って聞いた。午後九時。明日こそきっちり起きたいと思いもう床に就こうとしていた私は、面倒くさいなと思っていた。
母は冬香によく似た、私を安心させる笑みを顔に浮かべた。
「ねぇ。二人は、あなた達に対する母さんと父さんの態度は分け隔てなく公平だったと思うかしら」
これはまた変わった質問だな、と私は呑気に思った。呼びつけてまでする質問でもないと思う。
冬香はすぐさま言った。
「そうじゃなかったというの?」
「……いいえ。そうならないように、心して接していたから」
ならいいじゃないと私は思ったが、冬香は問いを重ねた。
「……ということは、何か隠していることでもあるのね。そうでもなければ私たちを呼んでそんなくだらない話なんてしないでしょう」
彼女の言葉に、私は目を見開いた。
母は困ったように手を頬に当て、言った。
「その通りよ。私達は、あなた達に伝えなくてはならないことがあるの」
そして、まだ立ったままの私達に母が言った。
「とりあえず、座ったら」
と。
汗が浮き出てきた。こんなに汗が出てくるのは今日は熱帯夜だからという理由だけではないだろう、と私は思った。
こんなに汗が出た、その理由は無論、たった今母が告げた内容だ。
「美冬も冬香も、私達の子ではないの」
彼女は先刻、そう言ったのだ。
「どういうことよ」
「どちらか」ではなく、「どちらも」だ。
頭でいろいろな言葉がぐるぐると回る。
だが、俯いて口を開こうともしない母に代わって私の問いに答えたのは父だった。
「言葉通りだよ。二人は、私達の本当の子ではない」
それまで黙って聞いていた冬香が、泣きそうな目で言う。
「……何で」
俯いてしまっている母を見て、父は言った。
「……こいつは不妊症だった。治療はどれもうまくいかず、痛みも伴い、結局止めたいと言い出した。私はこいつの願いを聞き、止めさせようとした。でも、どうしてもこいつは子供が欲しいと言った。それを諦めようとはしなかった」
私と冬香は、父の言葉を信じられない気持ちで聞いていた。当たり前だ。今まで自分達は同じように母のお腹から産まれてきたと思っていたのに、その母が不妊症だなんてどうして考えたりするだろう。
「その時期だったな。捨て子を見つけたのは。それが、美冬だった」
温かい、いつも通りの父の声。
だがそれに私はびくりと身を震わせた。
そんな……私が、捨て子?
「冬の昼頃……だったかな。冬だというのにぽかぽかした、気持ちのいい日だった。そんなときにお前が籠に入ってすやすや眠っているのを発見したんだ。このご時勢によくこんなところに赤ん坊なんて捨てるなと思ったが、生後間もなかった赤ん坊を、私は拾って帰った」
母はとても喜んだそうだ。私を二人して可愛がってくれたらしい。
私は捨て子だったという事実にはショックを受けつつ、両親が私を可愛がってくれていたということを嬉しく思った。
「だが、その三年後だ。こいつの……」
「双子の姉が、ある研究に参加すると言い出したの」
父の言葉を遮り、母が俯いたまま、思い切ったように言った。
「それが……クローン人間を作るという研究だった」
母の言葉に、私と冬香は、二人して息を詰まらせた。
「姉は『卵子をサンプルとして差し出すのだ』と言ったわ。だから私がお願いしたの。『その子は、私に産ませて欲しい』と」
母は自ら子を産むということを諦めていなかったのだ。身内の、しかも双子の姉の卵子ならば、受け入れられると考えたのだろう。
「姉は私の決意を汲み取ってくれた。私は姉の卵子で出来たクローン胚を身籠ったわ。でもそんなときに、姉が亡くなったの。事故で」
妊娠中の母には、凄い精神的ショックであったそうだ。だがこの子は亡くなった自分の姉の為にも産むと決意を新たにし、何とか持ちこたえたらしい。
「そうして私のお腹から産まれてきたのが冬香。あなたなの」
優しく、母が言った。その目は、冬香に向けられているのに、冬香は母から目を逸らした。
「それで、どうして今更そんな話を……」
呻くように冬香は言った。この状況が理解できないのだ。それは私も同様だった。
「最初に聞いただろう。『私達のお前達に対する態度は、対等だったか』と」
父の視線は、ずっと母に注がれている。
母は、父の台詞を受けて言葉を繋いだ。
「私は自分の姉の、分身とも言える冬香を自分のお腹を痛めて産んだ。……私は、それでもあなた達に同じように愛情が持てると思った。でも」
――ソレハ、ムリダッタ。
「もう駄目なの!美冬が倒れれば『冬香でなくてよかった』とホッとしてしまうことも、冬香が怪我をすれば『どうして美冬じゃなかったのか』と思うのも。もう……もう、駄目!!本当に、駄目な親に成り下がってしまったから」
ごめんなさい。
ごめんなさい。
母は、泣き叫びながら頭を抱え込んだ。
「美冬……」
父に声を掛けられる。
――え?
どうしてかな、顔が良く見えないよ、父さん。
「美冬……」
もう一度、ゆっくり名前を呼ばれた。
ああ、これは私の涙。
まいったな。泣き腫らした目のままじゃ、明日また雪乃にからかわれちゃう。
「……すまない」
父は、一言謝った。
「え?」
どうして父が謝るのか分からず、私は聞き返す。
途端に、腹に衝撃を感じた。
「どうして?父さん」
冬香は、自分の姉を殴って気絶させた父にそう聞いた。
「……仕方ないんだ。私は何があってもこいつを守りたい。こいつは、冬とはもう暮らしていけないと言った。冬香のことが大事だと言った。どちらも叶えてやりたい」
父は優しげに、泣き続けている母を見る。
「でもっ!それでお姉ちゃんは……」
「それに」
父は、反論しようとした冬香を抑えるように言う。
「……クローンは用済みになれば壊す人も居るようだが、普通の人間相手にそれは出来ないからな」
――わたしは、普通の人間じゃないの?
そう聞きたいが、冬香は聞けなかった。自分が「壊される」かもしれないという恐怖が、冬香の口を塞ぐ。
代わりに、目を閉じている姉を見る。
――ごめんなさい。臆病なわたしに、お姉ちゃんを救うことは出来ない。
でも、あなたはわたしのお姉ちゃんだから。
分かってくれるよね?
私は、恐る恐る目を開けた。
「ここは?」
家ではなかった。朝日が木の間から差し込んでいるのが分かる。頭が痛い。私は木にもたれかかるようにして眠っていた。
――ここは森の中……?
それにすぐ気付いた。こういう時には、朝でも良く働く自分の頭が恨めしい。
「……私はまた捨てられてしまったのね」
私はその事実に気付かされ、唇をかみ締めた。
でも、いい。
――冬香はきっと無事だろうから。
彼女を守れただけで、満足だった。
私は、当ても無く森の中を歩く。
すると大きなレンガ造りの建物を発見した。人気の無い森の中ぽつりと建っているそれは、なかなか立派に見えた。
迷っている暇なんて無かった。
私は、インターフォンを鳴らす。
すると、向こう側からノブが回り、ゆっくりとドアが開いた。