転)天国と地獄
少しずつ、生前の記憶が蘇ってくる。
「僕の人生、運がなかったのか、悲惨なことが多かったな」
勿論、小さな幸せが無かったわけでもない。両親とも優しく愛情を注いでくれた。
――定ちゃんは優しくて、人の気持ちがよく分かるいい子。
母さんはそう言って、いじめられて帰ってきた僕を慰めてくれたんだっけ……。
「天国に来たあなたは、現世のようにもう苦しまなくていいのです。病気も怪我の心配もなく、歳を取ることもない。全ての苦悩から開放され平穏な日々をここでは過ごせます」
「ここではどのように過ごせばいいのですか?」
「気ままに過ごせばいいのです。散歩をしたり、歌を歌ったり、踊ったり、書物を読んだり、テレビを見たり、ゲームしたり等など」
「テレビにゲームですか……」
「そういうものはちゃんと俗世界から取り寄せています」
TVモニターのチャンネルを変えると、周りを緑に囲まれた大きな建物の映像を表示された。
「快適な生活は住まいから。わたしのいる神殿から徒歩5分、新築マンション2LDK、衛星放送、光ケーブル回線装備、敷金礼金、なんと家賃まで0円」
自慢げにTVモニターに映しだされた物件の説明をする。
「質問ですけど、近くにコンビニとかスーパーなどはありますか?」
「それはありません。ここには食料品はないのです。天国ではおなかも減らないし、そもそも食事を摂る必要がないのです」
「……カップラーメンが食べたかったのに」
「インスタントラーメンは健康のためによくないですよ」
「病気をしないのなら、健康に気を使う必要ないし、なにより、マンションのダイニングキッチン(DK)も不要じゃないですか」
――ドカッ
「2Lだと安物のアパートみたいに聞こえるでしょ」
「この天国にはどれくらいの人がいるのですか?」
「以前はゲートボールのチームが千チーム以上出来るほど人がいて、すべての公園はお年寄りで溢れかえっていたのですが……」
「減ったのですか?」
「ええ、ゲートボールのブームも去って、公園で見かける人の数はめっきり減りました」
「住人の趣味を聞いてるわけじゃないんですけど……」
「あなたみたいに、若くてマゾっけたっぷりのいじめ甲斐のある男性は久しぶりです」
「女神様の趣味を聞いてませんけど……」
「いまの教祖様の信者勧誘が下手なのか、それとも人徳の無さなのか、この天国に訪れる人の数は激減しています」
と、ため息がもれた。
「まあ、信者を横取りするような教祖なら納得です」
「更に、地獄へ落とされる人の割合が増えているのです。今の俗世は物質社会が進んで生活は豊かになりましたが、心が貧困になったせいもあるでしょう」
「地獄の様子をご覧になりますか?」
「いえ、あまり見たくないのですが……」
「まあそう言わずに、せっかくですから」
女神様はまたモニターのチャンネルを変える。
そこに映しだされたのは、鉛色の雲が空を覆い尽くし薄暗く、切り立った岩の山々は雪がつもり、平地でも雪が降っているが、強風で積もるまもなく地面から巻き上げている。草も生えていないのか緑もなく、凍てつく大地であり白と焦げ茶色の二色しか見ることができない。
「この地獄は、この天国の下層に位置する世界です。太陽の光も差し込まず、魂も凍りそうになる氷の世界です」
見ている僕までも体が冷えそうだった。
「ここを見てください」
中央に白い線が見える。
「この白い道のようなものは、凍った河です」
映像は、次第にその河を拡大していく。
河の岸には黒い人影が無数に動き、堤防を挟んで数えきれない茶色い掘っ立て小屋が建っているのが確認できる。
「罪を犯した人はここで労役を課せられるのです。彼らは河の縁の土を盛り、山から石を運び、それを積み上げ堤防を造る。それを毎日永遠に行うのです。それでも、数日に一回、河の氷を巻き込む洪水が起こるのです。堤防も決壊し多くの人が流されます」
「流された人はどうなるのですか?」
「魂の消滅です。これは彼らにとって最大の恐怖です。ですから彼らは壊れても壊れても、毎日土を盛り石を積み上げ堤防を造るのです」
ーー彼らはいつ終わるとも知れない無益な労働を強いられているのか。
「天国に召された人は哀しみ、怒り、恐れなどの負の感情や欲は次第に消え去ってしまいます。地獄に堕ちた人は逆に、喜び、楽しみなど正の感情は消え去り、常に負の感情や欲によって支配されるのです。それらに魂を蝕まれ精魂尽き果てた者は、洪水に巻き込まれ消滅してしまうのです」
映像は彼らの表情が確認できるほどズームアップされた。
彼らの疲れた顔は苦痛に苛まれているようにしか見えない。スコップで土を盛る人、二人で木の棒を肩にかけ、それに石や土を乗せた板をぶら下げ運ぶ人。見た限りでも寒さが身にしみるであろうが、ほとんどの人が擦り切れた薄手の服を着て、素手、素足で作業をしている。作業をする半数以上は老人であるが、中には中高生と思われる年齢の人物もいる。彼らを見ていると気の毒でしょうがない。
彼らを監視しているのか、全品黒ずくめの人物が所々立っている。フード付きのコートを着て手には鞭のようなものを持ち、猟犬を連れている。その一人がこちらを向く。
僕は驚きのあまり叫んでしまった。
「悪魔だ!」
その人物の顔は憎悪に満ちた山羊の顔であった。慌てふためく僕に向かって落ち着かせるように話しかけた。
「わたしの話を聞いてください。その人物は悪魔ではありません。家畜であった動物の霊が擬人化したものです」
「動物の霊?」
「人間にこき使われた、命を奪われた動物たちの魂の集まりです。牛の顔を持つもの、馬の顔を持つ者もいます。そして、この世にきてもなお、人間に対し憎しみを抱き、作業を中断する者や逃げ出そうとする者に鞭を振るうのです」
「動物にも魂があり、この世に来ると立場が逆転してしまうのすか」
映像は更に続く。それを見ながら女神様に話しかける。
「地獄には鬼がいて、悪人が釜茹での刑にされたり、針の山を歩かされたり、そんな昔話を小さい頃に祖父に聞かされたものです」
「それぞれの宗教、宗派によってそれぞれの天国、地獄が死後の世界には存在するのです。そして、魂はふるいに掛けられ、清き魂のみ俗世に戻ることができます。これが輪廻です」
女神様の方を向いて、真面目に問う。
「地獄に堕ちた彼らは生まれ変わることができますか? 僕もまた生まれ変わることが出来るのでしょうか?」
「与えられた労役に耐えた浄化された魂は、いずれ地獄を支配する女神の力で俗世に転生することになります。そしてあなたの場合は、ここで前世の記憶を失うまで安穏とした生活を送りさえすれば俗世に戻ることも可能です」
にっこり微笑んだ。その笑顔を見て心が和らいだ。しかしモニターの彼らを見ると心がやはり痛んだ。
モニターに記憶にある人物の顔が映った。
「あ、タケシだ!」
死亡の瞬間の映像にもあった、小学生のときによくいじめられた相手だった。
「何故彼が地獄に…… それにまだ子供じゃないか……」
「彼はあなたと同じように中学生のとき、不慮の事故で死んでしまったのです。イジメっ子の性格のままで……」
僕は両膝を抱え顔を伏せた。
優しく僕の肩に手を置いた。
「人は他の生き物の命を犠牲にして生きながらえるものです。しかしあなたは結果的に他人に施しをし、最後は命までなげうった。神の前ではそれはら尊い行いです」
促されたように顔をあげた。
「僕には滑稽な人生にしか思えませんが……」
「人は運、不運をよく口にしますが、幸運であったことを神に感謝し、不運であったことを自らの無能さを戒め、与えられた試練であることを自覚した人でなければ、この天国には召されないのです。そしてあなたはその資格があったのです」
女神様の声は優しかった。
「結果論で言えばあなたは幸運だったかも知れません。それは、あなたはが他人の痛みが理解できたことです。あなたはいじめられることで天国に召され、あなたをいじめたことによって、地獄へ落とされるものもいるのですから。それから生前、不幸だったから、死後は天国に召されるわけはありません。他人の物を盗んだり、他人の命を奪ったものは、それが自らのいのちを守るものであっても許される行為ではないのです。」
「では、過ちを犯したものはみんな地獄行きになるのですか?」
「いえ、生きているうちに罪を認め悔い改め、善い事を行えば自ずと罪は消え去るでしょう。しかし、その数は少ないのも事実です。自らの罪を認めるのは人にとって難しい行為です。諌めるものが周囲にいない限り……」
その話を聞いて僕は愕然とした。
「僕がタケシを諌めることが出来ていたなら、そうならずに済む可能性もあったのか……」
「彼が地獄に落ちたのはあなたのせいではありません。自らが招く結果ですから……」
僕は、はっとした。
「片思いの彼女の場合はどうなるんだ?」
「彼女の代わりにあなたが事故にあったのですから、あなたの命を奪ったのに等しい。謝罪なり、感謝の意がなければ、彼女も死後、地獄に逝くことになるかも知れません」
「――そんな」
「先程も言いましたが、人とは他の生き物の命を糧として生き長らえるものですが、その感謝の意を忘れてしまうようでは、天国に召されることはありません」
「僕はもうこれ以上、僕のために地獄へ逝ってしまう人を見たくはない。彼女を助ける方法はないのか?」
「ないことはないのですが……」
「でわ、あるのですね」
「しかしそれは……」
それでも躊躇している。
「仮にも一度は好きになった人だ。見過ごすわけには行きません。どうかその方法を教えて下さい」
「しかたありませんね」
「現世に生き返り、彼女に謝罪なり感謝の意を求めることです」
「え?」
「あなたの本来の寿命はまだ尽きておりません。わたしも神の端くれ、あなたの魂をすぐに俗世にある肉体に戻すことは容易いことです」
「それは本当ですか」
「しかし、次回はこの天国に来ることはできないかも知れません。一度今までの善行はリセットされますので。それに、あなたの思いは彼女に届かないかも知れなません。それでも生き返りたいのですか?」
「はい」
少し気落ちしたようにも見えた。
「生き返るとための、あなたに衝撃を与えなければなりません。生き返ると痛みも感じるようになります。覚悟してください」
女神様は立ち上がり、大きな金槌の杖を握りしめた。
――あ、殴られるんだ……
目を閉じ正座しなおし覚悟を決めた。昔の武士が切腹するときこんな気持ちだったかもしれない。そう思った。
「準備はいいですか?」
膝の上に置いた握りこぶしを握りしめた。歯を食いしばりその瞬間を待った。
――チュッ
唇の柔らかい感触を感じた。
――胸が締め付けられるように痛い。キュンとした。
今まで感じなかった痛みを感じた。
次第に体中のすべての箇所から痛みが伝わってくる。
――生き返ったのか……
「――痛てーーー!」
悲鳴は部屋中にこだました。