この作品は一年以上更新されていません
「え、…?」
メアリーは何度も指先で虚空をなぞった。しかし、無情にも先程のまま。新たな文字は現れない。もう一度、指先を逆になぞり、先ほどまで読んでいた文章へ戻る。更にもう一度、読み進めようとなぞるが、文章はそれ以上続かなかった。
──いや、一つだけ。
『この作品は一年以上更新されていません』
その文だけが、浮かび上がる。メアリーはガタリ、と音を立てて椅子から立ち上がった。これは、由々しき事態。
頼りになる婚約者の元へと、走り出したのだった。
◇◇◇
女神はかつて、異界からこの地に降り立ったという。この地の人間と想いを通わせ、力を惜しみなく人々に分け与えた。今でも人々は、5歳になると固有能力を開花させ、生活に活かしている。
伯爵令嬢メアリー・ライズも例に漏れず、5歳で教会に赴き洗礼を受け、能力を開花させた。彼女の能力は、異界の書物を読めるというもの。読みたいと思って手を伸ばせば、手元の空間に文字や絵が浮かび上がる。指でその端をなぞれば、次の頁へと進んでいく。
最初読めたのは、絵本だった。この世界にはない食べ物や乗り物に、メアリーは憧れを抱いた。特に心を強く揺さぶったのは「ほっとけーき」という食べ物だった。絵本の主人公が友達と作り上げた、フワフワして甘くていい匂いがするというもの。あまりに美味しそうに食べるものだから、気になって仕方ない。でも、作り方が分からない。何せ、異界の書物を読めるのはメアリーだけだったから、家族やコックにもうまく伝えられなかった。
そんな中、生まれた時からの婚約者にぽろっとこぼしたのだ。
『ほっとけーき、食べてみたい』
婚約者──カイン・アイスナーは目を丸くした。いきなり何を言い出すんだろうと思ったのだろう。でも、この時のメアリーはとにかくほっとけーきが気になって仕方なかったのだ。婚約者とのお茶会よりも。
『ほっとけーき』
『そう。私の能力でよめる本の中に出てくるの』
当時はまだ整髪料をつけず、くりくりとした髪のままだったカインは、もう一度ほっとけーき、と繰り返してからメアリーを見つめた。
『僕、作れるかも』
『え!?』
それからは速かった。カインに言われるがまま、小麦粉に砂糖に牛乳に膨らまし粉に油にと下働きをお使いに出して買い集め、一緒にキッチンに立つ。
お坊っちゃまをキッチンにいれるなんて、と恐縮していたコックは退けた。ほっとけーきが大事。両親は心配なようですぐ傍に控えていた。
しかし、心配は杞憂だった。カインはまるでコックであるかのように、流れる動作で調理していき、少し経ったらあの絵本でみたものがそこにあった。
本当に、甘くて何だか優しい匂いがする。
『多分、これじゃないかな』
さあどうぞ、と出されたお皿の上。輝くほっとけーき。一口食べて、思わず叫んだ。
『美味しい!!』
『それはよかった』
にこりと微笑むカイン。その日からカインは、メアリーにとって神様のような存在になった。何せ、メアリーが本で見たことを伝えると、何でも作ってくれるのだから。材料さえあれば再現できる能力だという。困ったことがあったらすぐカインへ、というのが骨の髄まで身に付いていた。
だから。
今日のこの不可解な現象も、なんとかしてくれるに違いない。
◇◇◇
「と、いうことで来たの!」
「…あのね、メアリー。今何時?」
「おやつの時間より少し遅いわね、あ、おば様、私夕飯一緒に食べてもいいでしょうか」
「勿論よ、メアリー。コックに伝えておくわね」
「ありがとうございます!」
カインの家は、メアリーの家のお隣さんだ。婚約者というか幼馴染みというか、もはや家族のように普通に馴染んでいる。先触れもなしに執事に挨拶したら、談話室に通される。それだけの距離感。
おやつの時間というか早めの夕飯の時間に来たメアリーにカインは小さくため息をつき、ソファーに促した。メアリーは待ってましたとばかりに、使い慣れた自分の部屋のようにお気に入りの特等席に収まる。
「それで、何があったの。わざわざ走ってくるなんて」
カインが呆れ半分で尋ねると、メアリーはごくりと唾を呑み、大真面目な顔で宙に向かって手を伸ばした。
「ちょっと待ってね」
メアリーの白い指先が空をなぞると、淡い光とともに、この世界のものとは違う四角い文字がメアリーの視界に表示された。
カインの能力は再現だが、異界の書物を読めるのはメアリーだけ。再現できるだけの情報を伝えなくてはならない。
「あのね、『黒銀の騎士は辺境から成り上がる』って本を読んでたんだけど」
「ぶっ!」
「えっ平気!?」
「ごほ、ん、へ、平気だから…」
珍しいカインの噎せる様子にメアリーは思わず言葉を止めた。
一方カインはというと。心配そうに見つめられ、少し居心地が悪くなっていた。別に風邪ではない。ただ。
(大学の頃、就活の現実逃避にノートパソコンでカタカタ書いてた、黒歴史web小説!!)
カイン・アイスナーが前世を思い出したのは、5歳の時だった。洗礼を受け、能力を開花させた時に記憶が流れ込んできたのだ。授かったのは、材料さえあれば知っているものを再現できる能力。
前世も思い出したしこれはチートできる!と息巻いたはいいものの、その物を知っていても材料が何なのか分からなければ、そしてその材料を用意できなければ何も出来ない。全能感はすぐに消え失せた。
しかし、婚約者とのお茶会。メアリーがこぼした、ほっとけーきという単語。
そのくらいならすぐ出来る。初めて再現能力を使ったが、本当に何の迷いもなく作ることが出来た。そのことに若干感動しつつメアリーに目を向けると、そこには蕩けるような笑顔でホットケーキを口にする姿があった。
どくん、と胸が高鳴る。
この可愛い顔は、自分の力が生み出したと思うとたまらない気持ちになって、カインはその後メアリーが気になるもので自分が作れるのなら、何でも作ってあげるようになったのだった。
そう、カインは転生者だった。そして、メアリーが読んでいるのはカインの──。
カインの心臓がバックバクと早鐘を打ち始める。まさか婚約者の「異界の書物を読む能力」の接続先が、前世の自分が使っていた某小説投稿サイト、それも自分のマイページだったなんて誰が予想できただろうか。
「カイン、顔色が悪いわ。大丈夫?」
「変なところに入っただけだから、平気。ごめん話の腰を折って、それでどうしたの?」
「『この作品は一年以上更新されていません』って出てくるのよ」
メアリーはカインの手をきゅっと握りしめ、悲痛な面持ちでスクロールされた最下部を改めて見た。
『この作品は一年以上更新されていません』
変わらない文字列が並んでいる。
「主人公のアルフレッド様が、囚われたヒロインを助けるために宿敵の城へ単身乗り込んで、『待たせたな』って扉を蹴破ったところで、時がピタリと止まってしまったの! その先に進もうとすると、この文字列が私を阻むのよ!呪いとかなのかしら…」
「そうなんだ…」
(違う。呪いじゃない。ただ単に『次の展開どうしよう、あ、インターン始まるからもういっか』って止めただけだ)
適当に返事をしながらカインの頭は素早く回転していた。とにかくこの話を止めたい。しかし、メアリーは涙目でカインを見つめてくる。その瞳は潤み、完全に頼り切った光を宿していた。
昔からそうだ。ホットケーキの時も、前世の便利グッズを強請られた時も、カインはこのうるうるした瞳に滅っぽう弱かった。メアリーに泣きつかれると、どうにかして叶えてあげたくなってしまうのがカインの悲しい性だった。
しかし、今回ばかりは無理だ。
だって、続きのプロットなんて考えていなかったのだから。この世のどこを探しても、カインの脳内の、風化しかけた記憶の底にしか存在しない。
「ねえ、カイン。この呪いを解くか、本自体を再現できないかしら。続きがどうなるのか、アルフレッド様は助けられるのか気になって仕方ないのよ!」
「あ、いや、ええと……メアリー。落ち着いて」
本当のことを言えば、メアリーは幻滅するだろう。その作者は、ただの飽き性な男で、しかも目の前にいる婚約者ですなんて、自分のプライドが粉々に砕け散る。
「その呪いはね、非常に強力なんだ。異界の、そう、作者のモチベーション消失という邪神の呪いだから、僕の力でも解除はできない、かな……」
「そんな……! じゃあ、アルフレッド様は一生、あの扉を蹴破った姿勢のままなの!?」
「姿勢のままっていうか、まあ、概念的にストップしてるというか……」
大真面目に絶望しているメアリーが可哀想になってくるが、自業自得すぎて胃が痛い。カインは慌てて、自分の固有能力を使うために手近な上質な紙とペンを引き寄せた。
「そ、それよりもメアリー! ほら、異界にはもっと素晴らしい、完結している物語がたくさんあるんだ。今それをここに再現してあげるから! これなんてどうかな、爆発的な人気を誇った、すっごく身分差のある切ない純愛ものなんだけど!」
カインは必死の形相で、前世で大ヒットした某有名少女漫画のストーリーをノベルライズの形でサラサラと書き殴り、メアリーに差し出した。メアリーの気をなんとか別の作品に逸らそうという、決死の隠蔽工作。
「アルフレッド様が気になるんだけど…」
「でもほら、少し読んでみたら?」
差し出されたら読まずにはいられない本の虫ことメアリーは、渋々受けとったものの、すぐ読み始めた。カインはその間にもせっせと無人島でのミステリーだの、学生たちの青春群像劇だの、海の姫の恋物語だのを書きためておく。
速読が得意なメアリーはどんどん読み進めた。
「ご飯の時間よ、カイン、メアリー」
カインの母の穏やかな声が響き、メアリーはようやく物語の世界から現実へと引き戻された。
「あら、もうそんな時間?」
手元の紙束を見つめるメアリーの瞳には、感動の光が宿っていた。さすがはカインが厳選した、物語たち。メアリーの好みを的確についていて、満足感でいっぱいだった。
にこにこするメアリーにカインは密かに、椅子の背もたれに体重を預けて長い息を吐き出した。
(よし……!なんとか凌ぎきった。これだけ面白い話を一気に叩き込めば、あの黒歴史小説のことなんて忘れてくれるはず……!)
胃の痛みに耐えながら必死にペンを動かした甲斐があった。カインは心の中で小さくガッツポーズを決める。
二人は談話室を後にし、食堂へと移動した。
アイスナー家の食卓に並んだのは、カインが以前能力で再現し、今やこの世界の定番となりつつある、ふんわりとしたオムレツや香ばしいスープ。いつもならメアリーは「やっぱりカインの再現するご飯は最高だわ!」と目を輝かせるところなのだが、今日はいささか様子が違った。
上品にナイフとフォークを動かしながら、メアリーはふぅ、と小さな、けれど深い溜息を漏らす。
「どうしたの、メアリー。口に合わなかった?」
「何かあったのか?」
カインの両親が心配そうに尋ねると、メアリーは慌てて首を振った。
「いいえ、お料理はとっても美味しいのです。……ただ、先ほどカインが書いてくれたお話があまりに見事で、胸がいっぱいで」
「まあ、先ほど持っていた羊皮紙かしら」
「ええ。本当に素敵なお話ばかり再現してくれたんですのよ」
カインはスープを口に含みながら、平静を装って頷く。
(そうだ、それでいい。身分差の悲恋も、無人島ミステリーも最高だろ? そっちにどっぷりハマってくれ)
しかし、メアリーの言葉はそこで終わらなかった。彼女は切なげに視線を落とし、胸元に手を当てて呟いた。
「でもどうしても、物足りなさを感じてしまうの。あのお話たちを読めば読むほど、あの『黒銀の騎士』の作者様の、唯一無二の魅力が際立ってしまうというか……」
ごふっ、とカインの喉が微かに鳴った。スープを飲み込むのが一瞬遅れる。
「物足り、ない……?」
「ええ。カインがくれた本は、どれも完成されていて非の打ち所がないの。けれど、あの作者様の文章には、何て言うのかしら、もっと泥臭くて、荒削りだけど…………絶対にこれを書きたいんだ!っていう熱い魂の叫びが聞こえてくるのよ!」
(違う、それただ単に筆力が足りなくて文章が変なだけだし、深夜のテンションで勢いだけで書いてたからだよ!)
「特に、アルフレッド様が『待たせたな』って扉を蹴破る直前の心理描写なんて、もう鳥肌が立つほど不器用で、愛おしくて……!あんな情熱を描ける方は、異界を探してもあの方だけだわ。きっと、もの凄く純粋で、一本気で、高潔な精神を持った素晴らしいお方に違いないの!」
(やめてくれ。頼むからそのセリフをこれ以上大絶賛しないでくれ)
カインの顔はみるみるうちに土気色になっていく。褒められているはずなのに、精神的ダメージが甚大すぎる。
「カイン?顔がさっきから真っ白だけど……大丈夫?」
「う、ん、…平気だよ」
母が流石に異変に気づいて声をかけるが、メアリーの熱弁は止まらない。
「カイン、私、やっぱり諦めきれないわ! どんな名作を読んでも、私の心はあの扉の前に残されたままなの。再現できないかしら。それか、どうにかしてあの作者様に『続きを待っています』って読者の声を届けられないかしら?あの方に、私のこの熱い想いを知ってほしいの!」
うるうると潤んだ大きな瞳が、まっすぐにカインを射抜く。そこにあるのは、打算のない、純粋極まりない一人のファンとしての切実な願いだった
カインは手にしたスプーンをそっと置いた。カチリ、と小さな音が響く。
(──無理だ。これ以上この話を続けたら、胃が痛すぎて食事が進まない)
カインは精一杯の力を振り絞り、引き攣った笑みを顔面に貼り付けた。
「あ、あはは……。そ、そうだねメアリー。異界の作者様にも、きっと何か、どうしても書けない深遠な事情があるんだよ……。よし、その話はここまでにして、冷めないうちにオムレツを食べよう? ね?」
「……ええ。そうね。ごめんなさい、お食事中に熱くなってしまって」
メアリーは少しシュンとしながらも、ようやくフォークを動かし始めた。
カインは、とりあえず今夜の危機を脱したことに心から安堵した。──しかし、これはまだ、彼を襲う長い拷問の始まりに過ぎなかった。
それからの数日間、メアリーの「黒銀の騎士ロス」は一向に収まる気配がなかった。
お茶会をすれば、開口一番に「アルフレッド様はあの後、宿敵にどんな最初の一撃を見舞ったのかしら」と溜息をつき、カインが気を利かせて再現した新しい異界のスイーツを出しても、「美味しいわ。これを食べたら、きっとアルフレッド様も旅の疲れが癒やされるのに……」と、すべての事象が件の小説に結びついてしまう始末。
カインはその度に、嬉しさと、恥ずかしさと、罪悪感を食らい続け、ついに限界を迎えた。
──ある日の午後。
カインの部屋で、メアリーがまたしても虚空の「一年以上更新されていません」の文字列を見つめて物思いに耽っているとき、カインは深く、深く息を吸い込み、覚悟を決めてメアリーの前に立った。
「……メアリー」
「何かしら、カイン?…もしかして、あの邪神の呪いを解く方法を思いついたの!?」
パッと顔を輝かせるメアリーに、カインはひどく複雑な、けれどどこか吹っ切れたような苦笑を向けた。
「いや、呪いは解けない。……ただ、君がそこまでベタ褒めして、続きを読みたがっているその本の作者なら、僕の知っている男だよ」
「えっ!? 本当なの!? そのお方は今どこに──」
「ここにいる」
カインは自分の胸にそっと手を当て、真剣な目でメアリーを見つめた。
「君が毎日続きを恋しがっている、その『黒銀の騎士は辺境から成り上がる』を書いたのは、僕なんだ。前世の僕が、暇つぶしに書いて……そのまま放置してしまった物語なんだよ」
部屋の中が、水を打ったように静まり返った。
メアリーはきょとんとした顔でカインを見つめ、それから、ふっとおかしそうに笑った。
「ふふっ、冗談が上手ね、カイン。元気づけてくれてありがとう」
「アルフレッドが、密林で拾った謎の魔獣に『ポチ』って名前をつけようとして、ヒロインのエルザに『安直すぎます!』ってめちゃくちゃ怒られるシーンがあるよね」
「……え?」
メアリーの笑みがピタリと凍りついた。
カインは淡々と、しかし少し耳を赤くしながら言葉を続ける。
「その後何話か挟んで、二人が初めて宿屋で同じ部屋に泊まることになって、アルフレッドが緊張のあまり『俺は床で寝る!』って言い張って、結局一晩中一睡もできずに翌朝ものすごい隈を作ってた。……違うかい?」
「な、なんで……それを……?」
メアリーの顔からすうっと色が引いていく。
カインはメアリーに内容を詳しく説明されたわけではない。タイトルと、アルフレッドが扉を蹴破ったという最新話のシチュエーションしか聞いていないはずなのだ。それなのに、メアリーが一人でニヤニヤしながら読んではときめいていた話を、カインは言い当ててみせた。
「言っただろ、僕が書いたんだ。……正確に言うと、僕が前世で生きていた世界で、僕の頭の中からひねり出したお話なんだよ」
カインは机の引き出しから、あらかじめ用意しておいた数枚の羊皮紙を取り出した。そこには、見慣れたこの世界の文字で、しかし紛れもなく。『黒銀の騎士は辺境から成り上がる』が綴られていた。
メアリーはこぼれんばかりに目を見開いた。
「…ほんとう、に?」
「本当に、僕だよ」
カインは観念したように両手を上げ、それから小さく肩をすくめた。
「君から聞いたタイトルと、最後にアルフレッドが扉を蹴破ったっていう状況で確信したんだ。それは間違いなく、僕が前世の大学二年の頃に書いていた小説だ。……ほら、その羊皮紙を読んでごらん。僕の再現能力で、第一話からその最新話までを一文字も違わずに書き起こしたものだから」
メアリーは吸い寄せられるように、カインの手から羊皮紙の束を受け取った。カサリ、と乾いた音が室内に響く。視線を落とした瞬間、メアリーの全身を凄まじい衝撃が駆け抜けた。
(ああ、間違いないわ……!)
メアリーしか読めないはずの異界の文章。それが、この世界の言葉として、寸分違わぬ熱量でそこに存在していた。
アルフレッドが辺境で泥を舐めながらも立ち上がる、あの粗削りの、けれど最高に格好いい文章の癖。メアリーが毎晩ベッドの上で枕を叩きながら身悶えした、不器用な恋のやり取り。何より、最新話の最後、宿敵の城の重厚な扉をガツンと蹴破り、肩で息をしながら言い放ったあの台詞──『待たせたな』。
そのすべてが、婚約者の見慣れた筆跡で、完璧に書き写されている。
「じゃあ、じゃあ……本当に、カインが……?」
「うん。だから『一年以上更新されていません』っていうのは邪神の呪いなんかじゃなくて、僕がこの世界に転生しちゃって、向こうのパソコンを触れなくなったからなんだ。……ごめんね、物語を途中で放り出したまま、君を何日もやきもきさせて」
カインは恥ずかしくなりながらも、眉を下げて謝罪した。続きは自分の再現能力をもってしても出すことはできない。なんせ、再現する大元がないのだから。カインは、メアリーが続きがこの世に存在しないという事実に絶望し、悲しむだろうと覚悟していた。
しかし。
メアリーの頭の中の回路は、カインの予想とは全く違う方向へ爆走を始めていた。
(ちょっと待って。整理しなさい、メアリー・ライズ。……いい? 私が人生を捧げるほど愛し、毎晩その尊さに涙を流していた、あの神作家様が……)
メアリーはゆっくりと視線を上げ、目の前にいる婚約者の姿を凝視した。5歳の頃から、困ったことがあればいつも助けてくれた。メアリーがほっとけーきが食べたいと言えば、自分のことのように喜んでキッチンに立ち、あんなに美味しいものを魔法みたいに作ってくれた。その後に強請ったお菓子も便利グッズも、いつだって優しい笑顔で再現してくれた、大好きなカイン。
(そのカインが……あのアルフレッド様を生み出した、神の化身だった……!?)
点と点が、凄まじい勢いで結びついていく。
メアリーは胸の奥から、今までに経験したことのないような激情が込み上げてくるのを感じた。
「──ッッ!!!!」
声にならない叫びをあげて、メアリーは持っていた羊皮紙を机に叩きつけ、カインの胸元へともの凄い勢いで飛びかかった。
「わあぁっ!? メ、メアリー!?」
ドスン、と良い音がして、カインは勢い余って椅子の背もたれに強く打ち付けられる。
カインの服の胸ぐらをがっしりと掴んだメアリーの顔は、驚くほど真っ赤で、そしてその瞳は、これまでのどんなおねだりの時よりも、爛々と恐ろしいほどの輝きを放っていた。
「カイン!!!あなた、自分が何を言っているか分かっているの!?」
「え、ええっ!?だから、僕がその、作者で……続きがなくて本当に申し訳な──」
「謝らないで頂戴!!!!」
鼓膜が震えるほどの怒鳴り声に、カインは思わずヒッと首をすくめた。
「な、何が、何が邪神の呪いよ……!何がモチベーションの消失よ!そんなのどうでもいいわ!だって、神は死んでいなかったのね!?それどころか、私のすぐ隣に、いつでも手の届くところに、私の最愛の婚約者として存在していらしたなんて……っ!」
「メ、メアリー?目が据わってる、目が据わってるよ!?」
「素晴らしいわ、奇跡よ、女神様ありがとう!!!カイン、つまりこういうことよね!?もう私は、いつ読めるか分からない続きを、首を長くして待つ必要なんてないのね!?」
メアリーはカインの肩をガクガクと揺さぶりながら、涙をボロボロと流し、けれどその口元は完全に歓喜で歪んでいた。狂喜乱舞、という言葉がこれほど似合う姿を、カインは他に知らない。
「待って、メアリー、落ち着いて!さっきも言った通り、続きは本当に無いんだ!僕の頭の中にも存在しないから、能力でも出せないんだよ!?」
「それが何だと言うの!!」
メアリーは涙を手の甲で豪快に拭うと、カインのデスクに載っていたインク瓶と新しい真っ白な羊皮紙を、ドン!!!と目の前へと凄まじい気迫で突きつけた。
「続きが無いなら、今からあなたが、その天才的な頭でひねり出せば良いだけのことでしょう?だって、作者様はここに生きているのですもの!さあカイン、いえ、アイスナー先生!!ペンをお持ちになって!!」
「ええええええええ……っ!?」
絶望するどころか、鬼気迫る勢いで喜ぶメアリーに、カインは完全に圧倒され、引き攣った声をあげることしかできなかった。
「ちょっと待って、メアリー!僕、もう何年も小説なんて書いてないし、そもそも日本語じゃなくてこの世界の言葉で書くんだよ!? あの頃の文体になるかどうかも──」
「何を言うの!書いていたのはカインなんでしょう、大丈夫よ!さあ、早く扉の先をっ!」
「わ、分かった、分かったから!一歩下がって、顔が近い、怖い!」
カインはメアリーの勢いに圧されながらも、渋々羽ペンを握りしめた。まさか異世界に転生して、締め切りに追われる作家のような気分を味わう羽目になるとは夢にも思わなかった。
しかし、目の前で真っ白な羊皮紙をキラキラした目で見つめるメアリーの熱意に、カインの胸の奥で、かつて中二病を拗らせていた頃の執筆欲が、小さく、けれど確かにパチパチと音を立てて再燃し始めていた。
「……じゃあ、書くよ。アルフレッドが扉を蹴破った、その続きを」
「ええ……っ! ぜひ!!」
カインは目を閉じ、あの頃の感覚を呼び覚ます。宿敵の城。捕らわれたヒロイン。怒りに燃える黒銀の騎士。
カインがサラサラとペンを走らせ、この世界の言葉で、アルフレッドの最初の一撃を、そして宿敵への啖呵を紡ぎ出す。
一行書くたびに、隣からのぞき込むメアリーが「まあ……!」とか「素晴らしいわ……!」とか、いちいち最高のリアクションを返してくれる。
前世のネット投稿では、閲覧数でしか分からなかった読者の熱量が、今はダイレクトに肌に伝わってくる。──これは、ものすごく、気恥ずかしいけれど、作家としてこれ以上ないほどに最高に贅沢な環境だった。
気づけばカインも夢中になってペンを動かし、羊皮紙3枚分を書き終えた頃には、外はすっかり夕闇に包まれていた。
「──ふぅ。とりあえず、今日のところはここまで。宿敵との戦闘の序盤って感じかな」
「最っっっ高でしたわ、アイスナー先生!! まさかアルフレッド様が、大剣をあんな風に使うなんて!続きが気になって今夜は眠れそうにありません!」
胸に羊皮紙を大切そうに抱きしめ、メアリーは満面の笑みを浮かべる。ようやく本の話が一段落つき、二人の間に心地よい静寂が訪れた、その時だった。
メアリーは、ふと、カインが言っていたある言葉を思い出し、小首を傾げた。
「……そういえば、カイン。さっき、とっても不思議なことを言ってなかった?」
「ん?何を?」
「ええと、確か……『前世の僕が、暇つぶしに書いていた』とか、『前世の世界で僕の頭の中からひねり出した』とか……」
メアリーは記憶をなぞるように人差し指を顎に当て、それから、弾かれたように目を見開いた。
「え、……ちょっと待って。あなた、前世の記憶があるの!?」
「遅っっっっっ!!!!」
カインのツッコミが室内に響き渡った。
「気づくの遅すぎでしょ!?僕、さっき結構重大な告白したよ!?別の世界から転生してきたって明確に言ったよね!?」
「だって!そんなことよりアルフレッド様が扉を蹴破ったまま放置されていることの方が一大事ですもの!!」
「そんなことって言うな!こっちにとっては人生のアイデンティティに関わる大問題なんだよ!」
ハァハァと息を切らすカインを前に、メアリーはうふ、と誤魔化すように笑った。
「でも、おもしろいわね。カインの前世が異界の人で、私の能力で読めるお話の作者様だったなんて。やっぱり私たち、運命の赤い糸で結ばれていたのかしら」
「……調子のいいこと言っちゃって」
カインは呆れたように息を吐きつつも、どこか嬉しさを隠せないまま、耳の後ろをかいた。メアリーはそんな姿を愛おしそうに眺めた。
神の封印だの邪神の呪いだのと大騒ぎしていた異界の文字列。その更新は二度とされないけれど、これからはもう、不吉なシステムメッセージに怯える必要はない。
「ねえ、カイン。明日も続き、書いてくれる?」
「……最愛の婚約者のためだからね。気が向いたら、いくらでも」
異界から届いた未完の物語は、ここから新しく、二人の手によって紡がれていく。最強のファン兼婚約者を隣に置いたアイスナー先生の執筆ライフは、どうやら前世よりも、ずっと騒がしくて甘いものになりそうだった。




