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十四、

 アニメショップは、祝日の為か、人気漫画の発売日故か、多くの女性客が詰めかけ大層盛況だ。美智瑠も出勤して早々、レジスタッフに回され接客に忙殺されていた。

 途中、休憩を挟んだ後、店長から店内を巡回すると言う気楽な仕事を任されると、真っ直ぐにファントムダイスの新作漫画が平積みされている出入り口付近まで行って足を止めた。広いスペースに特別コーナーが設けられている。原作アニメをコミカライズしたファントムダイスの最新巻二十四巻が、ずらりと並んでいる姿は壮観だ。

 美智瑠は仕事の手を休めて、二十四巻を手に取った。深夜アニメにハマるきっかけを作ってくれた作品でもある為、思い入れが強い。ファントムダイスのサブキャラの中でも格別高い人気を誇る双子の男女、エイデンとマリアが表紙を飾っている。興味津々で見つめる美智瑠の瞳は、瞳孔が開き、キラキラ輝くような活力で満ちている。

 ところが、

「矢部さん! 何ボケッと突っ立ってんの!? 巡回しつつ整理整頓して!!」

 副店長の怒声が美智瑠の至福の一時をぶち壊した。

 脳を揺さぶるような声量と声質に、瞳孔は瞬く間に縮こまり瞬時に光を失った。

「えっ……あ、はいっ! すみませんっ! すみません!」

 美智瑠は目の前にいる鬼のような副店長に睨まれて、激しく動揺し慌てふためいた。平置きしてる漫画を手直ししながら何度も頭を下げて謝った。

「何から何まで雑! もっとお客様目線で手に取りやすいように考えて積まないとダメでしょ! 何でそんな簡単なこともできないのっ!? 前に、ちゃんと教えたよね!? 私、難しいこと言ってますか!?」

「すみません! 本当にごめんなさい!」

 と、美智瑠は深々と幾度となく腰を折った。これ以上怒られて柔な心にダメージを受けたくない、と思う。薄く開いた両目から、スキニーパンツを履いた自分自身の脚が二本間近に見えた。

 かと思いきや、

「……うっちゃ~ん、髪、三つ編みにしたのぉ? すごい可愛い~!」

 場の状況にそぐわない副店長の猫なで声が突如として耳に入って来る。

 ハッとして顔を上げた。

 美智瑠の目の前にいる女性が、いつの間にか一人増えて二人になっている。副店長の傍らには、ミステリアスな美女店員・宇月が立っていた。彼女は神出鬼没で、美智瑠は完全に気配さえ掴めなかった。

「ありがとうございます。今日は、髪の毛をアレンジしたい気分だったので、三つ編みにしてみました」

 宇月は恥ずかしそうに頬を赤らめて、三つ編みにされた二本の髪の毛の束を両手でそれぞれ掴んだ。

「めっちゃ似合う~! えっ、もしかして自分で編んだの? 相変わらず、手先器用だねえ。この前はふわふわで肌触りの良い可愛いぬいぐるみ、持ってきて見せてくれたもんね」

 表情朗らかに褒める副店長に、美智瑠は片頬を平手打ちでもされたかのような強い衝撃を受けた。

 全然、態度が違う。

 この前なんて聞き取れないくらい小さな声で仕事の説明をされた為、

「えっ? 何ですか?」

 と聞き返したら、今度は客のいるフロアにまで届くような大声で

「ちゃんと人の話聞いてるっ!? 人の話を聞くことも、まともにできないの!? ねえ、大丈夫っ!?」

 と怒鳴られたので、美智瑠は後々憤怒のあまり副店長の頭に鉄拳を食らわす妄想をして憂さを晴らした程だった。そうせざるを得ないくらい副店長に対して日頃の鬱憤が溜まっていた。

「すみませんでした……!!」

 美智瑠はもう一度深く一礼すると、そそくさとその場を離れた。

 叱られる度、自分自身の存在価値の低さに遣りきれなさを感じる。辛くてブルーな気分に陥って、立ち直るのに恐ろしい程時間が掛かる。腹の中で、悲しみがとぐろを巻き、マグマまで噴火している。

 美智瑠は眉間に皺を寄せながら、新作漫画コーナーから同人誌コーナーへ移動した。男女の店員二人が仲睦まじそうに話しているのを見つけて、思わず聞き耳を立てた。

「さっき矢部さん、また怒られてたね」

「副店長と馬が合わないんじゃない?」

「いやいや、矢部さんって仕事できないのに休み多いからでしょ。副店長、うちらには何だかんだ言って優しいじゃん」

「やっぱ、怒られる原因作ってるのは矢部さんだよね~」

「言い方悪いけどさ、矢部さんって何か一人だけ浮いてない?」

「もう、やめよ! これ以上言うのは可哀想だよ」

「何だよ。つまんねえの」

 二人の会話を盗み聞きしたことを後悔した。人の不幸は蜜の味で早速、話のネタにされている。

 まさに弱り目に祟り目で、美智瑠の気持ちは更なる降下を遂げてゆく。

 踵を返し、足早に同人誌コーナーから乙女ゲームコーナーへ向かった。

 恋愛ゲーム好きであろう女性客が、一人で壁に貼り付けてあるポスターを眺めている。他に連れがいる気配もない。思わず、美智瑠も女性客の視線の先に目を遣った。大人気乙女ゲームのイケメンキャラが薔薇を咥えてこちらを見ている。気品漂うイケメンなのにユーモアもあるとして有名な主役級の攻略キャラクターだ。そんな女性客の姿を見て親近感が沸くと同時に、美智瑠の中で汚物にも似た何かが綺麗に洗い流されてゆく。一人でいる女性客に仲間意識を覚えたことで、安心感を得たのかもしれない。

 複数のハイスペックイケメン男子達から求愛のアプローチを受ける乙女ゲームヒロインに、三次元の男性から一度も愛されたことのない美智瑠は強い憧れを抱いていた。恋に恋している。そんな状態が小学三年生の時からずっと変わらずに続いていた。ちょうど、その頃、美智瑠は一生忘れ得ぬ強烈な初恋を経験したのだ。

 あれは、二時間目の体育の授業中での出来事だった。担任からドッジボールをやると聞いた時の美智瑠の胸中は、絶望感がおよそ八割を占めていた。恐らく、その気持ちが表に出ていたのだろう。担任教師は哀れむような優しい微笑を浮かべながら、ちらちらと美智瑠を見た。

 時間は残酷に流れ、とうとうドッジボールの試合が幕を開けた。美智瑠は不安を隠しきれずオドオドしながらコート内を逃げ惑った。球のスピードが速い。これでは目で追うのもやっとだ。こちらを弄ぶかのように、相手側の内野と外野で触れたらアウトのキャッチボールが繰り広げられている。力の差は歴然だった。相手側には運動神経抜群の男子が複数人いるのに対して、こちらには一人しかいない。頼みの綱となる一人も、内野で球に当たらないよう避け続けるのに必死のようだ。一向に反撃できない。

 どんくさい美智瑠もまた標的にされやすかった。スクールカースト上位男子の投げた強烈な球が、絵に描いたように顔面に直撃して鼻血が出た。

 クラスメイトの女子が小さく掠れた悲鳴を上げた。

 ドッジボールの試合は一時中断され、美智瑠を取り囲むようにして担任教師と多くのクラスメイトが集まって来た。

「うわっ、バイ菌が鼻から血流してる。グロッ!」

 心ない男子の言葉が、ドッジボールの球のように鋭く投げつけられた。

「大丈夫?」

 保健委員の男子が美智瑠の傍に駆け寄る。

「うん」

 美智瑠は、球が直撃した衝撃と保健委員の男子の優しさに心が打ち震えて、涙を流しながら弱々しく頷いた。

「ちょっと、ごめんね」

 保健委員の男子はティッシュペーパーを何枚も重ねて、美智瑠の鼻を摘まんだ。

「おいおい。そいつに情けは不要だろ。ほっとけよ。汚い」

「俺は全然汚いとは思わないよ。可哀想に思えない君の心の方が遥かに汚いと思う」

 そう冷静沈着に淡々と答えた彼の横顔を、今でも忘れることができない。決して、ルックスが良いとは言えない。けれど、あの時から彼の存在全てが今に至るまでずっと格好良く輝いて見えた。まるで、どこかの国の王子様みたいだった。王子様が、一部のクラスメイトの男子達からバイ菌呼ばわりされている自分を助けてくれた。美智瑠は、あっという間に恋に落ちた。

 けれど、初恋は叶わなかった。それだけでなく、これまで恋が実ったことなど生まれてこのかた一度たりともなかった。まるで、自分には人間的魅力が微塵もないと診断されているかのようだった。その為、三次元の男性は裏切る可能性が高いから二次元の男性でなければ愛せない、などと言って現実逃避する他なかった。

「矢部さんって、乙女ゲームプレイしたりするの?」

 振り返ると、真後ろに青山と横須賀が居た。

 隣同士で二人並んでいると、背格好がまるで違うことに気が付く。時計に例えると、青山が長針、横須賀は短針だ。

 青山は一見爽やかなイケメン貴公子に見えるが、無類の女好きで節操のないことが、この前の一件で判明している。花江に暴露されて以来、落ちぶれて周囲から腫れ物扱いされている青山に、以前以上に積極的に声を掛けるようになったのは恐らく横須賀くらいなものだろう。それくらい、横須賀は面倒見が良く判官贔屓をする優しい性格をしている。趣味がアニメ鑑賞の他に編み物や手芸であるなど、外見も内面も乙女チックなところがある。

「します! 乙女ゲーム大好きです」

 美智瑠は、その質問を待ち望んでいたかのように嬉々として答えた。

「そうなんだあ~! 矢部さんって、やっぱり可愛いんだねえ! ねえねえ、やっぱり乙女ゲームの主人公みたいな恋がしたいって思うの?」

 さらりと褒める横須賀に、男友達のいない美智瑠は思わず勘違いしてしまいそうになる。だが、早とちりは危険だ。横須賀はみんなに優しい男なのだ。

「うーん、したい……ですけど、ルートによってはヒロインが過酷な状況に陥ったり、ヤンデレ男子に殺されたりするエンドもあるので、何とも言えないです」

「へえ~! ヒロインの女の子、結構、大変な目に遭っちゃうんだねえ」

「そうなんです! ヒロインも平和ボケしてはいられない、波乱万丈な人生を送らなければならないので現実的に考えるとかなりきついかなと思います。でも、それを乗り越えた先に、お目当てのキャラクターとのラブラブ生活が待っているんです。そう言う設定の乙女ゲームも数多くあるんです! す、す、す、すみません! つい熱く語ってしまって……!」

「ははははは。いいよ。それだけ好きってことでしょ? 大好きなものがあるって、それだけで幸せなことだよね」

「しっ、しあ、わ……せ……?」

 美智瑠は急に表情が暗く歯切れが悪くなる。

 自分は本当に乙女ゲームをしている時、幸せなのだろうか。二次元に触れている最中、幾度となく幸せと言ってもいい程の強い喜びを感じたことはあった。けれど、胸にぽっかり大きな空洞が空いた状態で「幸せです!」だなんて口に出して言えない。今までに感じた幸福感は、所詮つぎはぎだらけの喜びをかき集めてできただけの偽物に過ぎないのかもしれない。だから、永久不滅で本物の幸せを獲得することに恋焦がれている。

 そんな美智瑠の渇望を見透かしたかのように、横須賀は謝った。

「ごめん! 分かったような口きいちゃったよね?」

「えっ、いえ! ちゃんとお答えできなくて、こちらの方がすみません!」

 美智瑠は慌ただしく頭を下げた。

「ちょっといい?」

 青山が口を挟んだ。とても冷静な声調で、場の空気さえ引き締める。

 横須賀と美智瑠は、一斉に青山の感情のない顔を見た。

「俺の意見だから参考程度に聞いて欲しいんだけど、矢部さんは安易に『すみません』って、言わない方がいい気がするな」

「えっ……!」

「何か遭ったらすぐ謝ったり、どんな時でもペコペコ頭下げたり、そんなふうにしてるから弱そうに見られて、相手に舐められるんだと思う。それで損したこと、結構あるんじゃないかな?」

 美智瑠は顎に拳を縦に置いた。

「……あ、言われてみれば……」

 これまでの人生を振り返る。確かに思い当たる節はたくさんあった。

「でもさ、そこが矢部さんのチャームポイントでもあると思うんだよね。俺は矢部さんのそう言うところ好きだな」

 答えに詰まった美智瑠を、横須賀がすかさずフォローする。

 ところが、美智瑠の様子がおかしい。愛想の良い笑みが顔から完全に消失してゆく。

『好き』や『チャームポイント』などの言葉を言われて美智瑠が喜ばないはずがないのに、今はそれどころではなかった。女性には特に優しいはずの青山から何の前触れもなく突如として、毒を放り投げられたことにより美智瑠の全身が震える。続けて、心まで携帯電話のマナーモードのようにガタガタと震えだした。理性が溶けて、普通ではなくなってゆく。少しずつ狂気を孕む。こうなった時の美智瑠は、何をしでかすか分からない。

「あのっ!! もしかして、私、オドオドしてましたか!?」

 美智瑠は意を決して先輩である青山に問い掛けた。声量は大きく、声質は荒く、声調はきつく。

 横須賀が驚きの眼差しで興奮気味の美智瑠を見る。

「してた」

 青山は腕を組みながら大きく頷いた。教師のように処世術を学ばせようとでも言うのか。

「それで、不快な思いをさせてしまいましたかっ!?」

 美智瑠は複雑な抑えがたい激情が募って震える声でそう訊ねた。

「…………」

 恐らく、この無言こそが青山の正直な答えなのだろう。青山は美智瑠のオドオドが気に触るが故に指摘したに違いない。

「もー、何か空気が淀んできたよ? 青山先輩も矢部さんも二人とも仲良くしよーよ! 和を以て貴しとなす、だよ!」

 そう言って、横須賀が場を和ませようと青山の脇腹を軽く指先でつついた。

「えっ! 俺のせい? そんなつもりはなかったんだ。……矢部さん、ごめんね」

 徐々に正気を取り戻していった美智瑠は首を思い切り横に振った。

「……こちらこそ、ごめんなさいっ!!」

「はい! これで、仲直りしたからね! 雨降って地固まる! 二人とも意外と血の気が多いから見ててハラハラしたあ~。特に、矢部さんが青山先輩に食ってかかるなんて思わなかったから、心臓飛び出るかと思ったよ~」

 横須賀は優しい眼差しで美智瑠の顔を見たが、目元と頬が小刻みに震えているのを確認すると、すぐに視線を外した。

「修司は見た目通り気が弱いからなあ。参るよ。実は、喧嘩するほど仲良いんだよ、俺と矢部さん」

 青山は横須賀のクセっ毛の茶髪をぐしゃぐしゃした後、とびきりの笑顔で美智瑠にウインクした。

 美智瑠は最前の自分の言動を深く恥じて、自己嫌悪した。厄介な発作が再び起きることがないように祈りながら、二人に向けて頭を下げた。

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