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燧の音色  作者: 野宿の匠


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第8章 再開

カッカッカッカッ!カッカッカッカッ


その日、吉井宿に響く槌音は、秋の澄んだ空気を震わせるほど力強く、満ち足りていた。 その音を、遠く離れた街道の隅から、泥にまみれたひとりの女が見つめていた。


おみつだった。 内藤新宿の女郎屋という名の地獄を命がけで抜け出し、ボロ雑巾のようになりながら、彼女は江戸を彷徨った。人形町の、かつて父と夫と暮らしたあの店は、冷たい空き家となって風が吹き抜けていた。


「お父っつぁんは……コロリで死んだよ。ひとりで寂しくなぁ」


近所の隠居が漏らした言葉が、おみつの心を凍らせた。さらに、我が子、紋次郎の行方も、五年間探し回ったが、風に消えた木の葉のように杳として知れない。


「兼重さん……。あのお人なら、きっと助けてくれる。紋次郎を、一緒に探してくれるはずだわ」


藁をも掴む思いで、おみつは上州を目指した。方角もわからぬまま、道行く人に蔑まれ、野宿を重ね、ようやく辿り着いた吉井宿。野宿の時は何度も兼重の火打鎌に助けられた。目の前には、あの「火打鎌」の看板が誇らしげに掲げられていた。


幸福という名の断絶

おみつは、木陰に身を潜めて様子を伺った。兼重の姿がそこにあった。胸の鼓動が耳の奥でうるさいほど鳴っている。 「兼重さん……」 声をかけようとしたその時、奥からひとりの女が出てきた。


その女は、健康そうな肌を日に焼き、背中に小さな赤子を背負って、鼻歌まじりに洗濯物を干しに出てきた。


「ワキ。無理をするなと言ったろう。信重も寝たばかりなんだ、少しは休め」 「何を言ってるんだい。あんたこそ、向こう手がいないんだから、アタイがしっかりしなきゃ」


二人は顔を見合わせ、くすっと笑い合った。 それは、言葉を交わさずとも通じ合う、積み重ねられた月日が生む夫婦の形だった。背中で眠る子は、間違いなく兼重の、そしてワキの子だった。


届かない慟哭

おみつは、自分の汚れきった手を見つめた。 女郎屋で男たちの欲望に晒され、爪の間まで泥と絶望が染み込んだこの手。一方で、ワキの手は、家族を支え、共に鉄を打つ「尊い労働」の色に染まっている。


「……兼重さん」


おみつの唇が、音もなくその名を呼んだ。 その時、風に乗って二人の会話がわずかに聞こえてきた。


「ねえ、あんた。もし、あの江戸のおみつさんが生きていたら……どうする?」 ワキの問いに、兼重は一瞬、槌を置いた。そして、遠い空を見つめて静かに言った。


「……あの方は、江戸の闇に消えた。探し出せなかったのは、俺の不徳だ。だが今は、お前とこの子がいる。俺が守るべきは、この火床の火だけだ」


その言葉は、優しく、それゆえにおみつの胸を鋭く貫いた。 兼重の心の中で、自分はもう「終わった過去」なのだ。生きて戻ったとしても、この美しい家族の輪を壊す刃にしかならない。


「……そうよね。お父っつぁんも死んで、紋次郎もいなくて、私だけが……」


おみつは膝を折り、土を掴んだ。

「兼重さん……助けてって、言いたかった。でも、もう言えない。あんたの火は、もう私を温める火じゃないよ」


永遠の去り際

おみつは、嗚咽を噛み殺しながら立ち上がった。 幸せな光の中にいる彼らに、自分の影を落としてはいけない。 もし今、駆け寄れば、兼重は情けをかけてくれるだろう。だが、それは愛ではなく、ただの「憐れみ」だ。おみつは、かつて自分が愛した男が、自分を憐れむ目を見ることに耐えられなかった。


「……さよなら」


おみつは一度も振り返らず、吉井宿を後にした。 足元には、ひび割れた大地。空には、自分を追い出した江戸と同じ、冷酷な太陽。


コンコンコンコン


背後から聞こえる槌音は、いつまでも追いかけてくる。 それはおみつにとって、世界で一番美しく、そして世界で一番残酷な、決別の調べだった。


おみつがどこへ消えたのか、その後、誰も知らない。ただ、吉井の街道沿いにある地蔵の足元に、江戸の女郎屋で大切に隠し持っていた「錆びついた火打金」が、ひっそりと置かれていた。


「カッカッ! カッカッ!」


おみつが吉井宿を去ってから数刻後。兼重はふとした胸騒ぎに誘われるように、工房を離れて街道沿いの地蔵尊へと歩みを向けた。


夕暮れが上州の山々を真っ赤に染め上げている。その地蔵の足元に、場違いな鉄の塊が落ちていた。 兼重がそれを拾い上げた瞬間、指先に氷のような冷たさが走った。


「これは……」


それは、かつて彼が江戸で、誰よりも幸せになってほしいと願って贈った特別な火打金だった。裏面には、他ならぬ兼重自身が彫った、おみつの名を指す「光」の一文字。それが泥と錆にまみれ、まるで力尽きた持ち主の抜け殻のように横たわっていた。


すれ違った運命の残り火

「親方! どうしたんです、そんな地蔵の前で固まっちゃって。おにぎりでもお供えされてましたか?」


追いかけてきた弟子の留二が、茶化すように覗き込んだ。だが、兼重の横顔を見て言葉を失った。そこには、鉄を打つ時の峻厳な職人の顔ではなく、一人の男としての、取り返しのつかない後悔が張り付いていた。


「留二……おみつが来た。たった今、ここに居たんだ」


「えっ!? じゃ、じゃあ、なんで追いかけないんです! 早くしねえと、あの人、またどこかへ消えちまう!」


兼重は火打ち金を握りしめたまま、おみつが去ったであろう西の空を見つめた。 「……追いかけて、どうする。俺にはもう、ワキがいて、信重がいる。あの方は、それを見たんだ。だからこれを置いていった」


「そんな……。そんな悲しい話、あってたまるんですか!」 留二が地団駄を踏んだ。いつもはお調子者の彼が、今夜ばかりは本気で悔しさに涙を浮かべていた。


慟哭の夕闇

兼重は、おみつが歩いたであろう土の上に膝をついた。 この火打金の錆び具合を見れば、彼女がどれほどの地獄を潜り抜けてきたか、手に取るように分かる。自分を信じて、この一片の鉄だけを支えに歩いてきた女を、自分は「過去」として整理してしまっていた。


「おみつ……。すまない、すまない……!」


兼重は地面を叩いた。職人の誇りであるはずの手が、土を掴んで震える。 女郎屋の苦界、父の死、紋次郎との別れ、孤独な旅。そのすべてをたった一人で耐え抜き、ようやく辿り着いた先で、自分が愛した男が別の女と赤子を交えて笑っている姿を見せつけられたのだ。その絶望は、火床に水をぶっかけるよりも残酷に、彼女の心を冷やしたに違いない。


「俺は……俺はなんて薄情な鉄を打っていたんだ」


背後から、赤子の信重を背負ったワキが静かに現れた。彼女はおみつが置いていった火打金を一目見て、すべてを察した。 「……あんた、追いかけな。今ならまだ間に合う。その人を一人にしちゃいけないよ」 ワキの震える声に背中を押され、兼重は泥にまみれたまま街道へ走り出した。


「おみつ! おみつ!!」


闇が迫る吉井宿を、兼重は狂ったように叫びながら駆けた。あちこちを探し回り、ようやく辿り着いたのは、村外れの古い地蔵尊が並ぶ崖の上だった。


そこには、月明かりを浴びて立ち尽くすおみつの背中があった。 「おみつ……よかった。さあ、一緒に帰ろう。俺が、俺が悪かった……」


兼重が手を伸ばしたその時、おみつがゆっくりと振り返った。その顔には、怒りも恨みもなかった。ただ、すべてを燃やし尽くした後の灰のような、虚ろな微笑みが浮かんでいた。


「兼重さん……。あんたの打った火打ち金、本当によく火が出たわ。真っ暗な暗闇の中でも、あれを叩けば、あんたの顔が浮かんだ。……でもね、もう、火を熾す力が残っていないの」


おみつは、自分の両手を見つめた。そこには、女郎屋で男たちに弄ばれ、逃亡の果てに凍傷で黒ずんだ、痛ましい指先があった。もはや、火を熾すために鉄を握ることすら叶わぬ体になっていたのだ。


「幸せになってね、兼重さん。……さよなら」


「待て! 」


兼重の指先がおみつの袖をかすめた瞬間、彼女の体は鳥のように崖下へ舞った。 鈍い音が一度だけ響き、後はただ、赤城おろしの風が吹き抜ける音だけが残った。


兼重は崖の淵に突き落とされたように膝をつき、叫ぶこともできずに虚空を掴んだ。 懐からこぼれ落ちたおみつの火打ち金が、岩肌に当たって一度だけ「カチッ」と虚しく火花を散らす。


その小さな光は、救えなかった最愛の女への、あまりにも短く、あまりにも残酷な鎮魂の火花だった。上州の夜は、ただ深く、鉄よりも冷たく二人を隔てていった。

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