第6章人形町のおみつ
カッカッ!カッカッ!
天保三(1832)年。中野孫三郎兼重。二十五歳。独身。
日本橋の荒物問屋に行商に行くときは、人形町の行きつけのめし屋によった。年の暮れも、押し迫った頃、雪がちらほらと舞ってきた江戸の街。
兼重「温燗と湯豆腐くんな。」
女将「へい!ありがとうございます。お客さんはどちらからお見えですか?」
兼重「上州。」
女将「あら偶然ですね。私も上州伊勢崎の在の出です。名はおみつ。これを機にご贔屓にお願いします。お客さんは上州のどちらですか?」
兼重「吉井宿。名前は中野孫三郎兼重。」
同じ上州の出ということで、話も弾み、江戸に出た時は、必ずこのおみつのところで一杯軽くやっていった。
おみつはリウマチで病弱な父・五十八歳の連蔵の看病しながら、夫の「丈七」と昨年までは、三人で暮らしていた。が、しかし今は連蔵と二人住まいである。
連蔵がおみつを連れて、親子で江戸にでて来たのは十年程前である。連蔵が起こしためし屋である。おみつは年は現在十八歳。十六歳の時に客の「丈七」が、婿で入ることで夫婦となった。子宝にはまだ恵まれなかった。父・連蔵はリュウマチでほとんど動けない。初めは、夫婦して店を営むことを夢見ていた。丈七は、賭博癖が抜けずに、莫大な借金を抱え込んでしまった。
貸元の神田の源三郎は、借金のかたに、女房のおみつを女郎家に売れと迫った。丈七は断り続けた。神田の源三郎は、丈七を捕まえては、殴る蹴るの暴行の毎日。丈七は一切抵抗しなかった。
それには訳があった。今は隠しているがかつては腕の立つ無宿渡世人「岩宿の丈七」と呼ばれた。しかし、いつからか「抜かずの丈七」と呼ばれるようになったのである。
天保五年(1834年)国定忠治の賭場で遊び、一宿一飯の恩義がある。忠治の親分にあたる大前田栄五郎と対峙する、日光例幣使街道、境町を拠点とする博徒・島村の伊三郎の出入りの際、忠治の助っ人に加わった。
山々は紅葉で真っ赤に焼け、鮮やかな黄色の銀杏も、赤城おろしが拭き下ろし、赤と黄色が中に舞い上がる寒い日であった。
出入りでは、忠治が勝利をおさめた。戦いが静まり返った後、丈七の背後から人の気配がする。長どすを振り向きもせず、後ろに振りかざした。
女の右腕だけが宙を舞った。と同時に女の悲鳴。素人の女性の腕を切り落としてしまったのである。
紅葉と血しぶきが舞い上がった。
丈七は代官所の取り調べを受けた。故意にやったことではないことを、忠治を介し大前田栄五郎の力も借り立証出来た。
不慮の事故という事で、生涯ドスは抜かないことを、大前田栄五郎と忠治と岩鼻代官に誓った。万が一ドスを抜いた場合は、自らが大前田栄五郎と代官のいる大前田村に出向き、自分の右腕を斬り落とすことを約束して放免となった。その後、出入りのどんな状況でも、ドスを抜かないことから「抜かずの丈七」と呼ばれるようになった。
最後まで大前田親分との約束を守った丈七は、ある日、土左衛門となって神田川に浮かび上がった。昨年の粉雪が舞う頃だった。その後も、神田の源三郎はおみつのところに取立に来た。
丈七がいなくなった後も、神田の源三郎の取り立ては止まらなかった。
「おい、女房! 亭主がいねぇなら、おめぇが体で払うしかねぇなぁ!」
源三郎が下卑た笑いを浮かべ、おみつの腕を掴んだその時だった。
「おい、そこまでにしな。その腕は、お門違いの借金を掴むためのもんじゃねぇ」
割って入ったのは、年に数回、江戸へ火打金を売りに来る、少しばかり羽振りのいい兼重だった。
「なんだ、貴様は! 上州の田舎もんが江戸の流儀に口を出すな!」
「流儀? はて、そんな上等なもんが神田に落ちてたかね。……源三郎と言ったか。この娘の借金、俺が全部ひっくるめて買い取ってやる。文句はねぇだろう?」
男は懐から、火打ち鎌で築き上げた分厚い懐中物を取り出し、無造作に源三郎の足元へ投げ出した。
「あ、あんた、狂ったか……? こんな額を、ただの借金肩替わりに……」
「狂ってるのは、この世の中さ。……さあ、二度とその面を見せるな」
「おみつさん、そんなに驚くな。俺はただ、あんたの作る味噌汁に惚れてるだけさ」
「……旦那様。あんな大金、どうやってお返しすれば……」
男は、リウマチで動けぬ連蔵の足を器用に揉みながら、くすっと笑った。 「返しきれなきゃ、一生ここで俺の話し相手になってくれりゃいい。ああ、だが困ったな。あんまり足の揉み心地がいいもんだから、上州に帰るのを忘れちまいそうだ」
「まあ、お父っつぁんの足は石みたいに硬いですわよ?」
「ははは! 鉄を叩くよりは柔らかいさ」
男はそれから、年に四回、江戸に現れるたびに人形町へ寄り、閉店までおみつの話を聞き、そのまま泊まっていくようになった。
夜、連蔵の寝息だけが響く静かな店。
「丈七さん……見てる? お父っつぁんも、私も、なんだか変な人に拾われちゃったわよ」
おみつは、火打ち金で灯した小さな行灯の光を見つめ、少しだけ、本当に少しだけ、幸せそうに微笑んだ。
兼重はおみつに惚れていたのである。そしてまた、若いながらも、火打鎌で財力を蓄え込んでいたのである。
江戸の荒物屋、仏具屋には年に四回は売り込みに出かけては、おみつの店により閉店まで店に残り、泊っていった。
カッカッ!カッカッ!
吉井宿での親子の会話
兼重「とっつぁん!おれ、人形町に好きな人できたんだ。」
父・兼孝「おお。それはおめでたい。吉井にきてくれるんかい?」
兼重「・・・・・」
父・兼孝「どうするんでや?」
兼重「・・・・・」
カッカッ!カッカッ!
子供ができた・孫三郎兼重の長男「紋次郎」である。
三つになると紋次郎は店でお客に愛想を振りまいた。五つになればおみつの手伝いで、台所でおみつが作った料理を、客の机まで品出しをした。
客は、紋次郎の成長を楽しみにする者もいた。
兼重はおみつと夫婦になることを望んでいた。吉井に来てくれと懇願した。彼女は涙ながらに、ひたすらそれを拒んだ。
リウマチの父・連蔵を残してこの地を離れる事はできなかった。吉井に嫁ぐと言う事は父・連蔵も一緒に連れて行くと言うことになる。
父は、その移動に耐えられるような体ではなかった。
兼重は、本気でこの人形町に骨を埋めることも考えた。川内の鍛治場や中野家の先祖代々続く家柄の長男であることを考えると、江戸に出て、鍛冶屋をやると言う事は、父・孫三郎兼考から勘当されることが目に浮かぶ。親から勘当されると言うのは、この時代、人別帳(五人組帳・現代の戸籍謄本)から消されるということ。この世に存在しなかったと言うことになる。いわゆる無宿人となるのである。江戸では、奉行所による無宿人刈りが、治安維持のために時々行われていた。そこで捕獲されれば佐渡送りか八丈島送りとなるのである。なかなか決心がつかなかった。その上、江戸で鍛治屋をやるには許可を取らなければならない。江戸鍛冶町鍛冶頭の許可を受けて、役銀を払い、鑑札など営業許可証の類の所持が必要であった。外からの新参者が申請して簡単に取れる代物ではなかった。おみつと江戸で一緒に暮らすと言う事は、自分の特技である、火打鎌職人を捨て、めし屋の親父となることである。
兼重は江戸の出張が楽しみで仕方ない。二日半かけて江戸に行っていたが、時には一日二十二里を小走りに走り一日半で江戸についた。
カッカッ!カッカッ!
兼重がおみつと出会ってから八年。おみつ二十六歳。紋次郎八歳。
人形町一帯を縄張りとする材木町の平八郎と言う貸元が、子分を連れて飲みに来た。真摯な態度で接していた。非常に礼儀正しい親分である。その後、平八郎は、店を貸切で何度か宴会をした。金払いも良かった。決して掛けの後払いで飲むことがなかった。
新緑の生える頃、平八郎は
「名主をもてなすので、特別な接待をしたい。幻の新潟の銘酒「国光」を三升用意してくれ。上杉景勝が愛飲したという酒だ。一升一両するぞ。それと築地の海産物問屋「吉野」から幻の魚「げんげ」を仕入れ、天麩羅とお造りにして十人前出してほしい。げんげは吉野でしか手に入らない。これが献立となる。これは支払いだけでも十両になる。しかし私は宴会予算十五両を支払う。仕入れ先の吉野に対しては私の方から声をかけておくので、宴会の前日に届けさせる。代金は宴会が終わった翌日支払いで約束しておいた。」
と言う話を持ちかけられた。
おみつはその準備を行った。準備が全て整い、後は平八郎が名主を連れてくるのを待っていた。
新潟の銘酒「国光」は栓を開けても酒の香りがしない。上杉景勝はこの酒を好んだのか?げんげという魚は初めて見るが、マグロに似ている。おみつにはどこが違うのか全く理解できなかった。何時になっても平八郎らは見えない。
ついに朝になってしまった。料理は全て残ってしまっている。問屋の吉野が集金に来た。全部で十両払わなければならない。しかし、店の金を全部合わせても一両。
吉野「集金にめーりやした。」材料を配達に来た若い男とは別の人相の悪い男であった。
おみつ「平八郎親分はどこにいるかご存知ですか?昨日料理して待ってたんですが、平八郎親分も名主様もお見えなんなくて全部料理が残ったままなんです。それでお支払いができない状態です。親分がどこにいるかぜひ教えてくださいませ。」
吉野「平八郎?誰?それ?そんな奴知らねぇなぁ。」大柄な態度に変わった。
おみつ「そんな。お支払い、少し待ってくださいな。」
吉野「じゃあ明日全額揃えてくれな。明日集金に来るから。」
吉野には、平八郎親分と連絡を取るので、待ってくれと話をする。材木町の平八郎の家に行くのは初めてである。
小雨が降り始めてきた。
話に聞いていた場所には、はぎれ問屋があるだけだ。
おみつ「お尋ねしたいのですが、こちは平八郎親分のお宅ではございませんか?」
はぎれ問屋の主人「前もそういう平八郎と言う人間を探しに来る人がいたよ。おかみさん、まんまと騙されたね。」と言われた。おみつは途方にくれた。
おみつは平八郎を必死に探した。
朝まで賭場や飲み屋など回ったが、見つからなかった。
吉野は毎日取り立てに来た。七日目の日「これ以上待てないので、利息をつけさしてもらうよ。」
どんなに逆立ちしても、十両を用立てすることはできない。
吉野「女将さんしょうがねぇ。女郎屋行く準備してくんな。」
連蔵は寝たまま、起きることすらできなかった。
孫三郎兼重の江戸への出張は年に四回。三ヶ月に一回である。平八郎と吉野は、そのすきにおみつを罠にかけて貶めた。
おみつは、ついに内藤新宿の女郎屋で働き、仕入れ代金の支払いをする羽目になった。
太陽がギラギラ照りつける真夏の暑い日。
兼重が三ヶ月ぶりにめし屋訪れると、そこは、空き家となっていた。おみつも紋次郎も親父さんの姿がない。
まさかの風景に気が狂ったように人形町周辺を探し回った。近所の家に聞き込みをした所、連蔵が一人で亡くなっていたことを突き止めた。ようやく平八郎の罠にはめられたことを聞き出した。そこではおみつは内藤新宿の女郎屋にいることを知り、探しに行った。見つからない。
すでに内藤新宿を出て行ったことだけはつかんだが、どこに行ったかはわからずじまいだった。
平八郎と吉野を追いかけたが、悪事の限りを尽くした平八郎と吉野は、ついにお縄となり、小伝馬町の牢に一月前に入ってしまった。
兼重は泣き崩れた。
あるのはあふれ出てくる悲しみと、悔しさと、怒りと・・・
江戸に来ても仕事もせず三日三晩泣き通した。
三日かけて川内村の家に戻るが、意気消沈としていて、家族はみんな兼重のことを心配した。江戸で一体何があったのか? 帰ってきてから三日目に口を開き始めた。家族は兼重をそうーっとしておいた。三カ月間兼重は仕事ができなかった。手がつかなかった。
カッカッ!カッカッ!
一方で、残された八歳の紋次郎。ひとり路頭に迷った。隣の家に物乞いに行ったり、盗み、スリ、などを行って生活をしていた。寝る場所は他人の家の納屋か村外れの御堂などであった。
ある日、紋次郎は、日本橋の荒物問屋の伊勢屋の隣の乾物屋「越後屋」で、ほし芋の万引きをした。越後屋の番頭はそれを見逃さなかった。紋次郎を捕まえ、道に叩きつけた。「このクソガキめ!盗んだもの返せ。」
番頭は、紋次郎の両足の足首をもって空中で逆さにした。なにも出てこない。「このくそがきどこに隠しやがった。」越後屋の番頭は、往復ビンタを食らわせていた。
「おらあ盗んでねーよ。どんなことしたって、出てくるわけねーよ。盗んでねーんだから!ひでーじゃねーか!ばかにすんな!」
その現場に、隣の「伊勢屋」主人「橋爪浅次郎敷光」が居合わせ、越後屋の番頭の手首を後ろから捕まえた。殴るのを止めさせたのである。「もうその辺でいいじゃないですかい。こんな小さい子供なんで許してあげておくんなさい。」
越後屋番頭「伊勢屋の旦那。小さいからこそ悪いことを許しちゃダメなんですよ。こういう奴は性根から叩き直さないと、どんな大人になるかわかりゃしねえ。」
浅次郎「本人は盗んでないと言うし、品物も出てこない。越後屋の番頭さん!そんならアッシが代わりに買わせていただきやす。」
番頭「なんでそこまで。伊勢屋の旦那がそこまで言うなら。まぁそういうことだったら、私も引き下がりますが、あんまり甘やかさないでくださいよ。こんな奴はろくな大人になりやしねえ。」
番頭は金を受け取ると引き下がって、隣の越後屋に戻って行った。
浅次郎「坊主、こっちこい。」と言って、伊勢屋の店内に呼び込んだ。
紋次郎「おらあ万引きなんかしちゃいねーよ。絶対しちゃいねーよ。逆さにしたって出てこなかったのをおじさん見ていたんだろう?」
浅次郎は紋次郎のふんどしに手を突っ込んだ。するとそこからほし芋が出てきた。
浅次郎「なんだあ?これは?」
紋次郎「・・・・・」
浅次郎「ふんどしの中じゃ、おめーしか食えねーなあ・・・・・ん?・・・もう一つあるじゃねーか?」
紋次郎「いてーな。そりゃおれのちんちんだあ。」
浅次郎「あー手が腐る!」
紋次郎は自分のやったことを後悔した。そこまで見透かされて代金を肩代わりされて。子供であっても、自分のやったことが恥ずかしくなった。浅次郎に対して悪いと思った。
浅次郎「俺もガキの頃は、万引きはやった。だから、どこに隠すかはよくわかってんだよ。もう万引きなんかするんじゃねーぞ。おめは腹が減ってるのか?腹減ってるんなら飯食わしてやる。帰る家がないなら、うちに泊まらせてやる。そのかわり、俺の言うことを聞け。伊勢屋で働け。」
浅次郎は逆境にも負けないたくましく生きる紋次郎の姿に可能性を見出した。
以前、人形町のめし屋でいっぱいやったときに、この子が手伝ってるのを垣間見たことがある。厳しい商売の上で浅次郎は生きていく上での強さを高く評価し、この万引き少年を更生させ、子供のいない伊勢屋の跡継ぎの可能性にかけてみた。
「今は泥だらけだが、叩き直せばとびきりの火打ち金になるはずだ。子供のいねえ伊勢屋の、跡継ぎ候補にでもしてやるさ」
紋次郎は、涙をこらえながら干し芋を噛みしめた。 それは今まで盗んできたどんなご馳走よりも、重く、苦く、そして温かい味がした。
「……旦那。おら、働くよ。何でもやる」
小さく、しかしはっきりとした言葉。 後にこの少年が、木枯らし吹く街道で「あっしには関わりのねえことでござんす」と三度笠を揺らす無宿人になるのか、あるいは江戸を支える大店を継ぐのか、それはまだ誰も知らない。




