第5章天保の大飢饉
カッカッ!カッカッ!
上州吉井、川内村の闇を切り裂くのは、中野孫三郎兼重が魂を削り、鉄を叩く音だ。飛び散る火花は一瞬の命を燃やす線香花火のようであり、同時に、この飢えに苦しむ時代への静かな怒りのようでもあった。
中野家は延宝七(1679)年の弥勒院過去帳にも名を連ねる古くからの百姓だが、その経営規模は村でも下から数えたほうが早い。ゆえに代々、農間余業として鍛冶場を営んできた。関八州鍛冶頭の鑑札を握り、役銀を納めて細々と続けてきた火打ち金作り。だが、今この時、兼重にとって鍛冶はもはや「余業」ではなかった。
地獄に咲く「こんにゃく」の花
天保四(1833)年。空は呪われたように晴れ渡り、ギラギラとした太陽が大地を焼き尽くしていた。四年越しで続く干ばつ。川は干上がり、田んぼは無惨にひび割れ、まるで大地が悲鳴を上げて口を開けているかのようだった。
「兼重さん、まだやってるのかい。あんたの槌の音で、うちの鶏が卵を産むのを忘れちまったよ」
鍛冶場の入り口に、痩せこけた男が立っていた。幼馴染の幸吉だ。
「幸吉か。鶏が産まねえのは俺のせいじゃねえ。この雨の降らねえ空のせいだろ」
「そりゃそうだ。俺の腹の虫も、近頃じゃ鳴くのを諦めて、内側から俺の胃袋を食い始めてる気がするぜ。……食いもんがねえってのは、笑えるくらい腹が減るもんだな」
「笑えねえ冗談だ。ほら、少しは水を飲め」
兼重が差し出した手桶の水を、幸吉は泥水をすするように飲み干した。延宝の頃からこの地に住み着き、細々と百姓を営んできた中野家にとって、天保四年から続くこの大飢饉は、まさに「終わりの始まり」に見えた。経営規模は村でも最小。田んぼの水は干上がり、地割れした地面はまるで、口を開けて食い物をねだる亡者の群れのようだった。
かちかちかち
街道の向こうから、黒い着物を着た肥太った男が、数人の手下を連れてやってきた。奉行所や地主とも通じている「人買い」の仲買人だ。
「おい、作蔵。話はついてるな。娘を出すなら、今すぐ米を持ってきてやるぞ」
仲買人の言葉に、作蔵は震える手で三女のタマの背中を押し出した。
「……タマ。おめえ、運がいいんだぞ。この仲買人様についていきゃあ、江戸の大きな家で、白い飯が食える。いいべべ(服)も着せてもらえる。ここに居たって、待ってるのは芋のつると泥水だけだ。……幸せになるんだぞ、タマ」
かかかか
タマは首から火打ち金をぶら下げていた。兼重の工房に遊びに行ったとき、タマはせんべいと思いかじって前歯が欠けた。それを見ていた兼重が、お守り代わりに麻ひもをつけて首から下げてやったものだ。
かかかか
タマは、父の嘘を全部知っていた。 江戸へ行けば、待っているのは華やかな生活ではない。暗い部屋で、あるいは酒場や女郎屋で、体と心をすり減らす日々であることを、十歳の少女は本能で理解していた。
「父ちゃん……。オラ、白い飯より、父ちゃんが作った石っころみたいな蒟蒻めしが好きだ。母ちゃんの、土の匂いがする手が好きだ。……行きたくねえ、父ちゃん、行きたくねえよ!」
タマが泣き叫び、母・あざみの裾に縋り付く。あざみは娘を抱きしめようとしたが、作蔵がそれを遮った。
「馬鹿野郎! 行け! 行かねえと、おめえの兄貴たちも、みんな死ぬんだ! 行けっ!」
仲買人が合図をすると、手下たちがタマの細い腕を掴み、無理やり引き剥がした。 「離して! 父ちゃん! 母ちゃん!」
街道の脇に、大きな荷車が運ばれてくる。その上には、約束通りの**「米一俵」**が積まれていた。 タマの命の値段。十年間、家族で笑い、泣き、泥にまみれて生きてきた記憶のすべてが、わずか一俵の俵の中に詰め込まれた。
タマは荷車と入れ違いに、仲買人の籠へと押し込まれた。 籠の隙間から、タマの真っ黒な瞳が両親を追いかける。
「母ちゃん! オラ、いい子にするから! べべなんていらねえから……!」
その声が、ギラつく太陽の下、熱風にかき消されていく。作蔵は米俵にしがみつき、声を殺して慟哭した。その俵には、娘の涙が染み込んでいた。
かかかかっか
「……隣の家の作蔵さんとこ、今朝、赤ん坊が生まれたんだと。」
かっかっかっかっかっ
作蔵「また口が増えちまったなぁ。母ちゃんやるしかねえよなぁ。勘弁してくれ。これ以上養えねーよ。三女のタマを奉公に出して、やっと米一俵分の金を作ったばかりなのに……。うちに居たってまともな飯、食わせらんねんだから、いい奉公先見つかりゃ、白い飯食えて、いいべべ着せられて、こんな幸せなことねーよ。やっと口が減ったのにまた赤ん坊できちゃって。元も子もねえよ。勘弁してくれ母ちゃん。俺がこんにゃくの準備してくらあ。」
極貧小作は子供を養うことができず、女の子供がいれば、十歳前後になると親が奉公に出すか、女郎屋に身売りをさせる。口減らしと同時に、大金の収入が得られる。
上州の特産であるこんにゃくは、痩せた土地でも育つ強い作物だ。だが、この大飢饉の最中、それはあまりにも残酷な「間引き」の道具として使われていた。生まれたばかりの赤子の顔に、水で濡らしたこんにゃくを、鼻と口の上からかぶせ、窒息死させるのである。産声を上げたばかりの命を、命を繋ぐはずの食い物で窒息させる。それが、この時代の「慈悲」ですらあった。
「父ちゃん。オラ、涙しか出ねえよ。耐えらんねえ……」
作蔵の女房の絶叫が、遠くから聞こえてきた気がした。兼重は奥歯を噛み締め、再び槌を振り上げた。百姓としての仕事は全滅した。だが、彼には「鍛冶」があった。
「百姓じゃ、もう命を救えねえ」 兼重は、炉の中の鋼を睨みつけた。 「だから俺は、これを打つ。百姓の余業なんて言わせねえ。この火花で、地獄のような闇を照らしてやるんだよ」
赤子を筵に巻き窒息させる母親の地獄絵図。鏡には鬼の顔が映っている。渋川市
天保の飢饉では、兼重の農業もご多分に漏れず全滅。しかし彼にはほかの道があった。鍛冶屋に全力を尽くした。火打ち金に始まり、渡世人の長ドス・サンカのウメガイ、農具等。鍛冶屋の仕事は幅広い。
鍛冶屋の仕事の基本的手順は次の通りである。
原材料となる玉鋼の製作。
兼重が扱うのは、日本古来の製鉄技術「たたら製法」から生まれた玉鋼だ。
たたら製法とは、日本古来の製鉄法。砂鉄と木炭を原料にして良質な鉄を生み出す技術である。主に中国山地を中心に発展し、武具や農具、建築金物の材料となる玉鋼を生産してきた。
製鉄は「たたら炉」と呼ばれる粘土製の炉を築くことから始まる。炉の内部に木炭を敷き、そこへ砂鉄を一定の間隔で投入する。作業は三日三晩、ほぼ休みなく続けられ、炉の温度は一二〇〇度前後に保たれる。この高温によって砂鉄中の酸素が木炭の炭素と結びついて除かれ、鉄が還元されるのである。
炉の中では溶けきらない半溶融状態の鉄が徐々に集まり、最終的に「ケラ」と呼ばれる鉄の塊が形成される。操業が終わると炉を壊し、内部からケラを取り出す。このケラを割ることで、炭素量の異なる部分が現れ、最も純度の高い部分が玉鋼として選別される。
たたら製法の特徴は、機械に頼らず人の経験と勘によって火加減や材料の投入量を調整する点にある。そのため同じ方法でも毎回微妙に異なる鉄が生まれ、職人の腕が品質を左右した。近代的な高炉製鉄に比べれば効率は低いが、たたらで生まれた鉄は不純物が少なく、粘りと強さを兼ね備えている。こうして生み出された玉鋼は、日本刀をはじめとする伝統工芸を支え、日本の製鉄文化の象徴として今日まで受け継がれてきた。
西上州では富岡諏訪神社の刀鍛冶、龍眠斎などが自ら製鉄を行っており、兼重はその貴重な玉鋼を仕入れ、あるいは全国の産地から買い集めていた。しかし、飢饉の最中、最高級の鋼をそのまま使うことは贅沢に過ぎた。
「火打金に、最初から全部鋼を使う必要はねえんだ……」
兼重はコストを削減し、村人が買える価格帯を実現するため「浸炭」という技法に没頭した。安価な軟鉄を使い、その表面にだけ炭素を染み込ませて鋼に変える。
農具の鋤や鍬は使えば摩耗して短くなるが、新品を買い直す余裕など誰もいない。兼重は、すり減った農具の先に鋼を継ぎ足す。
軟鉄の弾力で鋼のもろさを補い、鋼の鋭さで乾いた大地を裂く。この農具の作り方を火打ち金に取り入れた。この「挟み込み」の技術こそが、後に中野屋を世界に知らしめる「ねじり形火打ち金」の革命的進化へと繋がっていく。
もし、この天保の大飢饉がなければ、これほどまでに執念深く技術を磨くことはなかっただろう。絶望が、職人の才能を極限まで引き出したのだ。
兼重は天保の大飢饉のときに、すべての労力を鍛冶に注ぎ込み、これらの技術革新を果たしたのである。逆に、天保大飢饉がなければ、ねじり型火打金は開発されなかったであろう。
師・龍眠斎との再会
兼重はさらに技術を深めるべく、富岡諏訪神社の刀鍛冶・龍眠斎を訪ねた。 「孫三郎か。お前もこの火の色の美しさがわかるようになったか」
龍眠斎は兼重が持参した「ねじり形火打金」の試作を手に取り、その火花の出方を確認した。 「……これはただの火熾しの道具ではないな。軟鉄のしなりと鋼の硬さが、極限の比率で混ざり合っている。軟鉄を使わなければこのねじれは生み出せない。孫三郎、お前は飢えの中で、命の鼓動を鉄に刻んだな。丹尺形や山形の物も、素材はすべて軟鉄。これで火花が出るのだから大した技術だ。これなら安くつくれるな」
「師匠。村じゃ、赤ん坊がこんにゃくで殺されているんです。この火花が、せめて奴らの絶望を少しでも照らせればと……それだけです」
ある夜、鍛冶場にふらりと幸吉が戻ってきた。 その手には、泥に汚れた古い鍬が握られていた。
「兼重。これ、直してくれねえか。……作蔵さんの鍬だ。あいつ、赤ん坊を埋めたあと、憑かれたみたいに地割れした田んぼを耕し続けて、先が折れちまったんだ」
「……ああ、貸せ。今すぐ最高の鋼を継ぎ足してやる」
兼重は、富岡諏訪神社で龍眠斎が作った貴重な玉鋼の欠片を取り出した。 それを熱し、作蔵の折れた鍬と一つに合わせ、叩き、練り上げる。
カッ! カッ! カッ!
そのリズムは、以前よりも力強く、希望に満ちていた。
「幸吉、見とけよ。この鍬は、前より強くなる。岩みたいな土でも、跳ね返さずに切り裂くぜ」
出来上がった鍬を水に浸けると、激しい蒸気が上がった。 幸吉は、その鋭い刃先を指でなぞり、震える声で言った。
「……綺麗だ。兼重、これ、まるで刀みたいじゃねえか」
「ああ。土と戦うための刀だ。これで耕せば、いつか必ず雨が降る。そう信じるしかねえだろ」
幸吉が鍬を持って帰ったあと、兼重は一人、炉の前に座り込んだ。 飢饉はまだ続いている。空には容赦ない星が輝き、明日も雨が降る保証はない。 だが、兼重の手の中には、新しく開発した「ねじり形」の試作案があった。 軟鉄と鋼を複雑に組み合わせ、ねじることで、これまでにない強度と火花の量を実現する、革新的な火打ち金だ。
「天保の大飢饉。こいつがなきゃ、俺はこんな工夫もしなかったろうな……」
皮肉な話だ。命が失われる極限の状況が、職人の腕を磨き、新しい技術を産み落とす。 兼重は、自ら打った火打ち金と火打石をカチリと打ち合わせた。
――暗闇の中に、眩いばかりの火花が舞った。
その一瞬の光の中に、兼重は見た。 奉公に出されたタマが、数年後にこの火打ち金を持って村に帰ってくる姿を。 そして、新しく生まれた赤ん坊たちが、飢えることなく笑っている未来を。
「……まだ、打てる。俺の腕が動く限り、この地の火は消させねえ」
兼重が再び槌を振り上げたその時、鍛冶場の屋根を叩く音がした。 「ポツ……ポツポツ……」 最初は聞き間違いかと思った。だが、音は次第に激しく、地割れした大地を叩く確かなリズムへと変わっていく。
「雨だ……雨が降ってきたぞ!」
村のあちこちで歓喜の叫びが上がる。 兼重は鍛冶場を飛び出し、夜空を見上げた。 冷たい雨が顔を濡らす。それは、彼が打ち続けた鋼の熱を冷ます、天からの慈雨だった。
だが、雨が降ればすべてが解決するわけではない。 飢饉の爪痕は深く、人の心に刻まれた傷は消えない。
兼重は一人、炉の前に立ち尽くした。 だが、その時、雨の中から一人の少女が姿を現した。泥にまみれ、ボロボロの服を着ているが、その瞳だけは強く光っていた。
「……兼重のおじちゃん。私だよ、タマだよ」
奉公に出されたはずの作蔵の娘・タマだった。彼女は奉公先で虐待を受け、命からがら逃げ出してきたのだという。 江戸の大きな商家へ奉公に出されたはずの彼女の姿は、あまりに無惨だった。
「おじちゃん、ごめんね……。勝手に帰ってきちゃって。でも、あそこは……あそこは人間が住むところじゃなかった」
タマが震える手で脱ぎ捨てた着物の下を見て、次男は息を呑み、孫三郎は鉄を握りしめた。 その背中には、熱湯を浴びせられたような爛れた跡と、太い紐で打ち据えられた無数の赤黒い線が走っていた。
奉公先の主人は、タマを人間として扱わなかった。 「おい、この出来損ないが! 米三俵も払ったんだ、死ぬまで働け!」 真冬の冷水の中に素手で放り込まれ、一昼夜の雑巾がけを命じられる。指先は凍傷で真っ黒に変色し、ひび割れた傷口には塩を擦り込まれた。
ある夜、タマは主人が酔った勢いで振り上げた火箸を避け損ねた。 「熱っ、い……!」 ジュッという肉の焦げる音と共に、左肩に生涯消えない焼き印が刻まれた。主人は笑っていた。 「お前の故郷の特産だろ? ほら、こんにゃくみたいに柔らかく焼いてやったぞ」
タマは、暗い納屋に閉じ込められた夜、何度も自分に問いかけた。 「オラ、何のために生きてるんだっけ。父ちゃんを助けるため? 赤ん坊を殺さないため?」
飢え、寒さ、そして言葉の暴力。 「お前のような百姓の搾りカスは、ここで野垂れ死ぬのが一番の奉公だ」 そう吐き捨てられたとき、タマの心の中で何かが弾けた。彼女を突き動かしたのは、憎しみではなく、懐にある「硬い鉄」の感触だった。
夜陰に乗じ、タマは肥溜めに身を隠して屋敷を抜け出した。追っ手の足音が聞こえるたびに、心臓が止まりそうになる。喉を焼くような渇きに耐え、泥を啜り、草の根を齧りながら、彼女は中山道を逆走した。
「……これを、ずっと持って逃げてきたの。おじちゃんから貰ったお守り。一番綺麗な火花が出る、火打金……」
タマの小さな掌に握られていたのは、かつて彼女が幼い頃、あまりにお腹が空いて「せんべい」と間違えてかじり、前歯を欠けさせたあの試作の火打ち金だった。
外では冷たい風が吹き荒れていたが、孫三郎の工房には、決して消えることのない「生」の炎が赤々と燃え上がっていた。




