第4章山窩(サンカ)のウメガイ
山窩の刃物 ウメガイ
「カッカッ、カッカッ……!」
上州吉井宿。漆黒の闇を切り裂くのは、中野孫三郎兼重が魂を削り、鉄を叩く音だ。飛び散る火花が、鍛冶場の煤けた壁に真っ赤な残像を焼き付けては消えていく。兼重がその槌で生み出しているのは、火打金ではない。農民が土を耕す鍬でもなければ、武士が腰に差す華美な刀剣でもない。
全長21センチ、柄12センチ、刃渡り9センチの両刃。 その刃先は獲物の皮を裂き、肉を抉るために鋭利に研ぎ澄まされ、反りのない直刃の身には、この世の理不尽を突き通すような冷徹な光が宿っている。 名を「ウメガイ」という。
この奇妙な、しかし凄絶な美しさを湛えた刃物は、日本の正史から意図的に抹消され、あるいは忘れ去られてきた漂白の民――山窩にとっての生命線であり、唯一無二の「魂」そのものであった。
鉄の火、山の民
「兼重さん、またそんなおっかない顔して鉄を叩いてるのかい。火花で顔が焼けても知らねえぜ」
鍛冶場の入り口に、音もなく影が落ちた。兼重は槌を振るう手を止めず、鼻を鳴らす。 「……アザミか。相変わらず、幽霊みたいな歩き方をしやがる」
そこに立っていたのは、アザミと呼ばれる男だった。サンカの部族の中でも、特に里の人間との交渉や物資の調達を担う「クズシリ(案内人)」の役目を負っている。彼の身のこなしは、風に揺れる笹の葉のように捉えどころがない。
「ハハッ、足音を立てて歩くのは里の連中だけで十分だ。俺たちにゃ、これがなきゃ山じゃ生きていけないんでね」 アザミは暗がりに腰を下ろすと、兼重が打ち上げたばかりのウメガイを手に取った。指先で刃の重心を確かめるその仕草には、獲物を狙う獣のような鋭さがある。
「今回の注文はいつも以上に 까다롭다(厳しい)ぜ。反りは一切入れるな、両刃にしろ、それでいて先は抉り込むように。……アザミ、お前らこれを何に使うんだ? 猪を捌くにしちゃあ、物騒すぎる形だ」
兼重が問うと、アザミは刃の表面に映る自分の眼光を見つめながら、静かに答えた。 「猪も捌くし、竹も割る。だがな、兼重さん。これは俺たちの身を『守る』ための最後の砦なんだ。あんたは知ってるか? 里の連中は俺たちのことを『縄文人の生き残り』だなんて、まるで化石みたいに呼びやがる」
「縄文人? 随分と大層なご先祖様だな」
セブリと呼ばれる簡易住居
「ああ。土地も持たず、家も持たず、定住もしねえ。セブリという天幕一つで山を渡り歩く。戸籍なんて紙切れの束にも縛られねえ。ヤエガキという独自の掟の中で、俺たちは俺たちの時間を生きてる。里の連中から見りゃ、俺たちは昨日も明日もない、ただの幽霊に見えるだろうさ」
アザミは笑ったが、その瞳の奥には冷たい憤りがあった。明治という新しい時代が始まり、国はすべての人間に「名前」と「場所」を強制しようとしていた。
「最近は警察がうるさくてね。このウメガイを見つけりゃ、人殺しの道具だと決めつけて奪おうとする。だから俺たちは、これを隠す場所を家族全員で決めておくんだ。女房も子供も知っている。たとえ親が捕まっても、この『魂』だけは山に隠し通す。それがサンカの誇り、唯一の意地ってやつさ」
兼重は黙って炉の炎を見つめた。中野一族が先祖代々、サンカの特殊な依頼を受けてきたのは、彼らが里の法に馴染めぬ「はぐれ者」同士であったからかもしれない。彼らが操る独自のサンカ文字、そして「サンショコトバ」と呼ばれる特殊な隠語は、標準語しか解さぬ者には鳥のさえずりや風の唸りにしか聞こえない。しかし、兼重にはその響きの根底にある「叫び」が理解できた。
セブリの知恵、自然の掟
数日後、兼重は追加の納品のために、アザミたちの住処である「セブリ」を訪れた。 場所は、下仁田宿の青倉川渓谷の最深部。幕末に水戸天狗党と追撃する高崎藩が死闘を繰り返した「下仁田戦争」の現地場所の上流となる。水辺を前にし、背後に急峻な山を負うその立地は、外敵をいち早く察知するための天然の要塞である。
「よう、兼重さん。文明の恩恵を受けない原始の暮らし、どうだい?」 アザミが石積みの爐で、里で手に入れた古い釜を火にかけながら言った。
川を堰き止め熱した石を投げ込んだサンカの風呂
「原始的というより、驚くほど合理的だ。無駄なものが一つもない」 兼重は感嘆した。数本の柱に藁や筵を掛けただけの天幕。だが、そこにはサンカの知恵が凝縮されていた。男たちは竹を割り、農家で珍重される「箕」や籠を見事な手つきで編んでいく。彼らは「ミナオシ」とも呼ばれ、秋になると農村へ降りては、道具の修理をして僅かな現金を稼ぐのだ。
「おじちゃん、これあげる!」 一人の子供が、竹細工の風車を回しながら駆け寄ってきた。その足元には、一匹の巨大なアオダイショウが、まるで忠犬のように付き従っている。
「うおっ! 蛇だぞ、危ない!」 兼重がのけぞると、子供は鈴の鳴るような声で笑った。 「怖くないよ。この子は牙を抜いてあるんだ。大事な穀物を食べるネズミを追い払ってくれるの。冬は囲炉裏の近くで一緒に寝るんだよ」
アザミが釜の蓋を上げながら言った。 「サンカは蛇取りの名手だ。タラの木の棘と髪の毛を燃やす煙を使って、大量の蛇を袋小路へ追い込む。蛇は里じゃ滋養強壮剤として高値で取引される、俺たちの貴重な資金源だ。……どうだい兼重さん、蛇の干物でも食っていくか? 精がつくぜ」
「……鉄を食う方が性に合ってるよ」
「ハハッ、相変わらずだ。だが、この自由もいつまで続く。お上は俺たちを数えて、箱の中に閉じ込めたがっている。土地代もかからねえ、水も空も誰のもんでもねえ。そんな当たり前のことが、この国じゃ罪になるらしいぜ」
激突、誇りと掟
自由の代償は、常に「暴力」となって降り注いだ。 明治政府にとって、行政の把握できない移動民は、犯罪の温床でしかなかった。行商の裏で窃盗を働き、賭博に興じる――極貧の中で生きるサンカの一部にそうした事実があったとしても、それは彼らを追い詰めた社会の影でもあった。
ある秋の暮れ、兼重が材料の買い出しの帰りにセブリの近くを通りかかったとき、山を揺るがす松明の光を見た。 「警察だ! 逃げろ!」 叫び声が夜の森を切り裂く。大規模な「サンカ狩り」だった。
兼重が駆けつけると、そこには地獄があった。警官たちが十手を振り回し、長年使い込まれた筵や天幕を切り刻み、火を放っている。泥にまみれ、血を流しながらも抵抗するアザミの姿があった。
「アザミ! こっちだ、逃げろ!」 兼重が叫ぶが、アザミは首を振った。 「兼重さん、手出しは無用! これは俺たちが、この国の法と対峙するための『掟』だ!」
一人の巡査が、アザミの女房の髪を掴み、地面に組み伏せた。 「隠しているものを出せ! ウメガイはどこだ! あれは凶器だ、一丁につき五年の懲役だぞ!」
女房は激しく首を振り、頑なに口を閉ざした。子供が泣き喚きながら、警官の足を叩く。兼重の視線の先――腐った倒木の洞の中に、先程自分が納品したばかりのウメガイが潜んでいることを、兼重だけが知っていた。
「放せよ、お役人さん……俺たちの魂に触んじゃねえ!」 アザミが懐から竹筒を投げつけた。割れた筒から溢れ出したのは、牙を抜かれていない野生の毒蛇たちだった。 「うわああ! 蛇だ! 蛇の呪いだ!」 警官たちがパニックに陥り、散り散りになる。その一瞬の隙に、サンカたちは霧が晴れるように、音もなく山の深淵へと消えていった。
受け継がれる鋼、消えゆく民
翌朝。静寂を取り戻した渓谷で、兼重は倒木の中からウメガイを回収した。 刃は錆びることなく、冷たい朝露を弾いて静かに光を放っていた。それは、どんな屈辱にまみれても決して折れない、漂白の民の誇りそのものに見えた。
背後で笹が鳴り、ボロボロになったアザミが姿を現した。
「……生きてたか、アザミ」
「ああ。蛇たちが助けてくれたよ。奴ら、ネズミだけじゃなくて権力者の脂ぎった匂いも嫌いらしい」
アザミは兼重からウメガイを受け取ると、愛おしそうにその身をなぞった。 「兼重さん。俺たちはこれから、さらに北の、さらに奥の山へ逃げる。いつか、この国に俺たちの居場所が完全になくなるまでな。戸籍を持たず、人別帳にも載らず、風のように生きて、土に還る。それがサンカだ」
「……また、打ってやるよ。折れたらいつでも持ってこい。俺の槌の音を頼りにしろ」
「恩にきるぜ、中野の旦那」 アザミはそう言うと、深い霧の中に溶け込んでいった。その足音は、もはや兼重の耳にも届かなかった。
サンカの掟「ヤエガキ」と情念
それから数年後。 上州吉井宿の兼重の元に、再びアザミが訪れた。しかし、その顔色は以前よりも暗く、沈んでいた。彼は先祖代々伝わるという「呪われた古鉄」を携えていた。
「いいか、兼重さん。これはただのウメガイじゃない。俺たちの掟、『ヤエガキ』の正義を執行するための刃だ。……里の法が死んでも、俺たちの掟は死なねえ。いや、殺しちゃいけねえんだ」
アザミは、サンカの最高法規である「ヤエガキ(八重垣)」について、低い声で語り始めた。土地を持たず、境界を持たない彼らにとって、この掟こそが唯一の骨格だった。
仲間の女を奪うな。
嘘をつくな。
セブリの場所を売るな。
これに背いた者は、長老による苛烈な裁きを受けねばならない。そしてその裁きには、職人が魂を込めて打ったウメガイが必要だった。
「兼重さん、これを見てくれ」 アザミが示した古鉄の表面には、肉眼では辛うじて判別できる程度の、奇妙な幾何学模様が刻まれていた。
「……文字か?」
「ああ。サンカ文字だ。古代、神々が使っていた『豊国文字』とも、出雲の古い記号とも言われている。俺たちの間じゃ、これを鋼に刻むことで、刃に『不滅の命』が宿ると信じられているんだ」
兼重はその文字を指先でなぞった。その瞬間、指先から鋼の冷たさとは異なる、激しい熱量を感じた。
「アザミ、お前たちは……こんな重いものを背負って歩いているのか」
「ああ。里の連中の文字は、嘘を書くためにある。だが俺たちの文字は、魂を刻むためにあるんだ。頼む、この古鉄を溶かし、俺たちの『誇り』をもう一度、最高の一振りに変えてくれ」
歴史の闇に散る火花 ―― 受け継がれる「見えない文字」
時代は無情に流れ、明治の終焉から大正、そして昭和へと加速した。 1945年、戦災と激動の中、二十万人いたと言われるサンカの数は激減した。そして1955年(昭和三十年)を境に、日本の山々から「セブリ」の煙が上がることはなくなった。 民俗学者の柳田國男は、晩年、サンカについてこう書き残している。 「彼らは去ったのではない。我々の血の中に、その自由と誇りを溶け込ませたのだ」
柳田国男
だが、物語は終わっていなかった。
現代、富岡市七日市「鍛冶政」の片隅。中野家の古い蔵を整理していた少年が、新聞紙に包まれた奇妙な小刀を見つけた。 「じいちゃん、これ何? 刀にしては短いし、変な形だよ」
政吉の長男孫三郎(右)とその妻
老いた主人は、震える手でその小刀を受け取った。錆一つないその刃身には、今も静かな闘志が宿っていた。 「それはな、ウメガイというんだ。……自分を守るためだけじゃなく、大切な人を救うために、ある職人が魂を削って打った、この世で一番強い刃だよ」
「誰にも教えちゃいけないよ」と孫三郎は付け加えた。「これは、あの山の民と、俺たちの先祖が交わした、最後の約束なんだからな」
少年の目には、刃の表面に彫られた奇妙な記号――サンカ文字が、一瞬だけ赤く明滅したように見えた。 蔵の外では、風が吹き抜けていく。それはかつてアザミたちが山を渡る際に使った、あの「サンショコトバ」の残響かもしれない。
現在、日本にサンカという部族は公的には存在しない。 しかし、上州の古い家々の屋根裏や、深い渓谷の岩陰、そして私たちの血管の中に、彼らの「自由」と「掟」は、兼重が散らした火花のように今も息づいている。
「カッカッ、カッカッ……!」
風の強い夜。耳を澄ませば、今もどこからか鉄を叩く音が聞こえてくる。 それは、どれほど時代が変わろうとも、決して支配されることのない「人間の誇り」を打つ、終わりのない響きである。
そして、蔵の奥。 少年の見つめる前で、一匹のアオダイショウが静かに現れ、古びたウメガイの上で、優しくとぐろを巻いた。その瞳には、かつて兼重が見た、鍛冶場の火花と同じ金色の光が宿っていた。




