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燧の音色  作者: 野宿の匠


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第3章大前田栄五郎

挿絵(By みてみん)

大前田栄五郎(田島栄五郎)

「カッカッ! カッカッ!」


文政九(1826)年、川内村。湿った夜気を切り裂くのは、中野孫三郎兼重が振るう槌の音だ。 火床から放たれる紅蓮の光が、孫三郎の彫りの深い顔を赤く染め上げる。彼が打っているのは、侍に納める刀ではない。ましてや、権威を象徴する装飾品でもない。


「……親方、また『それ』を打ってるんですかい」


工房の影から、気まずそうに声をかけたのは、矢田宿から逃げ出してきた百姓の次男坊、**留二とめじ**だ。


「留二か。また博場でしくじったか」


「へへ……。大前田の親分の賭場で、つい熱くなっちまって。それより親方、そんな火打ち金ばかり打ってないで、俺に凄い長ドスを打ってくださいよ。一振りで岩も断つようなやつ!」


孫三郎は手を止めず、ふっと口角を上げた。


「馬鹿を言え。俺の火打ち金は闇を照らすためにある。お前のような間抜けが持つ長ドスは、自分の足の指を切り落とすのが関の山だ」


「ひでえな! 親方、俺だっていつかは国定の忠治さんみたいに……」


その時、工房の入り口を塞ぐように、一人の大男が姿を現した。


怪物たちの邂逅

「……いい音だ。鉄が『泣くな』と吠えてやがる」


現れたのは、大前田栄五郎。十五歳で人を斬り、昨年(文政八年1825)、佐渡金山から島抜けまでやってのけた、上州博徒の生ける伝説だ。 その隣には、まだ若く、鋭い眼光を放つ男が立っている。後に「赤城の山」でその名を知らしめることになる国定忠治である。



大前田栄五郎

「栄五郎親分……! それに忠治さんまで!」


留二が慌てて平伏する。栄五郎は豪快に笑い、孫三郎の前にどっかりと腰を下ろした。


「孫三郎殿、こいつを頼む。佐渡の泥にまみれて、少しばかり魂が煤けちまった」


栄五郎が差し出したのは、使い古された火打ち金だった。佐渡金山の過酷な労働の中、彼が密かに握りしめ、役人の悪事を暴くための「種火」を熾した相棒だ。


遠島(島流し)にあった者で、脱獄できたものはいない。


「……佐渡の塩気でボロボロだな。だが、芯は腐っちゃいない」


孫三郎はそれを手に取り、火床へ投じた。 若き忠治は、孫三郎の無駄のない動きをじっと見つめている。

栄五郎はその火を見ながら島抜けを語り始めた


カッカッカッカッカッカッカッカッ


冥府の底、黄金の火 ―― 佐渡金山脱獄録

そこは徳川の栄華を支える黄金の揺り籠であり、同時に、人別帳を消された無宿人たちが最後に流れ着く「生ける墓場」であった。


佐渡ヶ島、相川金山。 漆黒の坑道、その最下層に位置する「水替人足」の現場は、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった。胸まで溜まった水は、透き通る地下水ではない。上層から滴り落ちてくる囚人たちの小便と糞尿が混じり、腐敗して鼻を突く悪臭を放つ泥水だ。


「カチャ……カチャ……」





重い足枷が泥水を掻き回す。二十四時間、交代なし。囚人たちは桶を掲げ、ただひたすらに、死ぬまでこの不浄の水を汲み出し続ける。


「おい、新入り。手を止めるな。隣の仏をよく見ろ。手が止まった瞬間に、ただの肉塊になるのがこの場所だ」


声をかけたのは、この区画を仕切る「牢名主」の重蔵だ。ここでは、シャバでの罪の重さや人徳など関係ない。どれだけ長くこの地獄で生き延び、汲み出しの効率を維持できるかという、残酷なまでの「生存能力」がヒエラルキーを決める。


「……重蔵の旦那、わかってやす。でも、この水、昨日より冷たくねぇですか」

「贅沢抜かすな。冷たいってことは、まだお前の血管に温けぇ血が流れてる証拠だ。一日に一度の、この『泥汁』を流し込める幸福を噛み締めな」


差し出されたのは、米の一粒も入っていない、野菜のクズとこんにゃくが浮いた薄い汁だった。囚人たちは、それを泥に塗れた手で啜る。


そこへ、頭上の足場から「管理人」である番太の五郎蔵が、鼻を布で覆いながら降りてきた。手には棘のついた柚子の枝棒を握っている。


「おい、不浄物ども! 水位が上がっているぞ。仕事が遅いからだ!」

「番太様、昨夜からの雨で上からの浸水がひどくて……。皆、寝る間も惜しんで汲んでおりやす」


重蔵が必死に弁明するが、五郎蔵の目は冷酷に光った。

「言い訳など聞いていない。おい、お前だ、栄五郎」


五郎蔵が指差したのは、列の端で黙々と桶を運ぶ大柄な男だった。 大前田栄五郎。かつて上州を、いや関東一円を震撼させた博徒の大親分である。その威厳は、この泥水の中でも失われていなかった。


「はい」

「お前の態度は、どうにも鼻につく。シャバで親分と呼ばれていたからといって、ここではただの泥鼠だ。……その桶を置け。今日は一晩中、その場で水を掻き出し続けろ。桶を使うのは許さん。手で、掬え」


あまりに理不尽な命令に、周囲の囚人たちが息を呑む。

「……」

「なんだその目は! 文句があるなら、今すぐここで首を撥ねてやってもいいんだぞ!」


五郎蔵は柚子の枝棒を振り上げると、栄五郎の背中を激しく打ち据えた。乾いた音が響き、栄五郎の肌に赤い筋が走る。柚子の棘が栄五郎の背中を刺す。血が流れる。栄五郎は一言も呻かなかった。ただ、鋭い眼光を五郎蔵に向けただけだった。


「何だ、その目は! 殺してやる!」


五郎蔵がさらに打ちかかろうとしたその時、重蔵が間に入って土下座した。 「番太様! こいつは私が教育しやす! どうか、今は作業を続けさせてくだせぇ。水位がこれ以上上がれば、金鉱にまで響きやす!」


五郎蔵はペッと唾を吐くと、「泥鼠どもが」と捨て台詞を吐いて去っていった。


深夜。交代のわずかな隙間。 栄五郎は、重蔵にそっと声をかけた。


「重蔵、助かった」

「……旦那。あんたほどの人が、なんでこんな所で終わらなきゃいけねぇんですか」

「終わるつもりはない。重蔵、俺は今夜、島を抜ける」


重蔵は目を見開いた。

「無茶だ! 佐渡を抜けた奴なんて、一人も……」


「火があれば、道は開ける。これを見ろ」


栄五郎が、汚れきった襤褸布の奥から取り出したのは、掌に収まるほどの小さな鋼の塊だった。それは、かつて彼が上州吉井宿の火打鎌職人・中野孫三郎兼重に、命を懸けて打たせた「火打金」だった。

「兼重の火打金か……。なぜ、そんなものを持ち込めた」

「ねじり形三角のところに糸を通し、俺の奥歯に縛って、喉の奥に隠し続けていたのさ。こいつだけは、お上にも、この地獄の水にも渡せなかった」


栄五郎は、坑道の壁に僅かに滲み出ている「燃える水(原油)」を見つめていた。


「重蔵、俺が打つ火花を合図に、一気に汲み出し口の木枠を壊せ。浸水が逆流すれば、番人どもはパニックになる。その隙に、海岸へ続く隠し穴から出る」


嵐の夜だった。 荒れ狂う日本海が島の崖を叩き、雷鳴が轟く中、栄五郎は行動を開始した。 追ってきたのは、あの五郎蔵だった。


「逃がさんぞ、栄五郎! 無宿人の分際で、お天道様を拝もうなどと!」 「……五郎蔵。お前のような法の名を借りたケダモノに、俺の魂は縛れねえ」


栄五郎は、兼重が打った火打金を石に打ち付けた。


「カッ!」


それは、単なる火花ではなかった。兼重がその魂を削って鍛え上げた鋼は、湿りきった空気の中でも、まるで太陽を凝縮したような鮮烈な火花を放った。 その火花が、栄五郎が撒いた原油と、坑道内に溜まっていたガスに引火した。


「どおぉん!」


凄まじい爆発音と共に、炎の蛇が坑道を駆け抜け、五郎蔵たちを呑み込んだ。爆風によって木枠が崩れ、大量の泥水が番人たちの詰め所へと逆流する。


「行くぞ、重蔵!」


栄五郎は重蔵の手を引き、炎の光に照らされた脱出口へと突き進んだ。


崖の上。荒れ狂う海を眼下に、二人は肩で息をしていた。 後ろを振り返れば、佐渡金山の入り口から赤い煙が立ち上っている。


「……旦那。本当に、抜けちまった」

「いや、これからだ。……見てな、重蔵」


栄五郎は、雨に濡れた火打金を大切に懐へ仕舞った。

「兼重の打つ火花は、闇を照らすためだけにあるんじゃねぇ。絶望の中にいる奴に、『生きて戻れ』と命じる光なんだ」


二人は用意していた簡素な丸木舟に身を投げ、漆黒の荒海へと漕ぎ出した。 背後で、佐渡の島影が次第に遠ざかっていく。 胸まで腐った水に浸かっていた男たちが、初めて浴びる、本当の、自由の潮風。


大前田栄五郎は、水平線の向こうに見える上州の山々を想った。 自分を待つ、まだ見ぬ明日と、あの時火打金を託してくれた鍛冶屋、兼重の真剣な眼差しを。


「……待ってろよ、兼重。お前の打った火花で、俺は地獄を焼き払って戻ってきたぜ」


荒波を切り裂く舟の舳先で、栄五郎の瞳には、かつての「関東一の大親分」の鋭い光が完全に戻っていた。 佐渡から逃げ延びた唯一の男。その伝説は、瞬く間に本土へと広がり、絶望の世に生きる民衆の心に、消えない希望の火を灯すことになるのだ。


カッカッカッカッカッカッカッカッ


「孫三郎殿。あんたの打つ鉄は、なぜ折れない」


忠治の問いに、孫三郎は槌を振り下ろしながら答えた。

「折れるのは、鉄が自分の形に固執するからだ。叩かれ、焼かれ、水の冷たさに耐えた鉄だけが、形を超えた『強さ』を宿す。忠治殿、あんたも今は栄五郎殿という火床に焼かれている最中だろう?」


「……フン、違いない」


忠治は少しだけ照れくさそうに三度笠を直した。その様子を見ていた留二が、緊張を解こうと口を挟む。


「なあ忠治さん、俺にもその強さの秘訣を教えてくださいよ。どうすればそんなに格好良くなれるんです?」


忠治は留二の泥だらけの顔をじっと見て、真面目な顔で言った。 「……毎日、芋のつるを百本食うことだ。あれは腸を鍛え、博打の負け惜しみに耐える『粘り』をくれる」


「ええっ! 百本も!? ……だから俺、いつもお腹壊すのかなあ」


留二の真面目な返しに、栄五郎が大笑いし、工房の張り詰めた空気は一気に和らいだ。


鉄の誓いと、血の予感

だが、栄五郎の目はすぐに真剣なものに戻った。 「孫三郎殿。俺はまた行く。次は、久宮村の丈八とのショバ割りだ。血が流れるだろう。だが、俺が斬るのは奴じゃない。この腐った八州の暗雲だ」


文政元年の夏。祭礼賭博のショバ割りを巡る抗争。栄五郎はその日、丈八を斬り、再び凶状持ちとして東海道へ流れることになる。


孫三郎は、仕上がったばかりの火打ち金を栄五郎へ手渡した。 「……これは、ただの火を熾す道具じゃねえ。あなたが佐渡で見た地獄、そしてこれから歩む血の道のりを、正しく照らすための『鏡』だ。道に迷ったら、こいつを打ってください」


栄五郎はそれを強く握りしめた。 「感謝する。……忠治、行くぞ。上州の夜はまだ長い」


二人の怪物は、闇の中へと消えていった。


未知なる火花の行方

留二は、彼らが去った後もしばらく、闇を見つめて立ち尽くしていた。

「親方……あいつら、本当に人間なんですかね。なんだか、大きな嵐がすぐそこまで来てるような気がします」


「ああ。嵐だ。だがな、留二。どんな大嵐でも、火種さえ絶やさなけりゃあ、また陽は昇る」


孫三郎は再び槌を握った。 「カッカッ! カッカッ!」

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