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燧の音色  作者: 野宿の匠


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第2章 留二と忠治と

カッカッ!カッカッ!


幕藩体制の弱体化による汚職や政治の乱れに加えて、天保の大飢饉という大自然災害。中期的に見ればゆるい寒冷期にあたる時代。農業に従事するものは、人として生きられない時代。農家の次男、三男は無宿渡世人となって、博打で収入を稼ぐ道を選ぶ者もいた。


「二足のわらじ」と「芋のつる」

留二とめじ「父ちゃん。おらぁ決めた。明日からおてんとうさまは拝まねえ。その代わり、サイコロの目と心中してやる」


留二とめじは、泥に汚れた自分の手を見つめて吐き捨てた。夕飯の椀の中には、ひょろひょろとした芋のつると、水増しされた蒟蒻飯が寂しく泳いでいる。「水増し飯」だ。天保の飢饉は、矢田宿の土を石のように硬く変えていた。


「なんだと? 畑はどうする」


留二とめじ「やってらんねえよ! 夜明け前から野良仕事、帰ればわらじ作りの夜なべ。これだけ働いて、飯はあんちゃんの半分、嫁さんの一人も取れねえ。人間じゃねえ、おらぁただの動く肥溜めだ」


「……」


留二とめじ「大前田(栄五郎)親分の子分になりゃ、一攫千金。派手な合羽を羽織って、賭場で稼いで、酒と女で面白おかしく生きる。そっちの方がよっぽど『人間』らしいじゃねえか!」


「ばっきゃーろ!」 親父の怒号が、煤けた天井を揺らした。


「てめえなんぞ勘当だ! 二度とうちの敷居はまたがせねえ。どこかの賭場でお縄になって、さっさと三途の川で泳いでこい!」


留二とめじ「のぞむところだ。せいぜい芋のつるで長生きしろよ!じじい」


留二とめじが家を飛び出そうとした時、背後で長男の留吉とめきちが、ボソリと呟いた。


留吉とめきち留二とめじ……おめえはいいな。好きな場所で野垂れ死ねて」


留二とめじ「ああ? 何言ってんだ、あんちゃん」


留吉とめきち「おれは『長男』っていう呪いに縛られて、死ぬまでこの泥んこ遊びから逃げられねえ。守る家があるってのはな、首に重てえ石臼ぶら下げて歩くようなもんだ。あんちゃんのどこが羨ましいんだよ……」


留二「……ちっ、湿っぽいこと言うな。あばよ」


留二は振り返らずに走り出した。その背中を、冬の月が冷たく照らしていた。


隣村の鉄音

矢田宿の境界を抜け、隣の川内村へ差し掛かる頃、夜気はさらに鋭さを増した。 闇に沈む村の中で、一箇所だけ、規則正しい鉄の音が響いている。


留二「……こんな夜更けに、まだやってんのか」


吸い寄せられるように向かった先には、**「本家請合 上州吉井宿 御火燧処 中野屋孫三郎」**の看板を掲げた鍛冶工房があった。 火床ほどから上がる真っ赤な炎が、一人の男の横顔を照らし出している。 中野孫三郎兼重。 この界隈で知らぬ者はいない。鋭い切れ味の刀を打ち、何より庶民の生活に欠かせぬ「吉井の火打ち金」を作る名工だ。


孫三郎は、入ってきた留二に目を向けず、ただ一心に鉄を打ち続けていた。


「……何しに来た、矢田の次男坊。その目は、土を耕す者の目じゃねえな」


留二「……! なんで俺が矢田の人間だってわかったんだ」


孫三郎は手を止め、真っ赤に焼けた鉄を水槽に沈めた。凄まじい蒸気が上がり、工房内を白く包む。


「お前の着物の泥だよ。矢田の土は粘りが強い。そいつを振り払って、博徒の博打ばくち風に吹かれに行こうってツラだな」


孫三郎は、仕上がったばかりの火打ち金を手に取り、無造作に留二へ放り投げた。留二は慌ててそれを受け止める。氷のように「冷てえ!」。


「そいつは『本吉井』の名を背負った火打ち金だ。火を出すにはな、ただ叩きゃいいんじゃねえ。鉄と石、互いの覚悟がぶつかり合って初めて、闇を照らす火花が出る」


「覚悟……? 俺にだってあるさ! 大前田の親分の下で、死ぬ気で成り上がってやるんだ!」


「笑わせるな」 孫三郎の低い声が、工房の壁に反響した。 「お前が言っているのは『自棄やけ』だ。博徒の合羽の下には、お前と同じように居場所を失った次男坊三男坊の死体が山ほど積み重なっている。栄五郎親分は稀代の侠客だが、彼が束ねるのは三千の『命』だ。三千の『自棄』じゃねえ。お前は、自分の命を何だと思っている」


孫三郎は、鋭い眼光で留二を射抜いた。その目は、名刀を研ぎ澄ます時の厳しさに満ちていた。


「火打ち金は、暗闇を照らすためにある。お前がその道を往くというなら止めはせん。だがな、お前のその泥だらけの手で出す火花が、誰かを温めるものか、それとも家を焼き尽くすものか、よく考えろ」


「……」


「持っていけ。その火打ち金は餞別だ。もし、博徒にもなれず、百姓にも戻れず、本当の闇に迷ったら……その吉井の火を打ってみろ。己の惨めな姿がよく見えるはずだ」


孫三郎は再び火床に向き直り、鉄を打ち始めた。 「カッカッ! カッカッ!」 その音は、留二の耳には親父の煙管の音よりも、兄・留吉の嘆きよりも、激しく魂を揺さぶる警鐘のように聞こえた。


決意の夜

留二は工房を飛び出した。 懐には、吉井本家の火打ち金が一つ。


博徒となって一攫千金を夢見る興奮は、孫三郎の鉄の音に叩き潰され、代わりに「生きる」という事の、逃げようのない重みが胸に居座っていた。


「……中野の旦那、余計なお世話だ。俺は……俺は絶対、この火で中山道一の渡世人となってやる」


冬の夜空に、冷たく輝く月が浮かんでいる。 留二は火打ち金を握りしめ、国定忠治や大前田栄五郎が待つ、血と欲望の渦巻く「関八州」の闇へと足を踏み入れた。


闇と掟、そして偽善の正体

当時の博徒たちは、ただの無法者ではない。彼らは独自の「縄張り」を持ち、河岸の荷揚げ賃や宿場の利権を巡って、血で血を洗う抗争を繰り返していた。 そこに絡むのが、奉行所から十手を預かる「岡っ引き」という存在だ。


三室勘助「おい、駒形新田の親分。今月の『挨拶』、忘れてもらっちゃ困るぜ」


賭場の裏で、岡っ引きが博徒の親分に手を差し出す。犯罪を取り締まるはずの警察官が、犯罪組織のボスでもある。これこそが、現代でも使われる**「二足のわらじ」**の語源となった。三室勘助は、忠治の子分でありながら親分を八州取締出役に売った男だ。


「三室の旦那、わかってやすよ。おかげでこの寺の境内の賭場は、町奉行も手出しできませんからね」


そう、神仏のひざ元は聖域。町奉行(文官)には踏み込めない。だが、これを見過ごさないのが、凶悪犯罪専門の**「火付盗賊改方ひつけとうぞくあらためがた」**だ。彼らだけは寺社の賭場にも容赦なく雪崩れ込む。


「御用だ! 動くな!」


踏み込む側も、踏み込まれる側も、本質は変わらない。法という盾を持っているか、ドスという牙を持っているかの違いだけだ。


男伊達は泥の中から生まれる

カッカッカ!!


閉塞した時代、民衆は「法」を信じなくなった。 代わりに彼らが熱狂したのは、法からはみ出した「侠客きょうかく」たちだ。


駿河の清水次郎長、江戸の新門辰五郎・甲斐の黒駒勝蔵・竹居の吃安、上総・下総の飯岡助五郎・笹川繁三、武州の赤尾林蔵、武蔵野国の小金井小次郎等の日本を代表する任侠の祖が当時の関八州でしのぎを削っていた。特に上州には大前田栄五郎を始め、国定忠治、島村の伊三郎、観音丹治・安中の草三・舘林の江戸屋虎五郎、桐生の市郎兵衛など多くの侠客がいた。 特に栄五郎の支配は凄まじく、上州全域から江戸、尾張名古屋にまで及び、配下の子分は三千人を超えた。現代の広域暴力団をも凌ぐ絶対的権力者だ。


農家の次男坊たちは、そんな彼らに自分たちの「叶わなかった夢」を重ねる。


「おらたちの代わりに、お上に逆らってくれる」

「あんな風に、格好よく生きたい」


飢えと不平等に喘ぐ者たちにとって、彼らは単なる反社会的勢力ではなかった。泥沼のような現実から一歩外へ踏み出し、自らの腕一本で運命を切り拓く、血塗られた英雄だったのだ。


カッカッ!


冷え切った上州の夜気に、火花と共に鉄を叩く音が激しく響く。 中野孫三郎兼重が今宵打っているのは、武士が家宝として床の間に飾るような、優雅な反りを持った芸術品ではない。突き、刺し、関節を極め、泥にまみれて相手を沈めるための「人斬り包丁」——博徒たちの長どすだ。


中野家の鍛冶の技術は、武田信玄が西上野攻略で箕輪城・長野業政攻めを企てた時、甲斐より連れてきた、刀鍛冶の子孫「近江守助直」から受け継いだものである。本来なら武士の魂を作るはずのこの手が、今や火打ち金と、渡世人の人切り包丁ばかりを打っている。


「旦那、また刃毀れだ。昨日の出入りで、相手の骨を叩いちまったみたいでよ」


工房の闇から現れたのは、矢田宿の百姓を捨て、今や国定忠治一家の末端に身を置く矢田の留二だ。その腰には、兼重が打った二尺の長どす。反りが少なく、喧嘩の総合格闘技に適した「実戦凶器」である。


忠治の剣と、渡世人の牙

「留二、またお前か。……忠治殿はどうした」


「親分は、『小松五郎義兼』を磨いてやすよ。ありゃあ別格だ」留二が羨ましそうに呟く。忠治は、赤堀の馬庭念流直門の本間道場で正式に剣術を習っている。そのため刀は大刀・小松五郎義兼を持っていた。刀鍛冶義兼は本国加賀国小松より江州に移住。国定忠治の招きにより上州にて刀を作った。


国定忠治、本名・長岡忠次郎。(1811-1852)年農民の出でありながら伊与久村の私塾で孟子を学び、剣の道でも正当派を歩む彼は、自ら招いた名工・義兼の刀を持つ。それは武士の刀と同様、引いて切るための美しい姿をしている。


一方で、留二のような端くれが欲しがるのは、恰好をつけるための「長どす」だ。困窮した侍が先祖伝来の刀を質に入れるこの時代、兼重の刀を求めるのはもっぱら、家を飛び出した農家の次男や三男坊たちだった。だが、一度この「闇」の注文を受ければ、真っ当な武士は二度と兼重を刀鍛冶とは見なさない。兼重は、職人としての誇りを火打ち金と博徒の牙に込める道を選んだのだ。


「いいか、留二。お前の持つそれは、突き、刺すためのものだ。武士の真似事をして振るえば、すぐに折れるぞ」


「わかってやすよ。俺たちにゃあ、親分の『小松五郎義兼』は使いこなせねえ」


八州廻りと、蜘蛛の糸の賭場

「カッカッ、カッカッ……」


上州吉井宿。薄暗い鍛冶場に響くその音は、まるで凍てつく夜気を切り刻むかのようだった。中野孫三郎兼重は、飛び散る火花の中に己の魂を凝視していた。彼が打っているのは「吉井本家」の刻印を刻む火打ち金。だが、その隣に並べられているのは、吸い込まれるような光沢を放つ長どすだった。


天保六(1835)年。関東の空は、重く垂れ込める雲のように澱んでいた。博徒たちを震え上がらせていたのは「八州廻り」こと関東取締出役だ。高崎の岩鼻陣屋を拠点とする彼らは、天領も私領も問わず、境界を跨いで捕縛に現れる非情な法執行者。その威光は「泣く子も黙る」と恐れられていた。


しかし、そんな時代だからこそ、民草は闇の熱狂を求めた。寺社の境内という、奉行所の権力が及ばぬ「聖域」。そこには、飢饉と重税に喘ぐ農民たちが、なけなしの銭を握りしめて集まる。地獄のような日々のなかで、一攫千金という名の「蜘蛛の糸」にすがるために。


「兼重さん、またそんな怖い顔して鉄を叩いてるのかい。あんたの顔、火花より熱苦しいぜ」


鍛冶場の入り口に、一人の男がひょっこりと姿を現した。国定忠治の懐刀、八寸才助はっすんさいすけである。


「……才助か。用がないなら帰れ。鉄が冷める」

「用は大ありだよ。ほら、これを見てくれ」


才助が懐から取り出したのは、兼重が打った火打ち金だった。


「こないだこれで景気よく火をつけようとしたら、火花が強すぎて俺の着物の袖に火が移っちまった。女房に『あんたは博打で身を焦がす前に、自分の袖で心中する気かい』って呆れられたよ。ガハハ!」

「ふん、腕が悪いんだ。火打ちは手首の返しが命だと言ったはずだ」

「へいへい。だがよ、兼重さん。あんたの打つ『どす』の噂、赤城山の方まで響いてるぜ。抜けば風を斬り、鞘に納めれば魂を鎮める。忠治親分も言ってたよ。『兼重の鋼には、この世の不条理を斬り裂く力が宿っている』ってな」


兼重の手が、一瞬だけ止まった。

「……俺はただ、折れず曲がらず、よく切れる。それだけを考えて打っているだけだ」

「それが一番難しいのさ。この上州、どこを見ても曲がった野郎ばかりだからな」


才助の言葉通り、上州の闇はさらに深く、歪み始めていた。


当時、忠治一家は赤城山の洞窟を根城に、野営の逃亡生活を続けていた。三木の文蔵、大亀源吾、日光の円蔵……。彼ら剛の者たちの腰には兼重の長どすが輝き、懐には必ず「吉井本家」の火打ち金があった。


事態が動いたのは、天保六(1835)年。山王堂村の民五郎が開いた賭場だった。忠治が信頼を置く民五郎のシマを、玉村宿を拠点とする無法者、玉村京蔵・主馬しゅめの兄弟が荒らし始めたのだ。


「国定のコウモリどもが! 洞窟の中で震えてやがれ!」


玉村兄弟の暴挙は止まらず、民五郎の賭場は荒廃した。これは忠治一家に対する明らかな宣戦布告だった。


忠治は動いた。差し向けられたのは、神崎友五郎、そしてあの八寸才助。 「才助、その腰の獲物……兼重の魂を汚すなよ」 忠治の低い声に、才助は無言で頷いた。


山王堂村の闇夜。襲撃の合図は、兼重の打った火打ち金が放つ、鮮烈な一条の火花だった。


「出ろッ!」


才助の声と共に、兼重作の長どすが鞘を走り、夜気を引き裂いた。 玉村京蔵が慌てて刀を抜くが、兼重の鋼は次元が違った。接触した瞬間、京蔵の安物の刀が、まるでもろい薪のように火花を散らして弾き飛ばされた。


「な、なんだこの切れ味は……! 俺の刀が、豆腐みたいに……!」

「驚くのはまだ早いぜ。これは、上州の執念が打った鋼だ!」


才助の振るう刃は、迷いなく闇を断ち、玉村一派を圧倒した。神崎友五郎の太刀筋も冴え渡り、凶暴を誇った玉村兄弟は、なす術もなく山王堂の森へと敗走していった。


数日後の深夜。吉井宿の鍛冶場に、一人の男が訪れた。 才助ではない。笠を深く被り、その眼光だけで周囲の空気を凍らせる男。国定忠治である。


「兼重。才助たちが戻った。お前の鋼、見事だったそうだ」

「……そうですか。役目を果たしたのなら、鋼も本望でしょう」

「だがな、兼重。鋼は役目を果たしたが、俺の心はまだ晴れぬ。玉村の背後には、岩鼻陣屋の影がある。八州廻りが、俺たちを根こそぎにするために動き出した」


忠治は懐から、一振りの折れた刀身を取り出した。それは、出入りの最中に才助が拾い上げた、玉村兄弟の側近が持っていたものだ。


「これを見ろ。……この銘、見覚えはないか?」


兼重がその折れた鋼を手に取り、火にかざした。そこには、兼重がかつて共に修行し、非道な振る舞いゆえに破門された弟子の名が刻まれていた。


「……まさか、あいつが八州側に」

「ああ。法と暴力が手を組んだ。これからの上州は、ただの博徒の喧嘩じゃ済まねえ。血で血を洗う、本当の地獄が始まる」


忠治は兼重の目をじっと見据えた。


「兼重。お前に頼みたい。……刀ではない。もっと恐ろしく、もっと確かな『火』を打ってくれ。この上州の闇を、根底から焼き尽くすような、消えない火を」


兼重は答えなかった。ただ、冷めかけた鉄を再び炉に投げ込んだ。 ふいごを吹く音が、激しく鳴り響く。


「カッカッ、カッカッ……!」


その槌音は、もはや職人のリズムではなかった。 それは、迫り来る巨大な権力と、裏切りの連鎖に対する、宣戦布告の咆哮だった。


兼重の打つ火打ち金が、次に散らすのは、人々の暮らしを温める灯りか。 それとも、上州すべてを灰にする、滅びの炎か。


夜は、まだ始まったばかりである。

出入りが多くなり、子分が増えるほど兼重の仕事は忙しくなった。




姫街道を抜ける風

「旦那、大戸の関所を破っちまった。もう、お天道様の下は歩けねえ」


忠治が信州の義弟兆平を殺した波羅七を討つために大戸の関所を破った天保七(1835)年。それ以降、上州と信州を往復する際、検問のきつい中山道は通れない。彼らが選んだのは、兼重の工房がある吉井を経由する「姫街道」の抜け道、入山峠だった。


「兼重さん、あんたの火打ち金、少しばかり火花が強すぎやしねえか?」


逃亡生活の最中、食料の調達を兼ねて工房に立ち寄ったのは、忠治の側近、三木の文蔵みきのぶんぞうだった。


「文蔵さんか。火花が強いのはいいことだろう。闇夜で道を照らすにゃ、明るいほうがいい」

「限度ってもんがあるぜ。こないだ山の中で夜露を凌ごうと焚き火を熾したら、火花が勢いよく飛びすぎて、俺の新しい合羽の裾に穴が開きやがった。女房にゃ『あんたは火を熾すのも下手なのかい、それとも火遊びが過ぎて罰が当たったのかい』って、こっぴどく絞られたよ。ガハハ!」

「ふん、手元が狂ったんだろう。火打ちは石の角を正確に叩けと言ったはずだ。あんたの剣筋と同じだよ」

「……手厳しいねぇ。だがよ、兼重さん。あんたの打つ『どす』のおかげで、俺たちはまだ生きてる。八州廻りの役人どもが血眼で追ってきても、この刃を抜けば、奴らの腰が引けるのが分かるのさ」


兼重は答えず、真っ赤に焼けた鉄を水に浸けた。ジッ、と激しい蒸気が上がり、鍛冶場を白く包み込む。 「俺は、折れず、曲がらず、よく切れる。それだけを考えて打っている。……法に背いたあんたたちが、せめて野垂れ死にしないための『守り刀』だ」


「カッカッ!」

と鉄を打つ音が、夜霧の中を逃れる忠治一家の耳に届いていたかもしれない。 忠治の人気を決定づけたのは、その後の行動だった。私財を投げ打って窮民を救い、博奕のあがりで農業用水路を整備した。重税を強いる名主を牽制し、贈収賄に手を染めた目明しを斬り捨てる。法を破りながらも、法が守らぬ弱者を擁護するその姿は、民衆の間で伝説と化していった。


天保九(1837)年。一方で田部井村名主の重税にあえぐ村人。

「忠治がさ、田部井村の名主様に“税を軽くしてくれ”って頭下げたんだとよ」

「へえ、そりゃ殊勝じゃねえか。で、名主様は聞いたのか?」

「それがよ、てんで相手にしなかったらしい」

「相変わらずだな。あの名主…」

「おまけにだ。関東取締出役が、その名主とつるんで賄賂のやり取りしてたのがバレたんだと」

「なんだよ、それ。ドロッドロ泥まみれじゃねえか」

「だろ? ところが、その不正を隠そうとした“目明し”がいてな」

「……まさか」

「そのまさかだ。忠治が、そいつをばっさり斬った」

「うわ……。そりゃもう後戻りできねえな」

「案の定、八州を追われる身さ。でもよ――」

「でも?」

「不思議なもんでな。追われりゃ追われるほど、民衆は言うんだ」

「なんて?」

「“忠治親分こそ、本当の英傑だ”ってな」

この事件は、農民民衆を擁護する弱者の立場に立った忠治の姿勢が、民衆の絶大な支持を得て、戯曲や口伝の英雄として伝説化されていくのである。

ついに、天保十一(1840)年。八州取締岩鼻代官所から全国指名手配となる。



終焉の火花:二足のわらじの末路

しかし、お上の追及は止まらない。 天保十三(1842)年、忠治の甥・板割の浅太郎が、警察でありながら博徒でもある「二足のわらじ」の三室勘助を殺害。幕府のメンツは丸潰れとなった。

岩鼻代官所の総攻撃が始まった。


嘉永三年、夏。 兼重の工房に、一人の男が転がり込んできた。忠治一家の末席にいた留二とめじである。


「兼重さん……もう、終わりだ……」

留二の目は落ち窪み、逃亡生活の疲弊が泥のようにこびりついていた。

「三木の文蔵の兄貴が捕まり、世良田の賭場が急襲された。神崎友五郎も、八寸才助も……みんな、刑場の露と消えちまった」


兼重は、留二の腰にある長どすを手に取った。 それは、かつて自分が魂を込めて打った一振りだった。刃こぼれがひどく、血と脂で曇っている。


「……親分は?」

「国定村に潜伏中だ。だが、中気で倒れ……もう、指一本動かせねえらしい」


兼重は、黙ってその刀を研ぎ始めた。

シュッシュッシュッシュッシュッ

砥石の音が、静まり返った工房に響く。 この鋼は、かつて忠治の志を支えた。だが今、その鋼を振るう腕は次々と奪われ、残されたのは病床の親分一人。


「留二。これを持っていけ」 兼重は、研ぎ上げた刀と、新しく打った「吉井本家」の火打ち金を差し出した。

「最後の一人になっても、火だけは絶やすな。光があれば、民は親分のことを忘れねえ」


数日後、風の噂が届いた。 国定忠治、捕縛。 罪状は多岐にわたったが、適用されたのは最も重い「関所破り」。 判決は、はりつけ


忠治の最後


かっかっかっかっかっかっかっかっかっかっ


嘉永三(1850)年、初冬の上州。赤城山から吹き下ろす「からっ風」は、骨の髄まで凍てつかせる鋭さを持っていた。


中野孫三郎兼重の工房では、今日も乾いた鉄音が響いている。だが、その音はどこか重く、湿り気を帯びていた。


「……親方、もうそれくらいにしましょうや。あんた、昨日から一睡もしてねえ。鉄が泣いてますぜ」


弟子の留二が、珍しく神妙な顔で茶を差し出した。

「留二、うるせえ。俺が打たなきゃ、誰があの男の『魂の抜け殻』を供養してやるんだ」


兼重が打っていたのは、火打金ではなかった。それは、一振りの鈍い光を放つ小さな鉄の塊。その裏には、国定忠治という男がかつて愛した「義」の文字が刻まれようとしていた。


嵐の去った後

「国定の親分、いよいよ明日が大戸の刑場だそうで……」 留二が声を落として言った。 博奕、殺人、そして最も重罪とされる大戸関所の「関所破り」。天下のお尋ね者として、江戸の小伝馬町から上州へ引き回されてきた忠治。幕府は、この希代のアウトローを磔刑に処すことで、反抗的な民衆への見せしめにしようとしていた。


「死ぬ前日に酒を所望したって話だ。権田の『長盛』を一椀ぐいっとやって、雷のようないびきをかいて寝たらしい。……全く、最後まで世話の焼ける野郎だ」


兼重は、くすっと自嘲気味に笑った。 かつて忠治の用心棒、留二の長どすを修復し、忠治自身の愛刀『小松五郎義兼』をその手に握らせた日のことを思い出す。あの時の忠治は、まるで上州の空をすべて飲み込むような大きな火を宿していた。


「親分は二杯目の酒を断ったそうだ。『死に臨んで酔ってしまっては、死を恐れたことになる』とな。……あいつらしい、不器用な矜持だよ」


大戸の断末魔、そして職人の誓い

翌日、大戸の処刑場には千五百人の群衆と、三百人の警護兵が詰めかけた。 磔台に登った忠治は、刑吏に向かって「よろしくお願いします」と一礼したという。一槍突かれるごとに、忠治はカッと目を見開き、見物人たちを圧倒的な眼光で見回した。十四回、槍がその体を貫く。だが、忠治は最後まで屈しなかった。


「……カッカッ! カッカッ!」


その時刻、兼重は工房で狂ったように槌を振るっていた。 十四の傷跡を、自らの胸に刻むように。 忠治が私財を投じて作った用水路は今も田を潤し、飢饉で苦しんだ民を救った。幕府がどれほど罪人として貶めようと、上州の民にとって彼は「神」であった。


「三日間、遺体を晒し者にするだと? ふざけるな……」


兼重の目が、火床の炎よりも鋭く光った。 「あれほど民のために尽くした人の首を、カラスの餌になんかさせてたまるか。留二、支度をしろ。今夜、大戸へ走る」


「えっ、旦那、まさか……! 捕まったら俺たちも磔ですよ!」

「安心しろ、留二。お前は足が速い。逃げる時だけは『念流』の達人より速いだろうが」

「……へいへい。全く、俺の足は逃げるために神様がくれたもんですからね」


3. 深夜の略奪と、永遠の眠り

闇夜に乗じ、兼重は養寿寺の住職・法印貞然と密かに連絡を取り、忠治の首を盗み出した。 役人の目を盗み、冷たい桶に納められたその首は、皮肉なほど穏やかな表情をしていたという。


「親分……よく、戦い抜いたな」


兼重は、国定村の養寿寺へとその首を届けた。貞然はそれを深く憐れみ、「長岡院法誉花楽居士」という戒名を与え、密かに埋葬した。 後に関東取締出役の探索が厳しくなった時、貞然は再びその首を掘り起こし、誰にも分からぬ場所へ隠したという。それは、上州の土と忠治が一つになった瞬間であった。


鉄に込めた挽歌

「……あばよ、通り者たち。お前たちの生きた証は、この鉄の中に確かに刻んでおいてやる」


兼重は、完成した火打金を打った。 バチッ、と激しい火花が散る。それは一瞬の輝きの後、冷たい闇に消えていく。


「なあ、留二。お前が言った通り、あの男の火は大きすぎたのかもしれねえな」


暗闇の中で、兼重は一人呟いた。 国定忠治という男が上州の空に咲かせた任侠の華も、この一瞬の火花と同じだ。だが、その火花が百姓の家の囲炉裏を照らし、誰かの心を温め続ける限り、あの男は死なない。


「死を恐れなかった男の首を、俺がこの手で守り抜いた。……それで十分だ」


兼重の打つ鉄音は、からっ風に乗って夜の果てまで響き渡っていく。 それは処刑されたアウトローへの鎮魂歌であり、暗闇を生き抜く民へのエールでもあった。


翌朝、兼重の工房を訪れた村人が、地蔵の足元に置かれた新しい火打ち金を見つけた。 その裏には、ただ一文字、**「義」**とだけ刻まれていたという。


からっ風が吹き抜ける。上州の冬はまだ始まったばかりだ。だが、中野屋の火床には、今日も絶えることのない熱い炎が赤々と燃え盛っていた。

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